病院の病室。
紡と藍の心電図は、穏やかな波形を刻んでいる。
だが、その安定は、嵐の前の静けさだった。
その隣の病室では、林 耀の心電図が、時折、危険な警告音を鳴らしている。
紡たちの心象の世界での旅路が、いよいよ核心へと迫っていた。
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いくつもの「欲望の結び目」を浄化し、紡と藍は、ついに地図の最後の場所へとたどり着いた。
そこは、何もない、真っ白な空間だった。
無機質で、広大で、ただ二人の足音だけが響いている。
空間の中心には、林 耀のシンボルマークが、今にも消え入りそうな弱い光を放っていた。
「ここが、林さんの……最後の場所……?」
紡は、不安な面持ちで尋ねた。
藍は、紡の手を強く握りしめた。
「うん。きっと、ここが、林さんの『心の核』だよ。」
その時、空間の四隅から、四つの巨大なスクリーンが浮かび上がった。
スクリーンには、過去の映像が映し出されている。
一つ目のスクリーンには、幼い頃の林 耀が、両親に厳しく叱責されている姿。
『こんな点数で満足するな!』
『お前には才能がないんだから、努力しかないんだ!』
二つ目のスクリーンには、学生時代の林 耀が、誰にも心を開かず、一人黙々と勉強に打ち込む姿。
『あいつ、友達いないらしいぜ。』
『天才肌ぶってるけど、結局は努力の凡人だろ。』
そして、三つ目のスクリーンには、大人になった林 耀が、同僚たちにプロジェクトの失敗を責められている姿。
『お前がリーダーになったからだ!』
『才能がないくせに、天才のフリをするな!』
四つ目のスクリーンには、夜の高層ビルの屋上が映し出されていた。
林 耀は、冷たい風に吹かれながら、その縁に立っている。
彼の瞳には、絶望と、もはや何もかもどうでもいいという虚無が混ざり合っていた。
彼の手に握られたスマートフォンが、画面を消した。
そこには、誰からのメッセージも、着信もなかった。
彼は、最後に誰もいない夜空を見上げ、そして……。
映像は、そこで途切れた。
予想しなかった人物の姿があった。
それは、神崎だった。
神崎は、薄暗い部屋で、林 耀のデータを解析し、不気味な笑みを浮かべている。
『林 耀……やはり君は、最高の『器』だ。』
『君の「空っぽな承認欲求」は、この世を「再構築」するに足る、歪んだエネルギーそのものだ。』
映像の中の神崎は、林 耀の心につけ込んだ。
「君の『再構築』は失敗した。このままでは、君の心は『空っぽ』に飲み込まれて、消滅するだろう。」
「だが、方法はある。君の『器』の力と、私の『支配』の力を使えば、君は『完璧な自分』として再構築できる。」
神崎の言葉は、林 耀の耳に心地よく響いた。
それは、林 耀が最も求めていた、「誰かに見出される」という欲望を満たすものだった。
神崎は、彼の「空っぽ」を利用し、彼を自身の道具として「再構築」しようと目論んでいたのだ。
そして、映像の最後に、神崎は満足そうに微笑んだ。
『後は、もう一人の『器』、小鳥遊 紡の心を支配すれば、私の計画は完成する。』
神崎の目的は、林 耀と紡、二人の「器」の力を掌握し、この世界を完全に支配することだったのだ。
映像が消え、再び静寂が戻る。
紡は、神崎の真の目的と、林 耀が彼に利用されていたという事実に、胸が締め付けられる思いだった。
「林さんは……私と同じだったんだ。誰かに、自分の『空っぽ』を満たして欲しかっただけなんだ……。」
その時、林 耀のシンボルマークが、激しく光り始めた。
光の中から、一人の男が現れる。
それは、感情の抜け落ちた、虚ろな表情の林 耀だった。
彼の瞳は、もはや紡や藍を映していなかった。
「僕には……才能がない……」
「僕は……出来損ないだ……」
その声は、紡や藍に投げかけられたものではなく、林 耀自身の心に響く、最後の幻聴だった。
彼の周りには、無数の「声」が、彼を責め立てている。
それは、彼の人生の全てを否定する、最も深い絶望の言葉だった。
藍は、紡の手をさらに強く握った。
「紡……。林さんの『心の核』は、まだ浄化されていない。
彼を救えるのは、私たちだけ。」
紡は、力強く頷いた。
目の前にいる林耀は、もはや憎むべき敵ではない。
それは、自分自身の心の奥底にある、最も深い絶望の姿だった。
「林さん……!私は、あなたを一人にしない!」
紡の言葉に、林 耀の虚ろな瞳が、わずかに揺れる。
物語は、ついに最終決戦の時を迎えた。
紡と藍は、林 耀の最後の絶望と向き合い、彼を救うことができるのだろうか。
(つづく)