「っていうか、ここはなんなの?」
「ここは【歩くトラットリア】じゃよ」
「トラットリアって……たしか『大衆食堂』みたいな意味だっけ? って、『歩く』って何よ?」
「まぁ、それはいずれ分かるじゃろうて、ほっほっほっ」
カウンターに戻ってきたキッカさんはお師さんと話をしている。
お師さんを見ても取り乱さない人は珍しい。
片や、お師さんは美人なら誰でもいいって人だし、相性がいいかもしれないなこの二人は。
「つか、剣鬼さぁ。さっき、全然違うこと言ってなかった?」
「惜しかった」
「『ト』くらいしか合ってなかったよね?」
「噛んだだけ」
「覚えてないんじゃないの?」
「そんなことはない」
「じゃあ今言ってみなさいよ!」
「わたしにはその義務がない」
負けず嫌いだ!?
アイナさんは、やっぱりちょっと負けず嫌いだったんだ!
……うふふ。意地っ張りさん。
「つか、そこキモい。タマちゃん、にやにや禁止」
なんて横暴な……ボクの生きる楽しみを……
「まさか、こんな簡単なことも出来ないから、あたしに練習付き合えとか言ってるわけ?」
「む……簡単ではない。接客業は心が重要。口先だけの軽い言葉ではお客様を楽しませることなど不可能」
おぉ……なんだかベテラン従業員のような発言を。
しかしながら、正論なのに言葉が空虚なのはなぜだろう。
「そ~んなもん、笑顔で可愛らし~く言ってやりゃあいいんでしょ?」
「ふふん……未経験者は知らないだろうけれど、言うのとやるのでは違う。『言うはヤスシ・カタシ』という言葉もある」
「ないですよ、そんなユニークな二人組っぽいことわざ!?」
さっきの『トラダ・トリヤマ』もユニークな二人組っぽかったですけど。
「言うは易く行うは難し」って言いたかったのかな、たぶん。
「実際やってみれば、あなたも接客業の奥深さを知ることになるだろう」
今朝から練習を始めたばかりのアイナさんが、なんか深いことを語っている。
とりあえず、接客業に興味を持ってくれたのだと喜んでおこう。
「じゃあ、やってあげるから、あんた一回出て入ってきなさいよ」
「……いいだろう。しかと見せてもらうとしよう」
険しい表情でカウンターを離れ、アイナさんが外へ出る。
ドアが閉まり、しばらくしてアイナさんが再び店内へと入ってくると――
「いらっしゃいませぇ~☆ ようこそ、【歩くトラットリア】へ~☆」
完璧な営業スマイルの挨拶を繰り出すキッカさん。
まぁ、多少あざと過ぎるところもあるけれど、これくらい元気があってもいいだろう。
「ど~んなもんよ?」
ふふんと鼻で笑うキッカさん。
一方のアイナさんは拳を強く握りしめ俯いている。
そして、キッと鋭い視線でキッカさんを睨んだかと思うと。
「参りました」
土下座した。
「潔いな、剣鬼!?」
「コツを教えてください」
「あんたにはプライドはないのか!?」
「完敗です」
「違うのよ! あたしはこんなことで勝ちたかったんじゃないのよ!?」
「あなたこそが、いらっしゃいませの申し子。いらっしゃいマスター」
「カッコ悪っ!? 違うから! あたし、そんなもんになってないから!」
力関係が一気にひっくり返った。
アイナさん、本当に接客業覚えたいんだな。
「アイナさん」
「……シェフ」
床に膝をついていると痛くなりますよ。
「すまない……わたしは、この………………えっと、あの…………え~…………」
「えっ、まさか名前覚えてないの!? 嘘でしょ!? あたし、あんたには何度も名乗ったでしょ!? 手紙も出したわよね!」
「…………ん?」
「記憶にないのか、コンチキショー! キッカよ、キッカ!」
「そう、ピッカ」
「キッカ! 三文字も覚えられないのか、あんたは!?」
「……あの人よりも長くここにいるのに、あっさりと抜かれてしまった……」
「キッカ! 名前覚えられないって諦めんなぁ!」
「キッカさん、ごめんなさい。今、アイナさんと話してますので、ちょっと『しぃ~』で」
「おまっ!? 依怙贔屓も大概にしなさいよね!? どう見ても悪いのは剣鬼でしょうが!」
ぷりぷり怒るキッカさんをなだめて、アイナさんに向き直る。
とても不安げな表情をしている。そんなに、心を痛めなくてもいいのに。
「……わたしには、才能がないのかもしれない。頑張りたいのに……気持ちだけでは、勝てないのかもしれない……」
「そんなこと……」
うずくまるアイナさんの背に手を伸ばし、こんがらがったエプロンの紐を解く。
「……あっ」
「動かないでください。今、結び直しますから」
「…………すまない。そんなことまで」
「いいんですよ」
沈んでいくアイナさんの声の分まで明るい声で、ゆっくりと言葉を届ける。
「アイナさんのペースでいいんです。ボクがゆっくりと、全部教えますから」
「しかし……そんな手間を取らせるわけには……」
「手間くらい、いくらでもかけてください」
「それでは、シェフの仕事が……」
「アイナさんの教育実習も、ボクの仕事の一つですから」
「シェフ……」
「なので、最初から完璧にやられちゃうと、ボクの仕事がなくなってつまんないですよ」
ようやく顔を上げたアイナさんに、自分史上最大級の笑みを向ける。
うまくいっているといいのだけれど。
「…………そう、か」
よかった。
アイナさんに笑みが戻った。
「それに、最初より良くなってましたし」
「そ、そうか!? 本当に?」
「はい。ちょ~~~~っとだけ、ですけど」
「そ、そんなに……ちょっと、か?」
「はい。残念ながら」
おどけて言うと、アイナさんが「ふっ」と吹き出した。
「では、まだまだ研鑽が必要だな」
「ですね」
「でも……成長、しているのだな」
「はい。してます」
明確に頷くと、アイナさんの瞳に活力が戻った。
「よしっ、わたしはわたしのペースで、遅いながらも着実に前進して、いつかキ………………ナントカさんのようないらっしゃいマスターになってみせよう!」
「キッカだぁ! そして、いらっしゃいマスターになった覚えはなぁーい!」
よかった。アイナさんが元気になって。
あと、キッカさんちょっとうるさい。