藍が朝食の準備をする音を聞きながら、紡は昨夜見つけた「欲望の地図」を脳裏に反芻していた。
羊皮紙に描かれた複雑な紋様と、無数の線で結ばれた点の集合体。
そして、そこに刻まれた招待状の紋章。
藍の父親と林 耀が、あの「天響研究所」で何を研究していたのか。
そして、この地図が、その研究とどう繋がっているのか。
「紡、ご飯できたよー!」
藍の声に、紡はハッとして我に返る。
平静を装い、食卓についた。
藍の無邪気な笑顔が、紡の心に重くのしかかる。
この笑顔の裏に、どれほどの危険が迫っているのだろう。
(知らなければ、よかったのだろうか……。このまま、何事もなかったかのように、藍と笑い合っていられたら……)
藍が大学へと出かけた後、紡は再び書斎へと向かった。
昨夜は時間がなく、詳しく調べることはできなかった。
「欲望の地図」を広げ、机の上に置く。
すると、紡のポケットの中の招待状が、微かな熱を帯び、脈動を始めた。
まるで、地図と招待状が呼応し合っているかのようだ。
紡は、万年筆を手に取った。
藍の父親が使っていたものだろうか。
地図をじっと見つめる。
意味不明な記号の羅列に、どこから手を付けていいのか分からない。
「繋がれる者を見極めよ」――招待状のメッセージが頭の中で響く。
その時、紡の視線が、机の隅に立てかけられた、古びた家族写真に留まった。
写真には、藍の父親が、若い頃の藍を抱いて写っている。
その表情は、どこか疲れているが、深い愛情に満ちていた。
そして、その写真の裏に、手書きの走り書きがあることに気づいた。
『研究は、人の心を蝕む。
しかし、魂の救済には……』
その言葉は、途中で途切れていた。
「魂の救済」――?
藍の父親は、何を救済しようとしていたのか。
そして、その研究が、どう心を蝕むというのか。
紡は、写真の裏の言葉を、万年筆で「欲望の地図」の余白に書き写した。
書き終えた瞬間、地図の紋様が、まるで脈打つかのように淡い光を放った。
その光は、地図全体を包み込み、ゆっくりと、ある一点に集まっていく。
その一点から、これまで見えなかった線が伸び、地図上の別の紋様へと繋がっていく。
まるで、地図が新たな情報を紡ぎ出しているかのようだった。
「これは……!」
紡は、息をのんだ。
地図は、まだ隠された情報を持っていたのだ。
紡が書き写した言葉が、その鍵となった。
すると、テーブルに置いていたスマホが鳴った。
林 耀からの着信だ。
紡は、一瞬身構えた。
無視すべきか。
地図が示した新たな情報、そして藍の父親の「魂の救済」という言葉の真意を知りたいという好奇心が、恐怖を上回った。
このタイミングで、林 耀が何を伝えたいのか。
「……もしもし。」
紡は、意を決して電話に出た。
「小鳥遊さん。
お元気ですか。
おや、藍沢さんの家ですか?
ずいぶんとお似合いですよ。
まるで、そこにいるのが、昔から決まっていたかのようです。
昨日は、大変失礼いたしました。」
林 耀の声は、いつもと変わらない穏やかさだった。
しかし、その声の裏に、得体のしれない冷たさが潜んでいることを、紡は知っていた。
(なぜ、私が藍の家にいることを……!
この人は、どうやって……まさか、私が何をするか、全て分かっている……?)
紡は、電話口で硬直した。
林 耀は、やはり、すべてお見通しなのだ。
「どういうご用件ですか、林 耀さん。」
そう尋ねた声は、紡自身が思っていたよりも、震えていた。
「少し、お話ししたいことがありまして。
貴女が、私の過去に興味を持っていることも、分かっています。」
林 耀は、全て見透かしたように言った。
「貴女が今、私の『居場所』を突き止めたいと強く願っていることも、手に取るように分かりますよ。
ですから、お話しましょう。
貴女が知りたいと思っていること。
そして、貴女の『書』の力について、より深くお話しできる場所があります。」
林 耀の言葉に、紡の心臓が跳ね上がった。
(この人は、私の思考を、読んでいる……!? まるで、鏡に映った自分を見ているように……!)
林 耀の居場所。
それは、林 耀自身の「根源」にさらに近い場所かもしれない。
罠かもしれない。
新たな情報が得られる可能性もある。
(林 耀の目的は、私の『書』の力。でも、もし私が彼の元へ行かなければ、彼は藍に何かするかもしれない……!)
「今から、お迎えに上がってもよろしいですか?」
林 耀の声は、まるで紡に選択の余地を与えないかのように、静かに断固として響いた。
(嫌だ……!この人のペースに乗せられるのは、もう嫌だ……!)
紡は、地図の上に視線を落とした。
地図は、新たな線で結ばれた紋様が、まるで脈打つかのように光を放っている。
「繋がれる者を見極めよ。」
招待状のメッセージが、脳内で反響する。
(林 耀さんの『居場所』……
そこに、全てが繋がる鍵があるのか……?)
危険は承知の上だ。
だが、林 耀の真意を完全に暴き、彼の目的を阻止するためには、この道しかない。
何よりも、藍を守るために、私は、この『支配』を受け入れなければならない。
「……分かりました。」
紡は、小さく答えた。
電話の向こうで、林 耀が満足げに微笑んだ気配がした。
「すぐに伺います。では。」
電話が切れる。
紡は、広げられた「欲望の地図」をじっと見つめた。
地図が示すのは、林 耀の「真の欲望」へと続く、危険な道筋。
そして、その道は、林 耀自身の「居場所」へと続いているように思われた。
紡は、招待状を強く握りしめた。
その紙片から伝わる微かな熱が、新たな戦いの始まりを告げているかのようだった。