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6話 初めての夜 -1-

「ぁふ……」


 不意に、アイナさんの口からあくびが漏れた。


「眠たいですか?」

「あ、すまない。大丈夫だ」


 時計を見る。夜の七時。

 ダンジョン探索をしていたのなら、疲労から眠気が襲ってくる時間かもしれない。


「お腹はもう平気ですか?」

「うむ。とても美味しかった。……きちんと、支払いは済ませるから、少し待ってほしい」

「それは、はい。待ちますから、あまり気にしないでくださいね」


 律儀な人だ。


「今日はもう休みますか? ベッドを用意しますよ」

「いや。構わなくてもいい。それに、まだ閉店したわけでもないし」


【歩くトラットリア】には、閉店という概念があるようでない。

 なにせ、世界中を移動し続けるのだ。大陸を横断すれば時差もある。【歩くトラットリア】の移動距離と移動速度を考えると、閉店時間というものを設けるのが難しいのだ。


 それに、どんな真夜中でも早朝でも、人のお腹はすくものだから。

 空腹で倒れた人に「すみません。閉店なんで」なんて、言いたくないし。


 なので、好きな時に休んでもらって問題ないのだが。

 律儀なアイナさんなら、ボクが休むと言わなければ休んだりしないのだろう。


「じゃあ、ボクも一緒に休みますから、もう寝ましょう」

「い、一緒に!?」

「え? ……あぁ、いえ! 違います! 同時に! 別々の部屋で!」


 まさか『一緒に休む』をそう捉えられるとは。

 指摘されるまで気付かなかった。…………くぅ、心臓がお祭り騒ぎしている。


「……あっ」


 別の部屋でと自分で口にして、今さら気が付く。

 この【歩くトラットリア】には従業員用の居住スペースがある。

 ボクも自室をもらっている。

 そして、お師さんの部屋。そこは以前、先代オーナーの部屋だったそうだ。とても広く、豪華な書架があって、アンティークな机と椅子が置いてある。ベッドも大きい。


 以上が【歩くトラットリア】に併設されている居住スペースのすべてだ。

 つまり、二部屋しかない。


 お師さんの部屋を使ってもらうしか、ない……よね。

 ボクの部屋で一緒に寝るわけにはいかないし。

 けど…………お師さんの部屋かぁ……


「あの、寝る部屋なんですけれど……」

「ここで大丈夫だ」

「いや、そういうわけには」


「ここ」と、店の床を指差すアイナさん。

 冒険者精神が染みついてますよ。ベッドで寝ましょう、ちゃんと。


「お師さんの部屋を使ってください。……変な物がいっぱいあって、ちょっと狭いかもしれませんけど……」


 お師さんの部屋は広いのに、その容量いっぱいに荷物が多い。

 よく分からない物から、非常にくだらない物まで、いろいろな要らない物が本当に必要な物を覆い隠すように溢れ返っているのだ。

 ……お師さん。くだらない物集めるクセがあるから。


「勝手に借りてもいいのだろうか?」

「いいですいいです。……ちょっと、加齢臭がするかもしれませんが」


 どうしよう……物凄く不安になってきた。

 なにせ、千年という時を生きているお師さんだ。加齢臭も常人の比ではない……かも、しれない。あんまり感じたことはないけれど。でも、女の人はそういうの敏感だっていうし。


「大丈夫だ。わたしは腐敗臭の中でも眠れる」


 それは眠れないでほしかったな。


「では、ありがたく使わせてもらおう。その『お師さん』という方に会った際は、誠心誠意礼を述べなければいけないな」

「あぁ、いいですいいです。そこまで偉い人ではありませんから」


 ただボクが尊敬している。それだけの人なんです、お師さんなんて。


「あ、そうだ。アイナさん」

「……くふ」


 名前を呼ぶと、アイナさんがはにかんだ。

 え? なに?


「すまない。なんというか……くすぐったいものだな、名を呼ばれるというのは」


 そう言って、肩をもじもじと揺する。

 あぁ、分かるなぁ、その感じ。


 ボクも名前を呼ばれ慣れてないから、きっと呼ばれるとくすぐったいんだろうなって思う。

 名前自体は、あまり好きではないんだけど、でも……アイナさんが素敵な呼び名をくれたから。


 エッくん。


 アイナさんの声でそう呼んでもらえれば……きっと、満たされた気持ちになるだろう。

 これからずっと、そういうふうに呼ばれるのか…………うふふふふふふふふ。いい! とてもいい! 毎晩毎晩枕を濡らしそうです! よだれで!


「じゃあ、これからいっぱい呼びますね。アイナさん」

「はぅ…………う、うむ。よしなに頼む」


 顔を逸らして前髪をいじる。

 あれはクセなのだろうか。

 ネコが顔を洗っているみたいで、ちょっと可愛い。


「ボクのこともたくさん呼んでくださいね」


 催促もしておく。

 こ、これくらいのわがままは、いいよね? ウザくないよね?

 え、キモいかな?

 押しつけてる感満載かな?

 キャンセルした方がいいかな!?


「……う、うむ。分かった…………呼ぶ」


 なんだか恥ずかしそうに俯いて、でも、不快さはそんなに感じさせない声音で、そう言った。

 不快じゃ、な……さ、そう? かな? だよね? ないよね? ね?


「で、では……」


 こちらを向き、居住まいを正し、アイナさんが大きく息を吸う。

 ボクの名を呼ぶために。


「エッく…………………………………………シェフ」


 呼んでくれない!?







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