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第13話:二つの道標

大学のキャンパスで、紡は神崎 厳と向かい合っていた。

夕暮れの茜色が、二人の姿を長く引き伸ばす。


手の中の招待状は、今はただの白い紙片に戻っている。

しかし、その紙片が、つい先ほどまで、自分を廃墟からこの場所へと瞬間移動させたのだ。


「私が……あの力を……?」


紡の声は、まだ震えていた。

信じられない。

自分の内に、そんな途方もない力が眠っていたなど。


「それは、貴女自身が引き出した力です。

貴女の『真の欲望』が、それに耐えうるだけの『渇望』を抱いたからこそ、あの『書』が反応した。」


神崎の声は、穏やかだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。


「私の『真の欲望』が、『支配されることの拒否』……」


紡は、林 耀の言葉を思い出す。

「貴女の『真の欲望』は、彼にとって都合が良い」と。


そして、林 耀が求める「死を克服する力」が、世界の理を歪め、「全てを無に帰す」ものだという招待状の警告。


神崎は、紡の目を見つめた。


「貴女はこれまで、他者からの承認を求めることで、自身の存在を確かめようとしてきた。

それは、ある意味で、他者の評価に『支配される』ことでもあった。

しかし、林 耀に命の危険を感じた時、貴女は『支配されること』を拒否した。

それが、貴女の『根源』の一つだ。」


神崎の言葉は、まるで紡の人生を全て見通しているかのようだった。

彼がなぜそこまで知っているのかという疑問よりも、紡の心に突き刺さったのは、「支配」という言葉だった。


「空っぽな心」を埋めるために、常に他者の顔色を伺い、良い子でいようと、期待に応えようと、そうやって生きてきた。

誰かに認められることで、自分の価値を決めようとしていた。

それは、自分の意志だったと思っていた。


他人という名の支配者に、自分の人生を明け渡していただけだったのだ……

実は「支配」されていたのだと、神崎は突きつけた。


その事実に、紡は息をのんだ。

これまで自分の人生だと信じてきたものが、根底から覆されたような感覚だった。

同時に、胸の奥で、確かに何かが弾ける音を聞いた気がした。


「では、あの力を、私はどうやって使えばいいんですか……?」


紡は、招待状をじっと見つめた。


「それは、『書』が貴女に示してくれるでしょう。

貴女の『真の欲望』が、新たな形を求める時に。」


神崎は、再びポケットから手帳を取り出した。


「林 耀は、貴女がその力を覚醒させたことを知った今、さらに執拗に貴女を狙うでしょう。

彼の次の動きは、恐らく……」


神崎は、手帳のあるページを指さした。

そこには、一つの場所が記されていた。


「天響研究所 地下研究室 封鎖区画」


「彼は、天響研究所に残された、まだ回収されていない『研究データ』を狙っているはずです。

火災の際、地下の最も深い区画だけは、奇跡的に焼失を免れたという情報があります。」


紡は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

あの焼け落ちた研究所に、まだ何か残っているというのか。

そして、林 耀がそれを狙っている。


「では、私たちもそこへ……?」


紡が尋ねると、神崎は首を横に振った。


「いえ。

林 耀は、貴女がそこへ来ることを読んで、罠を仕掛けるかもしれません。

貴女には、別の場所に、行ってほしい。」


神崎は、手帳の別のページを開いた。

そこに記されていたのは、「藍沢邸」という文字と、住所だった。


「これは……藍の家?」


紡は、思わず声を出した。


「彼女の家には、林 耀が残した、貴女の『書』の力を読み解くための『鍵』が隠されている。」


神崎の言葉に、紡は困惑した。

なぜ藍の家に?

藍が、林 耀と繋がっているとでもいうのか?

いや、それよりも、あの林 耀が、自らの目的のための「鍵」を、そんな場所に残すだろうか?

まるで、誰かが紡をそこへ誘導しようとしているかのように。



神崎は、紡の疑念を察したように、淡々と言葉を続けた。


「林 耀は、常に先を見ている。

貴女が林 耀の過去を探ることは、彼にとって想定内だったはずだ。

しかし、彼の盲点があるとするならば、それは、貴女自身の『真の欲望』が、彼の予想を超えて覚醒した、という事実だ。」


神崎の言葉は、紡に、かすかな希望を与えた。

林 耀もまた、全てを支配できるわけではない。


「藍沢邸には、貴女が『真の欲望』の全てを知るために必要な、『欲望の地図』が隠されている。それは、貴女が『空っぽ』をどう埋めようとしてきたか、その全ての軌跡が記された、貴女自身の心の羅針盤です。」


神崎の言葉に、紡は改めて招待状を握りしめた。


『欲望の地図』。神崎は、招待状をそう呼んだ。


それは、まるで、紡の「空っぽな心」を埋めるための、道標のように感じられた。


林 耀は天響研究所の地下、紡は藍沢邸へ。

二人の行動が分かれることで、紡が林 耀の支配から逃れるための、新たな局面が始まる。


「わかりました。」


紡は、迷いを振り切るように、はっきりと答えた。


もう、誰かに言われたからではない。自分自身の意思で、この道を選び取る。


林 耀の企みを阻止するため、そして自身の「真の欲望」を知るため。

紡は、自ら危険な道を選び取った。


夜のとばりが降り始め、キャンパスの街灯がぽつりぽつりと灯り始める。

その光の下で、紡は神崎に深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、神崎さん。」


神崎は、無言で頷くと、夜の闇へと溶け込むように去っていった。


紡は、一人、立ち尽くした。


手のひらの招待状が、じんわりと温かい。

その温かさが、これから始まる、未知の旅への、ささやかな勇気を与えてくれるようだった。

藍の家。

そこに隠された「欲望の地図」とは、一体何なのだろう。

そして、藍は、その「鍵」について何か知っているのだろうか……?


(つづく)

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