移動の間、料理の下準備は終わらせておいた。
琥珀色の澄んだスープが鍋の中で揺れている。
【歩くトラットリア】名物のコンソメスープだ。
……まぁ、今は諸事情により、これしか作れないんだけど。
あ、あとちょっとした小皿なら出せる。例えば、アスパラの柔らかキャベツ巻きとか、ポテトとチーズの挟み焼きとかなら。
……くぅ。お肉さえ手に入ればもっといろいろ作れるのに。
ちなみに。
コンソメスープは名物というだけあって、特別に『材料セット』が用意されている。
【魔法】との契約でコンソメスープ以外に使用することは出来ないけれど……裏を返せば、コンソメスープだけは常に用意出来るということだ。
……そう思って自分を慰める。
……だって、お肉が手に入らないんだもの。
そんな悔しさを噛み締めていると、店のドアが静かに開く。どうやら目的地に着いたらしい。
【ドア】がどこかの壁や大木や崖なんかにくっついて、店と外界がつながる。
ゆっくりとドアが開き、一人のお客様が店へと入ってくる。
ボクは両手を広げ、満面の笑みでお客様を出向かえる。
「いらっしゃいませ。ようこそ、【歩くトラットリア】へ!」
そんな、いつものセリフとともに出迎えた後、ボクは思わず息をのんだ。
たった今来店されたそのお客様は――目を見張るような美しい女性だった。
燃えるような真っ赤な髪を後頭部でひとつにまとめた髪型はきりっとして格好よく、鎧を纏っていても分かるくらいに華奢な体躯は引き締まっていて無駄がない。なのに女性らしい丸みを帯びてとても魅力的に見える。
そして、白銀の鎧を内側から押し上げるかのような、大きな胸が……………………ごくり。
……はっ!?
いけないいけない! つい言葉を失って見入ってしまった。
お客様に対してなんて失礼なことを。
しかも、む、胸を凝視するなんて、はしたない。
ボクはこんなにエッチな男だったのか。反省しろ!
「ごめんなさいっ!」
誠心誠意、心を込めて頭を下げる。
が、急に大きな声を出したせいで、逆にお客様を驚かせてしまったようだった。
美しいお客様の肩がびくんと震え、その反動で鎧の向こうの大きなふくらみもゆっさりと……う~む、けしからん。
「けしからんのはボクですっ!」
ンゴスッ! ――と、思いっきり頭を下げる。その際、カウンターに頭をぶつけたが気にしない。これくらいの罰は受けてしかるべきだ。ボクはお客様に対してなんということを……っ!
「しょ、少年よ。よくは分からないが、自分を傷付けるのはよくない」
不意に、そんな言葉がかけられる。
あぁ、なんて素敵な声……
この人、綺麗なだけじゃなくてすごく優しい!
胸の奥から湧き上がってくる感謝の気持ちを伝えようと顔を上げると……彼女の顔がつらそうに歪んでいた。
あの顔は、体の痛みを訴えるものじゃない。
あれは、心が痛い時に見せる表情だ。
彼女は今、とても傷付いている。ボクは、そう直感した。
「あの」
思わず声を出してしまった。
なんと言葉をかければいいのか、まだ全然分からないのに。
魔族や魔獣と戦う戦士――冒険者は、ボクなんかには考えも及ばないような感情を心に抱えている。
生きるか死ぬか……殺すか殺されるか。そんな世界に身を置く冒険者の心を、安全な店の中で料理をしているだけのボクには計り知ることは出来ない。
ただ、分かりたい――とは、思ってしまう。どうしても。
命の尊さくらいは、知っているつもりだから。
こんな、死に場所を探しさ迷うような儚い表情を、出来ればしてほしくない。
彼女には、特に。
「邪魔をした」
短く言って、彼女が踵を返す。
ボクは彼女を引き留めることは出来ない。
彼女自身が選んだ彼女の人生に干渉していい立場ではない。
だからボクは――
「待ってください」
ボクに許されたたった一つの権利。
「よかったら、お食事をしていきませんか?」
お腹をすかせた人に美味しい料理を振る舞う――それを行使する。
それは、料理人の特権でもある。
名も知らない人に、自分の作った料理を食べてもらえるというのは、ね。
突然の申し出に驚いたのか、彼女はキョトンとした無防備な表情を見せた。
そして「くぅ……」と、可愛らしいお腹の音を鳴らした。
「はぅ……いや、これは、その……っ!」
完全に想定外だったのだろう。彼女は頬をうっすらと朱に染め慌てた様子で口を開き、……結局何も言えずに顔を斜め下へと向けた。
「くすっ」
「わ、笑わないでくれないか……今のは、ゆ、油断したのだ」
そんな強がりも不服そうな顔も、色づいた頬のせいでとても可愛らしく見える。
彼女は、こういう顔をしていた方が似合うと思う。
「さぁ、こちらへ。すぐに準備しますから」
目の前の、カウンターの席を手で指し示す。
ボクの真向かい。
彼女が料理を食べる顔を、真正面で見てみたい。
出来ることなら、「美味しい」と笑う顔を。
「腕によりをかけて作ります。一世一代の大勝負、とくとご覧ください!」
ドアのそばでぽかんとこちらを見ていた彼女が、微かに――笑った。
よし。
心の中で小さくガッツポーズをする。
笑顔は、生きようとする気持ちの表れだ。
だから、笑顔をたくさん集めれば、きっと人は強く生きられる。と、ボクはそう思っている。
これは、料理人のエゴだ。
一口も食べずに、このお店から出て行かせるわけにはいかない。
ボクに出来る精一杯のもてなしをして、今出来る最高の料理を食べてもらって、そして。
彼女には『生きる』ために、あのドアを出て行ってほしいと思う。