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第12話:覚醒の代償

「貴女の『書』は、実に素直ですね。

私の『根源』へと、貴女を導いた。」


林 耀の声が、紡の隠れている壁の影のすぐ外で響く。


言葉は、まるで全てを見透かすように、紡の心を深く抉った。

そして、ゆっくりと、彼の指先が壁の煤けた表面に触れる。


(違う……! この人は、私の思考を読んでいる……!)


全身から冷たい汗が噴き出し、心臓が凍りつく。

林 耀の思考が、まるで冷たい蛇のように、自分の脳内を這いずり回っている感覚だった。

逃げなければ。

直感が、警鐘を鳴らす。


林 耀が壁に触れた瞬間、紡は逆方向へと、なりふり構わず走り出した。

廃墟の床に散らばる瓦礫が、足元で不気味な音を立てる。


(どこへ……どこへ逃げればいい……!?)


背後から、林 耀の足音が追ってくる。

その足音は、まるで愉しんでいるかのように、一定のリズムを刻んでいた。


「そんなに急がなくてもいいでしょう、小鳥遊さん。

私たちは、これからもっと深く、理解し合うことになる。」


林 耀の声が、廃墟の薄暗い空間に響き渡る。

その言葉の全てが、紡を追い詰める刃となった。


崩れかけた通路を必死に駆け抜ける。

かつて研究所だったはずの場所は、今や迷宮と化していた。

どこへ行っても、似たような廃材と瓦礫が道を塞ぎ、出口が見えない。

焦燥と恐怖が、紡の呼吸を乱す。


(このままでは、捕まる……!)


なぜ私がここにいることを知っていたのか?

どうして、紡がどこに隠れているのかまで分かったのか?

焦れば焦るほど、恐怖と共に混乱する。


(招待状!)


林 耀は、「貴女の『書』は、まるで貴女の心の声を、私に伝えているようだ」と言った。

まさか、招待状が、紡の居場所を教えているというのか?


紡は、走る足を止め、ポケットから招待状を取り出した。

真っ白な紙片は、その場で、脈打つかのように激しく振動している。

その振動は、紡の手のひらに、これまで感じたことのないほど鮮明な感覚を伝えてきた。

それは、まるで、紡自身の心臓の鼓動と、招待状の鼓動が、一つに重なったかのようだった。


その瞬間、招待状から、強烈な光が放たれた。

青白い光が、廃墟の暗闇を一瞬にして照らし出す。

同時に、紡の脳裏に、新たな「声」が直接響き渡った。


『己を、信じろ。

「思考」を「現実」とせよ。

「願望」は、形を成す。』


招待状のメッセージが、これまでの警告とは異なる、具体的な「力」の行使を促すものだと、紡は直感した。

「思考を現実とせよ」――。


一体、どうすれば……?


その時、背後から林 耀の足音が、さらに近づいてくるのが聞こえた。


「見つけましたよ、小鳥遊さん。」


林 耀の声が、すぐそこまで迫っていた。


死の恐怖が、紡の心を支配する。


(逃げたい……! この場所から……! 今すぐに……!)

紡の心の中で、これまでの人生で感じたことのないほど強い「拒絶」の感情が爆発した。

誰にも、もう二度と、支配されたくない。

誰かの期待に応えるために、自分を殺して生きることは、もう嫌だ。


紡は、無我夢中でそう強く願った。


林 耀から逃げたい。

この廃墟から抜け出したい。

その「願望」が、紡の心の奥底から、まるでマグマのように噴き出した。


手のひらの招待状が、目眩がするほどの光を放つ。

そして、その光が、紡の全身を包み込んだ。

視界が、白く染まる。

足元が、ぐらりと揺れる。

まるで、空間そのものが歪んだかのような感覚。


そして、紡は、その白い光の中で、強く願った。


(誰にも、私を支配させない。もう二度と……!)


次の瞬間、紡の視界が、急速に色を取り戻した。


しかし、そこは、先ほどの廃墟の中ではなかった。


見慣れた、大学のキャンパス。

夕暮れの茜色が、空を染めている。

周囲には、家路を急ぐ学生たちの姿が見える。


(私は……大学に……?)


一瞬の出来事だった。


あの廃墟から、一瞬にして、大学のキャンパスへと移動した。

まるで、魔法のような現象。

これが、「思考を現実とする」招待状の力だというのか?


紡は、手のひらに持つ招待状を見た。

白い紙片は、先ほどまでの光と熱を失い、ただ静かにそこにあった。

しかし、紡の心臓は、今も激しく脈打っていた。

恐怖、混乱、そして……言いようのない高揚感。


それは、ずっと空っぽだった自分の心に、初めて確かな「力」が宿ったという、抗い難い歓喜だった。


(私は……あの廃墟から、逃げられた……?)


林 耀の視線から、掌から、逃れることができた。


その事実に、紡は震えるほどの安堵を感じた。

同時に、自分の中に、未知の力が宿っていることを、はっきりと自覚した。

あの「願い」が、現実になった。


ふと、紡は、遠くの並木道に、見覚えのある黒いコートの男の姿を見た。

神崎 厳だ。

紡の姿を認めると、ゆっくりとこちらに向かって歩き始めた。

神崎の顔には、安堵とも、深い思索ともとれる表情が浮かんでいた。


神崎は、紡の前に立つと、静かに言った。

「危険な共鳴反応を感知した。もしやと思い、駆けつけましたが……。

見事でしたね、小鳥遊さん。

貴女は、ご自身の『真の欲望』の片鱗を、ついに覚醒させた。」


神崎の視線は、紡の手の中の招待状へと向けられている。


「これは……夢?それとも、私の力……?」

紡は、震える声で尋ねた。


神崎は、頷いた。


「それは、貴女の中に眠っていた『根源』。

つまり、貴女の『真の欲望』が具現化したものだ。

貴女が心から『逃れたい』と願ったからこそ、あの『書』が反応し、その力を引き出した。」


神崎は、紡の目を見つめた。


「あの瞬間、貴女は『支配されること』を拒否した。

それが、貴女の『真の欲望』の一つだと、あの『書』は告げている。」


(支配されることの拒否……?)


「空っぽな承認欲求」を抱え、常に他者の目を気にして生きてきた紡。

その「誰かに認められたい」という願望の裏には、常に「他者の期待」に合わせることで、自分を「支配」させていたという事実があった。

だが、あの瞬間、紡は林 耀という「捕食者」から逃れたいと強く願い、それが現実となった。


「しかし、あの力は、諸刃の剣です。

制御を誤れば、貴女自身をも飲み込みかねない。」


神崎の言葉は、紡の高揚感を冷まさせる。


「林 耀は、その力を完全に手に入れようとしている。

貴女が覚醒した今、彼は、さらに執拗に貴女を狙うでしょう。」


夕暮れの空が、濃い紫に染まり始めていた。


紡は、神崎の言葉を反芻する。

自分の内に秘められた、想像を絶する力。

そして、それを狙う林 耀という「捕食者」。


(もう、逃げるだけではいられない。)


この力と向き合い、林 耀の企みを阻止しなければ。

そうでなければ、私の「真の欲望」が、彼に利用され、この力で私の人生の全てが、彼の望む形へと変えられてしまうかもしれない。


(つづく)

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