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第47話:最期の一歩、救済の先にある希望

白い天井の下、心電図モニターの音が静かに響いている。

紡と藍、そして林 耀。

三人の心拍数は、波のように不安定に揺らいでいた。

紡たちの心象の世界での旅路が、今、最後の瞬間を迎えようとしていた。


---


林 耀のシンボルマークが放つ、最後の光。

その光の中から現れたのは、感情の抜け落ちた、虚ろな表情の林 耀だった。

もはや紡や藍を映しておらず、その周りには、彼の人生を否定する幻聴が、嵐のように渦巻いている。


その声は、紡の心を深く抉る。

それは、かつて自身が抱えていた、最も深い絶望の言葉だった。

紡は、林 耀に駆け寄ろうとするが、無数の影が、彼女の行く手を阻んだ。


「林さん……!」


紡の叫びは、影たちの幻聴に掻き消されてしまう。

その時、藍が紡の前に立ち、腕を広げた。


「紡!思い出して!『死は、苦しみからの解放じゃない!』」


藍の言葉は、林 耀にも届く。


彼の虚ろな瞳が、わずかに揺らぐ。


藍は紡の手を強く握り、語りかけた。


「紡……。本当に林さんを救いたい?彼を救うことは、過去のあなた自身を救うことだよ。」


藍の言葉に、紡は深く頷く。


そうだ。

これは、林 耀だけの問題ではない。

自分自身の過去と向き合い、消化するための、最後の戦いなのだ。


「林さん……。私も、ずっとあなたと同じでした。」


紡の声は、穏やかで確かな力を持っていた。


「誰からも必要とされていないと思って、存在しない方がマシだと、何度も思いました。

でも……死は、苦しみからの解放じゃなかった。

死を選んでも、この幻聴からは逃げられなかった。

あなたが今、ここで苦しんでいるのが、その何よりの証拠」


紡の言葉は、幻聴の嵐を静かに鎮めていく。

林 耀の瞳に、少しずつ光が戻っていく。


「『才能がないから努力しかない』と、ご両親に言われてきたんですよね。」


それは、林 耀の両親が、自分たちが成し遂げられなかった夢を、彼に託した言葉だった。

息子への期待という名の愛情は、いつしか彼を追い詰める呪いとなっていた。


それは決して、彼を否定するだけの言葉ではなかったかもしれない。

両親は、林 耀の才能を誰よりも信じ、その努力を誰よりも尊いものだと思っていたからこそ、「才能がないから」と謙遜し、努力の大切さを伝えたかったのかもしれない。

ただ、その言葉は、彼の心には届かず、歪んだ形で記憶されてしまった。


「『天才肌ぶってるけど、結局は努力の凡人だ』と、同級生に言われたのですよね。全部、聞こえていました。」


それは、彼の才能を認めながらも、それを素直に称賛できない、同級生の心の奥底に渦巻く嫉妬と、優越感に浸りたいという醜い感情だった。

皆は、林 耀が努力する姿を見て安心したかったのだ。

自分たちと同じ「凡人」だと思いたかった。


それは彼らなりの共感だったのかもしれない。

皆は、林 耀の孤独な努力を目の当たりにし、自分たちもまた、何かを成し遂げたいと願っていたからこそ、彼に「凡人」という言葉をぶつけたのかもしれない。

ただ、その言葉は、彼の心には届かず、歪んだ形で受け取られてしまった。


林 耀の虚ろな瞳が、紡をじっと見つめる。


紡は知っていた。

その言葉は、林 耀の本当の声ではない。

彼の心は、最初から完璧ではなかった。

不完全で、孤独で、誰かに認めてほしかった。

それを、一番よく知っているのは、彼自身のはずだ。


紡の言葉が、林 耀の心を、深く揺さぶる。

初めて、自分の心の奥底にあった、満たされない孤独と向き合った。



---


その時、空間の奥から、神崎の姿が現れた。

彼は、不気味な笑みを浮かべていた。


「無駄ですよ。君たちは、僕の計画の駒にすぎないのですから。

君たちに、僕を否定する力はないはずです……!」


神崎の叫びは、紡と藍の放つ、希望の光に打ち消された。

彼の体に、亀裂が走る。


それは、紡が林 耀に語りかけた「孤独」と「共感」の言葉が、彼の心の奥底に眠っていた「空っぽ」に触れたからだった。

「支配」という虚構で自らの心を塗り固めていた彼の心が、ついに耐えきれなくなったのだ。


「そんな……わたしの、完璧な計画が……」


神崎は、信じられないという表情で自分の体を見つめる。

彼の体は、まるで砂のように、音もなく崩れ去っていく。


「いやだ……消えたくない……」


彼の口から、初めて「支配」ではない、心の底からの叫びが漏れた。

その時、紡と藍の放つ希望の光が、彼をも包み込んだ。



神崎は、崩れかけた体で、静かに涙を流した。

彼は、初めて自身の弱さと、孤独と向き合ったのだ。


「……許される、のか……」


そのか細い声は、過去の自分を赦しを請う言葉だった。


「はい。あなたは、もう大丈夫です」


紡の言葉に、神崎は静かに微笑んだ。


神崎の体から光が漏れ出す。


「……もう、無理です……。気力も体力も、もう……残って、ない……」


紡や林 耀が、まだ生きていたいというかすかな光を心に残していたのに対し、神崎の心は、すでにその光すらも失っていた。


生きたいと願う気持ちはあった。


だが、その気持ちを支えるだけの力が、もう残されていなかったのだ。


その崩れ落ちる砂の粒は、どこか悲しげな光を放っていた。

神崎もまた、誰にも理解されない孤独の中で、支配という虚しい手段で自らの「空っぽ」を埋めようとした、哀れな魂だったのだ。


最後に涙を流しながらも、紡と藍に微笑んだ。

それは、諦めではなく、感謝と、そして「生きたかった」という後悔に満ちた、悲しい微笑みだった。


神崎の体は、やがて光の粒となり、消滅していった。

それは、彼の魂がこの心の世界から、現実世界からも、完全に消滅していくことを意味していた。

彼の消滅は、いかなる救いも伴わない、ただの虚無だった。



---

紡は、林 耀の冷たい手を、さらに強く握りしめた。

藍と共に、語りかける。


「林さん、あなたは、一人じゃない。」


紡は、林 耀の手を握る手に、さらに力を込め、まっすぐ見つめていた。


かつての紡は、承認欲求を「誰かから愛され、認められること」だと思っていた。

誰かに「いいね」と言われなければ、自分の価値は無いと信じていた。

それが、紡の心を常に飢えさせていた。


だけど、藍が「ただ、一緒にいてくれる」だけで救われたあの瞬間から、紡の心は変わり始めていた。


本当の承認とは、他人から与えられるものではない。

ありのままの自分を受け入れ、自分の価値を認めること。

それが、心の安定をもたらす自己肯定感だということ。


「もしも、あなたの心が、また『出来損ないだ』と叫んだら、私たちが何度でも、その幻聴を消してあげます。」


紡の言葉は、まるで祈りのようだった。


誰かに褒められるためじゃなく、自分が「頑張った」と心から思える、そんな小さな成功体験を積み重ねて、自分の成長を大切だとして見ること。

自分の価値観を大切にし、自分自身を認め、自分を愛すること。

それが、紡の「空っぽ」を満たしてくれた、本当の光だった。


「だから、もう一度、生きることを選んでください。」


二人の愛と希望が、光となって林 耀を包み込む。

虚ろだった瞳に、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「……ひとり……じゃ、ない……?」


彼の口から、か細い声が漏れた。

「僕も……生きて、いいのか……」


その問いかけは、紡自身が過去に何度も自問自答した、最も切実な言葉だった。


「いいんです。生きて、いいんです!」

紡は、力強く、そして優しく、叫ぶように答えた。


彼の心に渦巻いていた「出来損ない」「無能」という絶望は、光の粒となって消えていく。


最後に紡と藍の顔を、涙で濡れた瞳で見つめ、静かに微笑んだ。

それは、人生で初めて、自分自身を受け入れた、穏やかな笑みだった。


彼の姿もまた、光の粒となって、紡の中に吸収されていった。

すべての浄化が終わり、空間は、柔らかな光に満たされた。


紡は、安堵からか、その場で膝から崩れ落ちた。

藍が、優しく紡の肩を抱き寄せる。


「大丈夫。これで、全て終わったよ。」


紡は、涙を流しながら、藍に寄り添った。

二人の意識は、一つの光となり、ゆっくりと夢から覚め、現実へと戻っていく。



---

白い病室。

看護師が、三つのベッドを見つめている。

紡と藍の手は、固く握られたままだ。


林 耀の心電図モニターは、安定した波形を刻んでいる。

彼の瞼は、まだ閉ざされたままだが、その顔には、これまでのような苦痛の色はなかった。


三つ目のベッドの隣に、もう一つ、空になったベッドがあった。

神崎が入院していたベッドだ。


看護師は、その空になったベッドを複雑な表情で見つめ、深いため息をついた。

神崎は、心の世界で消滅したのと同時に、現実でも息を引き取ったのだった。


その時、紡の指先が、微かに動き、その瞼が、ゆっくりと開かれていく。

藍の瞳からも、一筋の涙が、シーツに吸い込まれていった。


紡は、ゆっくりと目を開け、隣のベッドにいる藍の姿を捉えた。

藍もまた、同じようにゆっくりと目を開け、紡を見つめ返していた。


二人は、心の世界で交わした約束を、確かに覚えているようだった。

紡は、藍の手を握る手に、さらに力を込めた。


「藍……」


「おかえり、紡。」


そして、林 耀の心電図モニターは、安定した波形を刻んでいる。

看護師は、安定した林 耀の心電図を見つめ、安堵の息を漏らした。


彼が目覚めるまでには、まだ長い時間がかかるだろう。

彼の命は、確かに繋がったのだ。


紡と藍の物語は、これからも続いていく。


(完)

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