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5話 ボクの名前 -1-

 彼女の名前が分かった。

 アイナさん。


 ……いい名前だ。

「ア」が格好良さを、「イ」が誠実さを、「ナ」が可愛らしさを表しているようだ。

 思わず口にしたくなる名前だ。


「アイナさん」

「ん? 何かな?」

「ぁ…………いえ、呼んでみただけ、……です」


 なにやってんの、ボク!?

 どこのバカップルですか!?


 ……そんな、カップルだなんて……まだ早い。まだ早いよ……うへへへへ。


「もしよければ、君の名も教えてくれないか?」

「あ……えぇ。まぁ、そうですよね」


 ボクの名前……ボクを捨てた両親が付けた名前……か。


「ボクは、エックハルトと言います。……へへ、なんだか仰々し過ぎて、似合ってないですよね。よく言われるんです」


 いけない。

 聞かれもしないことをしゃべって、自分を貶めている。悪いクセだ。

 他人に悪く言われないように、先に自分で悪く言ってしまう。逃げ腰の、卑怯な行為だ。


 はぁ……自分が嫌になる。


 卑屈さが顔に滲み出してでもいたのか、アイナさんがじっとボクを見つめている。

 アゴに指を添え、真剣な眼差しで。


「うむ」


 そう呟いた後、聞き慣れない言葉を発した。


「エッくん……」

「……へ?」

「では、わたしは君をエッくんと呼ぼう」


 エッくん?


「『エッくん』なら可愛らしくて、君にも似合うと思う」


 笑っている。アイナさんが。


 まさか、ボクの気持ちを察して、こんなことを……?

 この人は……アイナさんは…………

 どこまで優しい人なんだ。


「か、可愛いって……ボク、男ですよ?」

「ふふ。でも、可愛い顔をしている」

「えぇ~……」


 お互いの名を呼んだことで、少しだけ、距離が近くなった気がした。

 少しだけ意地悪な顔をするアイナさんも、嫌いじゃない……むしろ、いい。


「『エッくん』と呼んでもいいかな、エッくん?」

「もう呼んでるじゃないですか……」


 くすりと、アイナさんが笑う。

 自然な笑み。

 全身の血液が顔に集まってくるような恥ずかしさを感じた。


『エッくん』、か。

 そんな呼び方をした人は初めてだ。


 なんだか、特別な感じがして…………いいな、これ。


「エッくん」

「はい。なんですか?」

「ふふ……呼んでみただけだ」

「ぁう……」


 さっきの仕返しだろうか……

 思わず言葉に詰まったボクを見て、アイナさんは楽しそうに笑った。


「すまない。君を見ていると、つい、可愛くてな」


 可愛い可愛いを連呼されるのは、ちょっとどうかと思うのだけれど。


「わたしにはないものだから、羨ましいよ」

「そんなことないです!」


 それは、脳が考えた言葉ではなかった。

 心が、魂が、物凄い速度で反論していた。


「アイナさんは可愛いですっ!」


 言い切った。

 言い切って…………奈落へ落ちた。


 なに口走ってんの、ボク!?


 アイナさん(女性)がボク(男)に言うのと、ボク(獣)がアイナさん(愛らしい生き物)に言うのでは意味も重みも客観的観点から見た重大性もまるで違ってくる。

 いきなり、親しくもない男にそんなことを言われた女性の反応は大きく二つ。

「え、なに言ってんの?」と呆れるか、「は? キモっ」と拒絶するかのどちらかだ。


 ……おぉう、詰んだ。


 これからよろしくお願いしますという前に終わらせてしまった。

 ボク、キモいなぁ。


 どん引きしているであろうアイナさんの顔を、恐る恐る窺うと――


「な……なん…………はぅ……」


 なんか、赤い顔をして固まっていた。


「おも、面白い、冗談だなぁ」


 カサカサに乾いた声でそう言った後、俯いて、顔にかかる前髪をいじり始める。


「…………」

「…………」


 沈黙……

 すみません。ホントにすみません。

 勢いだったとはいえ、不用意な発言を…………キモいですよね、ボク。


「…………初めて、言われた」

「へ?」


 赤い髪の隙間から、赤い瞳がボクを見ている。


 う・わ・め・づ・か・い・っ!


 この緊張からの上目遣いとかっ、心臓の耐久性を試しているとしか思えませんって!

 今もしもボクが倒れたらそれは、恋の心臓発作です!


「接客業は、お世辞を言うのも仕事のうちだと聞いたことがある……まさか、わたしが言われるとは思ってもみなかったけれど……」


 いや、あの。接客業と言っても、職種によって違いますよ。

 飲食店では、あまりお客様にお世辞を言ったりはしませんよ。八百屋さんや服屋さんならともかく。


「お世辞だと分かっていても…………くすぐったい、な」


「な」って!

 同意を求める感じで、「な」って!

 あなた、それは飛び道具です! 射貫かれちゃってますってば!


「へへ……初お世辞だ。…………わーい」


 照れなのか、恥ずかしさを誤魔化すためなのか、はたまたはぐらかすためなのか、アイナさんはぎこちない照れ笑いでおどけてみせた。


 血を、吐きそうです!

 恋の吐血です!

 それで死ぬなら本望です!


「いや、別にお世辞というわけでは……」

「ん?」

「……………………よ、喜んでもらえて、何よりです」


 首がポキッて鳴るくらいの速度で顔を背ける。

 いやいやいや、むりむりむり!

「お世辞じゃないさ。君は本当に……(溜め)……可愛いよ(白い歯きらーん☆)」とか、言えるわけがない!


 そ、それに、ほら、アレです、アレ。

 そ、そう! 喜んでたし!

「初お世辞」って、お世辞を言われたことを喜んでいた様子だし、「お世辞じゃないよ、勘違いしないで」なんて、その喜びを台無しにするような真似は出来ない。そんなこと言ったら、きっとアイナさんは「しょぼーん」ってしちゃう。


 …………くっそ、見たいな「しょぼーん」ってするとこ!






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