ボクとしては、料理のお金は受け取らなくてもいいのだけれど、でも、こういうのは相手の人のためでもあるから。
なんらかの、自分が納得出来る形で返済しないと気持ちが落ち着かない人というのも、一定数いるのだ。
なら、簡単な掃除とか、お皿を洗ってもらった方が、変に固辞し続けるよりも簡単で平和的だ。
それで、彼女の中の負い目が消えるというのであれば、これ以上言うことはない。
「そ、それで、食事代を返済しきった暁には、是非頼みを聞いてもらいたい」
「頼み……ですか?」
それが、さっき言いかけていたことなのだろう。
こう、胸をバンッと叩いて、鎧をゆっさぁ~と揺らして…………にやり。
「頻度が上がってる!」
すり鉢の底を自分の頭へと打ちつける。適度に硬くて反省するにはもってこいだ。
「しょ、少年…………いや、趣味なら仕方ない……か」
マズい。
いい加減にしなければ、自分を痛めつけて喜ぶドMだと勘違いされてしまう。
ドMだなんて勘違いされるくらいなら、隙あらば大きなおっぱいを盗み見ていたむっつりスケベと思われた方が………………どっちもどっちだぁー!?
「……お客様…………ボクは一体、どうしたら……」
「い、いや、分からないが……すまない、力になれなくて」
どっちも嫌なら、どっちとも思われないように振る舞えばいいのではないだろうか。
そう、簡単なことだ。
アノ大きなおっぱいを見なければいいのだ。見てしまうから、罪悪感でドM行為に走ってしまうのだ。
いくら規格外の大迫力であろうと、見さえしなければ問題ない。
見るんじゃない、感じるんだ。
……あぁ、大きなおっぱいの気配を感じる…………
「悪化したじゃないかっ!」
壁っ! 壁っ! 棚っ! 柱っ! 壁っ!
「少年! 頭を打ちつけながらカウンター内をぐるぐる徘徊するのはやめた方がいいのではないか!?」
こんなボクを心配してくれる、優しいお客様。
あなたは女神様ですか?
「……懺悔します」
「い、いや、わたしにされても……困る」
はっ!?
そうだ。
ボクの話じゃない。
お客様が、この美しい彼女が、ボクに頼みごとをしたいと言っているのだ。
料理人として、お客様を迎え入れる店員として、そして、一人の男として、その頼みを聞き入れてしかるべきだろう。
「それで、ボクに頼みたいことってなんなんですか?」
料理代の支払い代わりに、期間限定で店の手伝いをして、それが済んだら、何をしてほしいというのだろうか。
「わたしを、ここで働かせてほしい!」
期間延長~!
……いやいや。
働くのが終わったら働かせてほしいって、疑問に思うのはボクだけでしょうか?
「君は、言った……可能性は無限大だと」
お肉の話で、そんなことを確かに言った。
「一所懸命頑張る人には、温かく迎え入れてくれる場所が、きっとあるとも!」
トマトのコンソメスープを作る時に、確かに言った。
「そして、『イカぁー!』ともっ!」
「いや、それは関係ないでしょう!?」
くっそぉ、もう一つくらい心に刺さるようないい感じのセリフを言っておけばよかった。
まさか『イカぁー!』が出てくるとは。
「……わたしは、生きていてはいけない人間なのだと……自分でそう思っていたのだ」
肩を落とし、暗い声で呟く。
彼女の顔には似合わない、自嘲気味な笑みがゆらりと広がっていく。
そんな顔は、しないでほしい。
「けれど、ここに来て……美味しい物を食べた途端……お腹が鳴った」
恥ずかしそうに、くすぐったそうに、彼女ははにかんで自分のお腹に手を添える。
張りついていた自嘲気味な笑みは消え去り、彼女によく似合う、花がほころぶような恥じらう笑みが浮かんでいる。
「お腹がすくのは、体が生きたがっている証拠……だったな」
「はい。お師さんの受け売りですけど」
「どうやら、わたしはまだ生きたいようだ」
この店に来る前と今では、彼女を取り巻く雰囲気がまるで変わっている。
彼女の表情も、きっと違っているのだろう。
そのはずだ。
彼女は、今、変わろうとしている。
なかなか踏み出せなかった一歩を、今ここで踏み出そうとしている。
「ここでなら……、わたしは頑張れると思うのだ。温かくて、いい香りに満ちていて……そして」
彼女の顔がこちらを向いて――
「優しい君がいる、この店でなら」
――とびっきりの微笑みをボクにくれた。
え……
あれ?
なんだ、これ?
心臓が……………………痛い。
苦しくて、目の奥がカーッと熱くなって、目の前がふらふらと揺れている。
彼女の笑顔を見ているだけで、この世界から争いと悲しみが一切合切なくなったのではないかと錯覚してしまえるほど、世界が鮮やかに色づいて見える。
「少しの間だけでもいい。わたしが、生きる意味を見つけられるまで――」
彼女の声がボクの体に染み込んでいく。
トクン……トクン……と、鼓動が…………熱い。
「――君のそばに置いてはくれないか?」
不安と恥ずかしさがありありと見て取れる、精一杯頑張ったその笑顔はぎこちなくて……
それが、たまらなく愛おしいと思った。
「条件があります」
気が付くと、ボクは口を開いていた。
ずっと見つめていたいという思いとは裏腹に、さっさと逃げ出してしまった視線の先をなんとなく見つめ、でも意識だけははっきりと彼女に向けたままで。
持てるだけの勇気を振り絞って、逃げ出した視線を強引に彼女へと向ける。
そして、彼女が先ほどそうしたのであろうことを真似して、緊張を無理矢理抑え込んで、出来る限りの笑みを浮かべる。……きっと、ぎこちなくて変な顔になっているのだろうけれど。
「名前を、教えてください」
一緒に働くのなら、『彼女』や『お客様』なんて呼び方は出来ない。……したくない。
彼女の名前を知りたい。
でも知ってしまうとボクは……
「なんだ、そんなことか。……ふふ、緊張して損をしたな」
きっとボクは、はっきりと自覚してしまうのだろう。
「申し遅れてすまなかった。わたしの名前は、アイナだ」
ボクは、この人に――アイナさんに恋をしてしまった。
それも、生まれて初めての、とても大きな比類なき、本気の恋を。
あとから知ることになるのだが、人はそれを――『初恋』――と、呼ぶらしい。