深夜。
藍の寝息が聞こえるリビングのソファで、紡は目を閉じていた。
時計の針は午前二時を回っている。
藍が深く眠りについたのを確認し、紡は静かに身を起こした。
(書斎は、どこだろう……)
藍沢邸は、藍の父親が設計したというだけあって、迷路のように複雑な造りをしていた。
軋む床板に細心の注意を払いながら、紡はリビングの奥へと進む。
薄暗い廊下の突き当りに、分厚い木の扉があった。
微かに漂う古紙の匂い。
ここが、藍の父親の書斎だろう。
扉は、鍵がかかっていなかった。
軋んだ音を立てないよう、ゆっくりと開く。
書斎の中は、予想以上に雑然としていた。
壁一面に並んだ本棚には、専門書らしきものがぎっしりと並んでいる。
机の上には、設計図のようなものや、使いかけの鉛筆、そして読みかけの本が無造作に置かれていた。
時間の流れが止まったかのような空間だ。
紡は、ポケットの中の招待状をそっと握りしめた。
招待状は、静かに、しかし確かに脈動している。
まるで、この場所が「鍵」に繋がっていることを教えているかのようだ。
「古い木の箱」──藍の言葉を頼りに、紡は書棚の奥を丹念に探し始めた。
手のひらで本の背をなぞり、棚の隅々まで目を凝らす。
埃が舞い上がり、微かな鼻の奥がむず痒くなる。
その時、視線の片隅に、不自然な隙間が目に入った。
いくつかの本が、まるで隠すかのように押し込められている。
紡は、それらの本をゆっくりと引き抜いた。
本の裏には、壁に埋め込まれたかのような小さな窪みがあった。
そして、その窪みの中に、ひっそりと置かれていたのは、まさしく探していた「古い木の箱」だった。
箱は、手のひらに収まるほどの大きさで、使い込まれた木の表面は滑らかに磨耗している。
蓋には、何の装飾もない。
林 耀がこれほど執着するものが、こんな素朴な箱に入っているのだろうか。
紡は、ゆっくりと箱を開けた。
中には、古びた羊皮紙の巻物と、使い古された万年筆が収められていた。
巻物には、複雑な紋様と、見慣れない文字がびっしりと書き込まれている。
その文字は、まるで生きているかのように、紡の視線を惹きつけた。
「これが……欲望の地図……?」
紡は、巻物をそっと広げた。
羊皮紙は、年月を経て黄ばみ、触れると今にも崩れ落ちそうだ。
そこに描かれていたのは、抽象的な紋様と、無数の線で結ばれた点の集合体だった。
それは、まるで星図のようでもあり、人間の脳の神経回路図のようでもあった。
その地図に触れた瞬間、紡の心に、これまで感じたことのないほど広大でどこか虚ろな感覚が流れ込んできた。
それは、誰かの終わりなき探求の旅の痕跡のように感じられた。
そして、その紋様の中に、微かに見覚えのある記号があることに紡は気づいた。
招待状に刻まれた「紋章」だ。
紋章は、この「欲望の地図」の一部として、複雑な繋がりの中に描かれている。
その地図を読んでいると、紡の脳裏に、藍の父親の声が聞こえてくるような気がした。
『これは、人間の心の奥底に眠る「真の欲望」の軌跡。
誰もが持つ、しかし誰も認識できない、無意識の渇望の道筋を記したものだ。』
まるで、藍の父親が、この地図に込めた想いを紡に直接語りかけているかのようだ。
すると、紡の手の中の招待状が、激しく熱を帯び、脈動を始めた。
招待状の白い表面に、文字が浮かび上がる。
『「地図」は、道を示す。
「渇望」の果てに、
貴女の「真の欲望」が待つ。
「繋がれる者」を、見極めよ。』
招待状の「声」が、紡の脳内に直接響き渡った。
「繋がれる者」――?
それは、林 耀のことだろうか?
それとも、藍のことだろうか?
この「欲望の地図」は、林 耀の目的とどう繋がっているのだろう。
そして、藍の父親は、なぜこのようなものを残していたのか。
紡は、視線を箱の底へと移した。
羊皮紙の下に、もう一枚、薄い紙が敷かれている。
それをそっと持ち上げると、下から古い写真が出てきた。
写真には、若き日の藍の父親が写っている。
白衣を着て、笑顔で何かを指さしている。
そして、その隣には、見覚えのあるもう一人の人物が立っていた。
若き日の、林 耀だ。
林 耀は、当時からどこか知的な雰囲気を纏っていたが、その表情は今よりもずっと穏やかで、希望に満ちているように見えた。
林 耀は藍の父親と同じ白衣を着ており、まるで共同研究者か、あるいは師弟関係のようにも見える。
(まさか……藍のお父さんと、林 耀が……!)
紡の心臓が、激しく跳ね上がった。
林 耀が、藍の父親の友人を装って藍沢邸に接触した理由が、今、明確に繋がった。
彼らは、かつて深い繋がりがあったのだ。
天響研究所の火災。
林 耀が、唯一の生存者だったこと。
そして、「人間の意識と物質の相互作用」という研究。
藍の父親は、林 耀と共に、あの研究に携わっていたのかもしれない。
そして、この「欲望の地図」は、その研究の成果、あるいは鍵となるものだったのだ。
紡は、混乱した。
藍の父親が、林 耀のような危険な男と、かつて関わっていた。
(この研究は、一体何だったんだろう……。そして、あの火災は、偶然ではなかったのかもしれない……)
そして、藍は、そのことを何も知らない。
あの火災で、藍の父親は生き残ったのだろうか?
もし生き残っていたら、なぜ林 耀は、藍の父親を装って家に来たのか?
全てのピースが繋がり始める一方で、新たな謎が紡の心を締め付ける。
林 耀の「真の欲望」の根源に、藍の父親が関わっていた。
そして、藍自身も、この闇に深く関わっている可能性が出てきた。
(藍を守らなければならない……!私は、もう、誰かの支配下で、何もできない自分じゃない……!)
しかし、どうすれば。
林 耀は、すべてを見透かすかのように、紡の行動を読んでくる。
紡は、急いで巻物と写真を箱に戻し、窪みに隠した。
万年筆も、そのままにしておく。
夜の
藍の家の秘密が、今、静かに、
しかし確実に紡の目の前に広がり始めていた。
(つづく)