カウンターを出て、従業員専用のドアを開く。
この奥は食糧庫や従業員の居住スペース、そして、『狩場』が存在する。
『狩場』の名前は【ハンティングフィールド】。
この【歩くトラットリア】の有する不思議な力の一つ。
「……はぁ、緊張する」
ボクは慣れない槍を持ち、【ハンティングフィールド】のドアを開ける。
【歩くトラットリア】内に存在するこの部屋は、中が外になっている。
訳が分からないかもしれないが、事実なのだ。
ドアを開けると、室内であるはずのそこは外へとつながっている。
それも、毎回別の場所に。
ただし、この『外』は本当の外とは異なり、【歩くトラットリア】が魔法で作り出した、『狩りをするための空間』だ。
ここで狩った獲物は、『食材』として、厨房の【冷蔵庫】へと転移される。
料理に適した形に加工されて。
原理は分からないけれど、そういう魔法らしい。
なので、ここで獲物を狩ればボクはお客様に、あの美しい彼女に美味しい肉料理を振る舞ってあげることが出来る――
――狩ることが、出来れば。
「ブモォォォオオオオオウウウウウッ!」
「ぎゃぁぁあああ! 魔獣!?」
【ハンティングフィールド】に入って間もなく、ボクは草食動物であるはずの巨大な牛に追いかけ回されていた。
ヤバイヤバイヤバイ!
あいつ絶対ボクを食べるつもりだ! 肉食獣の目だ、アレ!
この【ハンティングフィールド】内にいる獲物は、決して大人しくはない。
例外なく凶暴で獰猛で、そしてバケモノばかりだ。
魔力を大量に浴びて進化し、強大な力を得た獣――魔獣。
そんな魔獣も、この【ハンティングフィールド】内にはうようよいる。
正直、ボクがヤツらを狩れる可能性なんてほぼゼロだ。
我武者羅に槍を突き出すが、魔獣(牛)の強靭な皮には傷一つ付けられない。
そればかりか。
「ンモゥッ!」
魔獣(猛牛)の凶悪で巨大な角によって、ボクの持つ槍はあっけなく破砕されてしまった。
丸腰のボク=獲物。
今まさに、狩人と獲物が逆転した瞬間だった。
「ブルルル……」
前足で地面を掻き、魔獣(魔牛)が頭を低くする。
突進前のポーズ。
自然界は弱肉強食。
旅の途中でこんな凶暴な魔獣に出くわしてしまったら、ボクは自分の未来をきっぱり諦めてしまうだろう。
けど。
「ボクは、負けられない……お客様に…………彼女に美味しいお肉を食べてもらって、明日も明後日も、これからの未来を強く生きてもらいたいんだ!」
不可能なことは百も承知で、ボクは両腕を広げる。……受け止めてやる。
角を掴んで首をひねって押さえ込めば、牛は動けなくなる――と、お師さんに聞いた。聞いただけで、実践してみせてもらったことはないけれど。
「モボォォオオオオッ!」
ボクが両腕を広げたのが気に障ったのか、魔獣(破壊牛)が怒気をまき散らして突進してきた。
巨大な物体が恐ろしい速度で向かってくる。
あ、これ。接触するだけで、ボク、死ぬな。
そう確信した時――目の前を真っ白な何かが横切っていった。
ボクの髪を掻き乱し、突風を伴って通り過ぎたそれは、どうやら極限まで圧縮された風の塊だったようだ。風の刃と言ってもいいかもしれない。
ボクと、ボクに向かって突進してきていた魔獣(驚いて立ち尽くす牛)の間の地面がざっくりと抉り取られていた。いや、これは……斬られていた。
巨大な刃で地面を切り裂いたような、深くも鋭い切れ目。
「大丈夫か、少年」
その声に振り返ると――
「勝手ながら、助太刀に来たぞ」
赤い髪をなびかせる美しい女性が立っていた。
思わず見惚れてしまうような格好のいい雰囲気と、心がきゅんとするような爽やかな笑みを湛えて。
そして……手には、カッチコチに凍ったイカを持って。
「イカッ!?」
「すまない。わたしの剣は折れてしまっているため、代わりになる武器を無断で拝借してきてしまった」
「いや、武器にならないですよ!? イカですし!」
「問題ない」
言って、彼女はイカを振りかざし、勢いよく振り下ろす。
瞬間、「ゴゥッ!」と空気が鳴り、光が屈折するほどの濃密な空気の塊が魔獣に向かって飛んでいく。
「ブモゥ!」
イカから発せられた真空波が直撃し、魔獣が吹き飛んでいく。
あれ、なんだろう? 心なしか、真空波が若干イカっぽいフォルムに見えたんだけど……
「適度に硬くて握り心地も悪くない! ただ、少しイカ臭いな」
無自覚ですか!? ワザとですか!?
そんな無邪気な顔でにぎにぎしないで!
「あの魔獣を狩ればいいのだな?」
「は、はい。そうなんですが……でも」
お客様にこんな危険な真似をさせるわけには……
「任せてほしい」
さぁっと風が吹いて、彼女の赤い髪が揺れる。
自信に満ちた表情には、店に入ってきた時にあった迷いのようなものがなくなっていた。
「君の料理が美味しいように、わたしの剣技も、捨てたものではないのだ」
その時浮かんだ彼女の笑みは、とても自然体で、とても綺麗だった。
どんな口も挟めない。そんな、完成された迫力があった。