白い天井の下、心電図モニターの音が静かに響いている。
紡と藍、そして林 耀。
三人の心拍数は、波のように不安定に揺らいでいた。
紡たちの心象の世界での旅路が、今、最後の瞬間を迎えようとしていた。
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林 耀のシンボルマークが放つ、最後の光。
その光の中から現れたのは、感情の抜け落ちた、虚ろな表情の林 耀だった。
もはや紡や藍を映しておらず、その周りには、彼の人生を否定する幻聴が、嵐のように渦巻いている。
その声は、紡の心を深く抉る。
それは、かつて自身が抱えていた、最も深い絶望の言葉だった。
紡は、林 耀に駆け寄ろうとするが、無数の影が、彼女の行く手を阻んだ。
「林さん……!」
紡の叫びは、影たちの幻聴に掻き消されてしまう。
その時、藍が紡の前に立ち、腕を広げた。
「紡!思い出して!『死は、苦しみからの解放じゃない!』」
藍の言葉は、林 耀にも届く。
彼の虚ろな瞳が、わずかに揺らぐ。
藍は紡の手を強く握り、語りかけた。
「紡……。本当に林さんを救いたい?彼を救うことは、過去のあなた自身を救うことだよ。」
藍の言葉に、紡は深く頷く。
そうだ。
これは、林 耀だけの問題ではない。
自分自身の過去と向き合い、消化するための、最後の戦いなのだ。
「林さん……。私も、ずっとあなたと同じでした。」
紡の声は、穏やかで確かな力を持っていた。
「誰からも必要とされていないと思って、存在しない方がマシだと、何度も思いました。
でも……死は、苦しみからの解放じゃなかった。
死を選んでも、この幻聴からは逃げられなかった。
あなたが今、ここで苦しんでいるのが、その何よりの証拠」
紡の言葉は、幻聴の嵐を静かに鎮めていく。
林 耀の瞳に、少しずつ光が戻っていく。
「『才能がないから努力しかない』と、ご両親に言われてきたんですよね。」
それは、林 耀の両親が、自分たちが成し遂げられなかった夢を、彼に託した言葉だった。
息子への期待という名の愛情は、いつしか彼を追い詰める呪いとなっていた。
それは決して、彼を否定するだけの言葉ではなかったかもしれない。
両親は、林 耀の才能を誰よりも信じ、その努力を誰よりも尊いものだと思っていたからこそ、「才能がないから」と謙遜し、努力の大切さを伝えたかったのかもしれない。
ただ、その言葉は、彼の心には届かず、歪んだ形で記憶されてしまった。
「『天才肌ぶってるけど、結局は努力の凡人だ』と、同級生に言われたのですよね。全部、聞こえていました。」
それは、彼の才能を認めながらも、それを素直に称賛できない、同級生の心の奥底に渦巻く嫉妬と、優越感に浸りたいという醜い感情だった。
皆は、林 耀が努力する姿を見て安心したかったのだ。
自分たちと同じ「凡人」だと思いたかった。
それは彼らなりの共感だったのかもしれない。
皆は、林 耀の孤独な努力を目の当たりにし、自分たちもまた、何かを成し遂げたいと願っていたからこそ、彼に「凡人」という言葉をぶつけたのかもしれない。
ただ、その言葉は、彼の心には届かず、歪んだ形で受け取られてしまった。
林 耀の虚ろな瞳が、紡をじっと見つめる。
紡は知っていた。
その言葉は、林 耀の本当の声ではない。
彼の心は、最初から完璧ではなかった。
不完全で、孤独で、誰かに認めてほしかった。
それを、一番よく知っているのは、彼自身のはずだ。
紡の言葉が、林 耀の心を、深く揺さぶる。
初めて、自分の心の奥底にあった、満たされない孤独と向き合った。
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その時、空間の奥から、神崎の姿が現れた。
彼は、不気味な笑みを浮かべていた。
「無駄ですよ。君たちは、僕の計画の駒にすぎないのですから。
君たちに、僕を否定する力はないはずです……!」
神崎の叫びは、紡と藍の放つ、希望の光に打ち消された。
彼の体に、亀裂が走る。
それは、紡が林 耀に語りかけた「孤独」と「共感」の言葉が、彼の心の奥底に眠っていた「空っぽ」に触れたからだった。
「支配」という虚構で自らの心を塗り固めていた彼の心が、ついに耐えきれなくなったのだ。
「そんな……わたしの、完璧な計画が……」
神崎は、信じられないという表情で自分の体を見つめる。
彼の体は、まるで砂のように、音もなく崩れ去っていく。
「いやだ……消えたくない……」
彼の口から、初めて「支配」ではない、心の底からの叫びが漏れた。
その時、紡と藍の放つ希望の光が、彼をも包み込んだ。
神崎は、崩れかけた体で、静かに涙を流した。
彼は、初めて自身の弱さと、孤独と向き合ったのだ。
「……許される、のか……」
そのか細い声は、過去の自分を赦しを請う言葉だった。
「はい。あなたは、もう大丈夫です」
紡の言葉に、神崎は静かに微笑んだ。
神崎の体から光が漏れ出す。
「……もう、無理です……。気力も体力も、もう……残って、ない……」
紡や林 耀が、まだ生きていたいというかすかな光を心に残していたのに対し、神崎の心は、すでにその光すらも失っていた。
生きたいと願う気持ちはあった。
だが、その気持ちを支えるだけの力が、もう残されていなかったのだ。
その崩れ落ちる砂の粒は、どこか悲しげな光を放っていた。
神崎もまた、誰にも理解されない孤独の中で、支配という虚しい手段で自らの「空っぽ」を埋めようとした、哀れな魂だったのだ。
最後に涙を流しながらも、紡と藍に微笑んだ。
それは、諦めではなく、感謝と、そして「生きたかった」という後悔に満ちた、悲しい微笑みだった。
神崎の体は、やがて光の粒となり、消滅していった。
それは、彼の魂がこの心の世界から、現実世界からも、完全に消滅していくことを意味していた。
彼の消滅は、いかなる救いも伴わない、ただの虚無だった。
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紡は、林 耀の冷たい手を、さらに強く握りしめた。
藍と共に、語りかける。
「林さん、あなたは、一人じゃない。」
紡は、林 耀の手を握る手に、さらに力を込め、まっすぐ見つめていた。
かつての紡は、承認欲求を「誰かから愛され、認められること」だと思っていた。
誰かに「いいね」と言われなければ、自分の価値は無いと信じていた。
それが、紡の心を常に飢えさせていた。
だけど、藍が「ただ、一緒にいてくれる」だけで救われたあの瞬間から、紡の心は変わり始めていた。
本当の承認とは、他人から与えられるものではない。
ありのままの自分を受け入れ、自分の価値を認めること。
それが、心の安定をもたらす自己肯定感だということ。
「もしも、あなたの心が、また『出来損ないだ』と叫んだら、私たちが何度でも、その幻聴を消してあげます。」
紡の言葉は、まるで祈りのようだった。
誰かに褒められるためじゃなく、自分が「頑張った」と心から思える、そんな小さな成功体験を積み重ねて、自分の成長を大切だとして見ること。
自分の価値観を大切にし、自分自身を認め、自分を愛すること。
それが、紡の「空っぽ」を満たしてくれた、本当の光だった。
「だから、もう一度、生きることを選んでください。」
二人の愛と希望が、光となって林 耀を包み込む。
虚ろだった瞳に、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……ひとり……じゃ、ない……?」
彼の口から、か細い声が漏れた。
「僕も……生きて、いいのか……」
その問いかけは、紡自身が過去に何度も自問自答した、最も切実な言葉だった。
「いいんです。生きて、いいんです!」
紡は、力強く、そして優しく、叫ぶように答えた。
彼の心に渦巻いていた「出来損ない」「無能」という絶望は、光の粒となって消えていく。
最後に紡と藍の顔を、涙で濡れた瞳で見つめ、静かに微笑んだ。
それは、人生で初めて、自分自身を受け入れた、穏やかな笑みだった。
彼の姿もまた、光の粒となって、紡の中に吸収されていった。
すべての浄化が終わり、空間は、柔らかな光に満たされた。
紡は、安堵からか、その場で膝から崩れ落ちた。
藍が、優しく紡の肩を抱き寄せる。
「大丈夫。これで、全て終わったよ。」
紡は、涙を流しながら、藍に寄り添った。
二人の意識は、一つの光となり、ゆっくりと夢から覚め、現実へと戻っていく。
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白い病室。
看護師が、三つのベッドを見つめている。
紡と藍の手は、固く握られたままだ。
林 耀の心電図モニターは、安定した波形を刻んでいる。
彼の瞼は、まだ閉ざされたままだが、その顔には、これまでのような苦痛の色はなかった。
三つ目のベッドの隣に、もう一つ、空になったベッドがあった。
神崎が入院していたベッドだ。
看護師は、その空になったベッドを複雑な表情で見つめ、深いため息をついた。
神崎は、心の世界で消滅したのと同時に、現実でも息を引き取ったのだった。
その時、紡の指先が、微かに動き、その瞼が、ゆっくりと開かれていく。
藍の瞳からも、一筋の涙が、シーツに吸い込まれていった。
紡は、ゆっくりと目を開け、隣のベッドにいる藍の姿を捉えた。
藍もまた、同じようにゆっくりと目を開け、紡を見つめ返していた。
二人は、心の世界で交わした約束を、確かに覚えているようだった。
紡は、藍の手を握る手に、さらに力を込めた。
「藍……」
「おかえり、紡。」
そして、林 耀の心電図モニターは、安定した波形を刻んでいる。
看護師は、安定した林 耀の心電図を見つめ、安堵の息を漏らした。
彼が目覚めるまでには、まだ長い時間がかかるだろう。
彼の命は、確かに繋がったのだ。
紡と藍の物語は、これからも続いていく。
(完)