大学のキャンパスで、紡は神崎 厳と向かい合っていた。
夕暮れの茜色が、二人の姿を長く引き伸ばす。
手の中の招待状は、今はただの白い紙片に戻っている。
しかし、その紙片が、つい先ほどまで、自分を廃墟からこの場所へと瞬間移動させたのだ。
「私が……あの力を……?」
紡の声は、まだ震えていた。
信じられない。
自分の内に、そんな途方もない力が眠っていたなど。
「それは、貴女自身が引き出した力です。
貴女の『真の欲望』が、それに耐えうるだけの『渇望』を抱いたからこそ、あの『書』が反応した。」
神崎の声は、穏やかだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「私の『真の欲望』が、『支配されることの拒否』……」
紡は、林 耀の言葉を思い出す。
「貴女の『真の欲望』は、彼にとって都合が良い」と。
そして、林 耀が求める「死を克服する力」が、世界の理を歪め、「全てを無に帰す」ものだという招待状の警告。
神崎は、紡の目を見つめた。
「貴女はこれまで、他者からの承認を求めることで、自身の存在を確かめようとしてきた。
それは、ある意味で、他者の評価に『支配される』ことでもあった。
しかし、林 耀に命の危険を感じた時、貴女は『支配されること』を拒否した。
それが、貴女の『根源』の一つだ。」
神崎の言葉は、まるで紡の人生を全て見通しているかのようだった。
彼がなぜそこまで知っているのかという疑問よりも、紡の心に突き刺さったのは、「支配」という言葉だった。
「空っぽな心」を埋めるために、常に他者の顔色を伺い、良い子でいようと、期待に応えようと、そうやって生きてきた。
誰かに認められることで、自分の価値を決めようとしていた。
それは、自分の意志だったと思っていた。
他人という名の支配者に、自分の人生を明け渡していただけだったのだ……
実は「支配」されていたのだと、神崎は突きつけた。
その事実に、紡は息をのんだ。
これまで自分の人生だと信じてきたものが、根底から覆されたような感覚だった。
同時に、胸の奥で、確かに何かが弾ける音を聞いた気がした。
「では、あの力を、私はどうやって使えばいいんですか……?」
紡は、招待状をじっと見つめた。
「それは、『書』が貴女に示してくれるでしょう。
貴女の『真の欲望』が、新たな形を求める時に。」
神崎は、再びポケットから手帳を取り出した。
「林 耀は、貴女がその力を覚醒させたことを知った今、さらに執拗に貴女を狙うでしょう。
彼の次の動きは、恐らく……」
神崎は、手帳のあるページを指さした。
そこには、一つの場所が記されていた。
「天響研究所 地下研究室 封鎖区画」
「彼は、天響研究所に残された、まだ回収されていない『研究データ』を狙っているはずです。
火災の際、地下の最も深い区画だけは、奇跡的に焼失を免れたという情報があります。」
紡は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
あの焼け落ちた研究所に、まだ何か残っているというのか。
そして、林 耀がそれを狙っている。
「では、私たちもそこへ……?」
紡が尋ねると、神崎は首を横に振った。
「いえ。
林 耀は、貴女がそこへ来ることを読んで、罠を仕掛けるかもしれません。
貴女には、別の場所に、行ってほしい。」
神崎は、手帳の別のページを開いた。
そこに記されていたのは、「藍沢邸」という文字と、住所だった。
「これは……藍の家?」
紡は、思わず声を出した。
「彼女の家には、林 耀が残した、貴女の『書』の力を読み解くための『鍵』が隠されている。」
神崎の言葉に、紡は困惑した。
なぜ藍の家に?
藍が、林 耀と繋がっているとでもいうのか?
いや、それよりも、あの林 耀が、自らの目的のための「鍵」を、そんな場所に残すだろうか?
まるで、誰かが紡をそこへ誘導しようとしているかのように。
神崎は、紡の疑念を察したように、淡々と言葉を続けた。
「林 耀は、常に先を見ている。
貴女が林 耀の過去を探ることは、彼にとって想定内だったはずだ。
しかし、彼の盲点があるとするならば、それは、貴女自身の『真の欲望』が、彼の予想を超えて覚醒した、という事実だ。」
神崎の言葉は、紡に、かすかな希望を与えた。
林 耀もまた、全てを支配できるわけではない。
「藍沢邸には、貴女が『真の欲望』の全てを知るために必要な、『欲望の地図』が隠されている。それは、貴女が『空っぽ』をどう埋めようとしてきたか、その全ての軌跡が記された、貴女自身の心の羅針盤です。」
神崎の言葉に、紡は改めて招待状を握りしめた。
『欲望の地図』。神崎は、招待状をそう呼んだ。
それは、まるで、紡の「空っぽな心」を埋めるための、道標のように感じられた。
林 耀は天響研究所の地下、紡は藍沢邸へ。
二人の行動が分かれることで、紡が林 耀の支配から逃れるための、新たな局面が始まる。
「わかりました。」
紡は、迷いを振り切るように、はっきりと答えた。
もう、誰かに言われたからではない。自分自身の意思で、この道を選び取る。
林 耀の企みを阻止するため、そして自身の「真の欲望」を知るため。
紡は、自ら危険な道を選び取った。
夜の
その光の下で、紡は神崎に深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、神崎さん。」
神崎は、無言で頷くと、夜の闇へと溶け込むように去っていった。
紡は、一人、立ち尽くした。
手のひらの招待状が、じんわりと温かい。
その温かさが、これから始まる、未知の旅への、ささやかな勇気を与えてくれるようだった。
藍の家。
そこに隠された「欲望の地図」とは、一体何なのだろう。
そして、藍は、その「鍵」について何か知っているのだろうか……?
(つづく)