翌日。
藍沢邸へ向かうバスの中で、紡は神崎の言葉を反芻していた。
「藍沢邸には、貴女が『真の欲望』の全てを知るために必要な、『欲望の地図』が隠されている。」
「林 耀が残した、貴女の『書』の力を読み解くための『鍵』が。」
なぜ、藍の家に?
神崎はなぜ、その場所を言い当てることができたのか?
そして、藍が、林 耀と繋がっているとでもいうのだろうか。
藍は、紡にとって唯一無二の親友だ。
明るく、無邪気で、少しわがままなところもあるけれど、いつも紡を必要としてくれる。
そんな藍が、林 耀のような危険な男と接点があるとは、信じたくなかった。
インターホンを鳴らすと、すぐに藍が顔を出した。
「紡!どうしたの、急に。連絡もなしに!」
藍は、いつものように明るい笑顔で、紡を中に招き入れた。
その無邪気な笑顔を見ていると、林 耀や招待状に関する全てのことが、まるで悪夢だったかのように思えてくる。
「ごめんね、急に来ちゃって。
ちょっと話したいことがあって……」
紡は、曖躇しながらも、内心で「欲望の地図」を探すための機会を伺っていた。
親友を欺くことへの罪悪感が、胸をチクチクと刺す。
それでも、林 耀の企みを阻止しなければならないという使命感が、紡の心を支配していた。
リビングに通されると、藍は紅茶を淹れてくれた。
部屋の中は、いつもと変わらない、藍らしい賑やかな雰囲気だった。
「で、話したいことって何?
もしかして、彼氏できたとか!?」
藍が、からかうように笑顔で尋ねる。
紡は、ぎこちなく笑い返した。
「そんなんじゃないよ。
最近、ちょっと変わったことがあって……」
紡は、招待状や林 耀のことを、どこまで話すべきか迷った。
今の藍に話しても、信じてもらえるだろうか。
混乱させてしまうだけかもしれない。
その時、藍の視線が、紡のポケットに吸い寄せられた。
「あ、それ!紡、いつも持ってるよね。そのカード。」
藍の言葉に、紡はハッとした。
(招待状……!)
藍は、招待状の存在に気づいていたのか。
「これ、最近、変なメッセージが出てくるんだよ。」
紡は、思い切って、招待状を少しだけ藍に見せた。
藍は、興味津々といった様子で、身を乗り出した。
「えー!
何これ、すごいじゃん!
メッセージが出てくるカードなんて、なんかゲームみたい!」
藍は、無邪気に目を輝かせた。
その反応は、紡が予想していたよりも、はるかに軽いものだった。
招待状の恐ろしさや異質さを、藍は全く感じ取っていないようだ。
それが紡を安心させると同時に、より強い焦燥感を抱かせた。
「へー、なんか不思議な模様だね。
これ、どこで手に入れたの?」
藍は、紋章が刻まれた招待状をじっと見つめた。
「それが、覚えてないんだ……気づいたら持ってたって感じで。」
紡は、嘘ではないが、核心をぼかして答えた。
「そっかー、不思議だね!」
藍は、それ以上追求することなく、あっさりと話題を変えた。
「そういえばさ、この間、またあの変な人が来てさー。」
「変な人?」
紡は、思わず身を乗り出した。
(もしかして、林 耀さん……?)
「うん。
なんか、スーツ着た、すっごい笑顔なのに目が全然笑ってない感じの人。
あの笑顔、なんか、人の心が全部見えるみたいで、気持ち悪かったんだよね。
前に一回、変な宗教の勧誘かと思って追い返したんだけど、この間はなんか、父さんの友達とか言って、強引に上がってきちゃってさ。」
藍は、顔をしかめて言った。
紡の心臓が、ドクン、と大きく鳴った。
「その人、名前はなんて言ってた?」
「えーと、たしか……林 耀さんとか言ってたかな?
なんか、変な名前だよね。」
やはり、林 耀だ。
紡の表情が、一瞬にして凍り付いた。
林 耀が、藍の家に来ていた。
しかも、父の友人を装って。
「その人、何か変わったこと言ってなかった?」
紡は、必死に平静を装いながら尋ねた。
「うーん?
なんか、やたらと家の古いものを気にしてたかな。
『この家には、価値のあるものが眠っている』とか、ブツブツ言ってて、超怪しかったんだけど。」
藍は、思い出すように首を傾げた。
「価値のあるもの……?」
神崎の言葉が、脳裏をよぎる。
「貴女の『書』の力を読み解くための『鍵』」。「欲望の地図」。
「そうそう。
特に、父さんの書斎の奥にある、古い木の箱のこと、やたら聞いてきたんだよね。
あの人、あれに何か用があったのかな?」
藍の言葉に、紡の心臓が激しく脈打った。
(古い木の箱……!)
それが、「欲望の地図」が隠されている場所なのかもしれない。
「それで、その箱って、どこにあるの?」
紡は、前のめりになって尋ねた。
藍は、少し不審そうな顔で紡を見た。
「ん?
なんでそんなに気になるの?
ただの古い箱だよ?別に変なものじゃないし。」
「いや、その、ちょっと興味があって……」
紡は、必死に言葉を濁した。
藍は、腕を組み、怪訝な表情で紡をじっと見つめた。
「……なんか、紡、最近変だよ。
あのカードのせい?」
藍の瞳には、いつもと違う、心配そうな色が浮かんでいた。
紡の「空っぽな心」のことも、敏感に察していたはずだ。
その藍に、嘘を重ねていることが、紡の心をチクリと刺した。
(ごめん、藍……。でも、あなたを危険な目に遭わせるわけにはいかない……)
紡は、精一杯の笑顔を作った。
「そんなこと、ないよ。大丈夫。」
紡は、精一杯の笑顔を作った。
林 耀の危険性を、藍に話すことはできない。
もし話せば、藍を危険に晒してしまうかもしれない。
林 耀が、藍を利用して、私を操ろうとしている可能性もある。
藍は、紡の言葉を信じたわけではないようだが、それ以上は何も言わなかった。
「まぁいいや。
あの箱なら、父さんが大事にしてたやつだから、書斎の奥に厳重にしまってあるよ。
今は誰も使ってないし、ほこりまみれになってるけど。」
藍は、そう言いながら、リビングの隅にある古い写真立てに目を向けた。
写真の中には、若き日の藍の両親と、
そしてまだ幼い藍の姿があった。
藍の父は、少し疲れたような顔をしていたが、優しい眼差しで藍を見つめている。
紡は、藍の視線の先に、微かな悲しみが宿っているのを感じた。
(藍も、私と同じ……?「喪失」を抱えている……?)
林 耀は、以前、藍のことを
「貴女に甘える人もいるでしょう。
貴女の優しさに付け込み、その心のエネルギーを吸い取ろうとするような……」と言った。
あの言葉は、藍の抱える「喪失」を指していたのかもしれない。
林 耀は、人の心の弱さを、巧みに見抜いている。
そして、それを利用しようとする。
「ねえ、紡。
今夜、泊まって行かない?
久しぶりにゆっくり話したいし。」
藍が、唐突に言った。
紡は、一瞬ためらった。
「欲望の地図」を探さなければならない。
しかし、藍の寂しそうな瞳を見て、断ることができなかった。
(今夜、藍が寝てから、書斎を探そう……)
紡は、心の中で決意した。
その夜。
藍が寝息を立てるのを確認し、紡は静かにベッドから抜け出した。
手のひらの招待状が、微かに脈打っている。
夜の闇に包まれた藍沢邸で、紡は「欲望の地図」を求めて、林 耀が残した影を辿り始める。
(つづく)