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第2話 悪役令嬢、甘味を封じる



「パンがなければ、お菓子を食べればいいのですわ」


 ――アルキオーネ・フォーマルハウトのその一言は、王都の上層社会にあっという間に広まった。


 だが、それは文脈も、意図も、全て切り捨てられた上でだった。


 民の飢えを救うためにクラッカーや乾パンを製造し、配給を始めたという“行動”は、まったくと言っていいほど取り上げられなかった。


 代わりに一人歩きしたのは、その台詞だけ。


 貴族たちの間でそれは、愚かな民衆を嘲る悪辣な冗談として受け止められた。


「聞いた? フォーマルハウト令嬢、あの有名なセリフを口にしたんですって」

「本当に言ったのかしら……でも、あの人ならあり得そう。ほら、“氷の薔薇”でしょ?」


 アルキオーネに対する風当たりは、より一層強くなる。


 彼女が貴族社会から距離を置き、実利的な改革を進めていたことなど、上級社交界には理解されなかった。

 いや、理解する気など初めからなかったのだ。


 そして、誤解は悪意とともに増幅し、ついには“悪役令嬢”という名で呼ばれるようになる。




 ――フォーマルハウト邸・執務室。


「お嬢様、ひどい言われようです……。貴族新聞にも、“氷の悪女、飢えた民に毒を配る”などと……!」


 書類を広げながら、クラリスが憤るように言った。


「毒……? あら、クラッカーは毒だったかしら。民の子どもたちは、美味しいと喜んでくれましたのに」


 アルキオーネは、優雅に紅茶を飲みながら答えた。


 その声は、まったく動じていなかった。


「しかし、このままでは――」


「――構いませんわ」


 ぱたり、と本を閉じる音が響く。


「悪役令嬢と呼ばれるなら、それらしく振る舞いましょう。私はもう、“理解される”ことなど望んでおりません」


 そう言い放った彼女の表情には、一切の迷いがなかった。




 そして、彼女の“本格的な反撃”が始まった。


「軟質小麦を、全域から買い集めて。王都の八割、貴族が口にできない量まで確保して」


「……上級貴族から反発が来るでしょう」


「ええ。それこそ、望むところですわ」


 貴族たちは、舞踏会や晩餐会で出されるスイーツに重きを置いていた。


 その甘味が“当たり前にあるもの”でなくなったとき、はじめて彼らは気づくだろう――この国がいかに“飢え”に沈んでいるかを。




 そして、ついにその日が訪れる。


 王宮より、正式な使者がフォーマルハウト家を訪れたのだ。


 案内されたのは、王宮付きのパティシエ長・ギルベルト。


 第一王子セドリックの甘味へのこだわりを一手に支える、王都でも屈指の腕を持つ職人である。


 だが、その表情は今、苦悶に満ちていた。


「……アルキオーネ様。どうか、軟質小麦をわずかでも分けていただけないでしょうか。

 王子の誕生日舞踏会が迫っております……。ケーキのない舞踏会など、王宮の面目が立ちません」


 土下座こそしないが、それに近い低姿勢だった。


 だが、アルキオーネは冷ややかな笑みを浮かべたまま、紅茶をひとくちすする。


「王子殿下のご機嫌取りが最優先ですの? 飢えた民より?」


「いえ……もちろん、民の苦しみも理解しております。しかし王宮としては――」


「理解しているのなら、こうはなっていないはずですわ」


 ぱたりとティーカップを置く音が、静かな威圧となる。


「軟質小麦は、もはや民衆の命づな。

 パンが焼けないのなら、せめてクラッカーでも口にしてもらわねば、誰かが餓死してしまいますわ」


「で、ですがっ……金貨なら、いくらでも! いえ、宝石でも、土地でも構いません!」


 ギルベルトの声は切実だった。だが、アルキオーネは静かに、しかしはっきりと首を振った。


「食べられない金貨や紙幣をいくら積まれても、わたくしの答えは変わりません」


「……!」


 ギルベルトは、言葉を失う。


 アルキオーネは、立ち上がると、大理石の窓辺から王都の景色を眺めた。


「……とはいえ。取引そのものを一切断つとは言いません」


「ほ、本当ですか……!?」


「ええ。どうしてもとおっしゃるのなら、交換条件を提示いたしますわ」


 ギルベルトの目に、わずかな希望が宿る。


 だが――次の瞬間、その光は儚く散った。




> 「軟質小麦1キロと、硬質小麦1000キロ。交換比率はそれでいかがかしら?」






「…………」


 ギルベルトは、まるで凍りついたように固まる。


 その条件が、現実的でないことは誰の目にも明らかだった。

 硬質小麦はもはや市場から消え、金銀よりも価値があるとされている。


 1000キロなど、国王でも持ち出せるかどうかすら怪しい。


「――それでは、失礼いたします」


 ギルベルトは、深く頭を下げると、肩を落として退出していった。


 その背中を見送ったクラリスが、ぽつりと呟く。


「……これで、王宮も本気で動くかもしれません」


「ええ。ようやく気づくでしょう。スイーツが消えるというのは、ただの“贅沢の喪失”ではないのだと」


 甘味を奪えば、貴族たちの虚飾が剥がれる。

 その飢えが、本物の飢えに繋がっていることに気づけば――この国は、少しは変わるかもしれない。


 アルキオーネ・フォーマルハウト。


 “悪役令嬢”と呼ばれる彼女は、笑みを浮かべながら、冷たく言い放った。




> 「革命に必要なのは、刃ではなく飢えですわ」






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