「って、こら!」
なんとなく流れ始めたいい感じの空気を、キッカさんが大声で吹き飛ばす。
……むぅ。
「むくれるな! こっちは納得いってないのよ!」
だんっ! と、カウンターを叩き、アイナさんに指を突きつける。
「剣鬼、あんた。『ボンゴレ』って言ったわよね!?」
「…………そう?」
「もう忘却の彼方か!?」
「コレが、わたしの好きな食べ物。通称『コレ』」
「名前を放棄してんじゃないわよ!」
「名前なんて些末なもの。大切なのは、伝わること」
「名前を間違えてると伝わるものも伝わらないって言ってんのよ!」
怒髪が天をつっつきまくりなキッカさんの隣で、アイナさんは優雅にスープを啜っている。
アイナさんには難しかったのだろう。
だって、『ボンゴレ』も『コンソメ』も、母音的には『おんおえ』となって、まったく一緒なのだから。
「間違えても、仕方ないですよねぇ」
「甘やかすなぁ! あんたがそんなだから、剣鬼がこんなんなのよ!」
『そんな』って言われても……
「大丈夫。もう覚えた」
「どうかしらね。信用出来ないわ」
頬杖を突くキッカさん。
まったく信用していない素振りだ。
けれど、アイナさんは真剣な声ではっきりと言う。
「あの時は、いろいろ初めての感覚に戸惑っていただけ。わたしの大切な思い出の料理――もう、二度と忘れない」
その言葉には、強い決意が表れているようだった。
「これまでの人生は、覚えておきたくないことばかりだった。忘れたいことだらけだった。でも。シェフに会ってから……」
コンソメスープに温められた頬が、薄く色付いている。
「覚えておきたいことがたくさん出来た。忘れたくないことがいっぱい出来た」
いつもの鋭い視線が、微かにゆるく弧を描く。
「これからは、いろんなものを覚えて生きていく」
アイナさんが「生きていく」と言ってくれて、なんだかジーンときた。
アイナさんの物覚えが悪いのには、何か理由があるのだろう。
その理由を聞くことは、もしかしたらないかもしれないけれど……これからやりたいことを語ってくれたことは、素直に嬉しかった。
「人は変わるもんじゃ。だからこそ、面白いのじゃ」
アサリを飲み込み、空になった貝殻をポイッと捨て、お師さんは満足げに口の周りをぺろりとなめる。
「不思議なものでな、『本当の自分』というのは、他人と一緒にいる時にこそひょっこりと顔を出すものなのじゃ。孤独の中では絶対に見つけられん……孤独の中で感じる『自分』は、ただの願望じゃ」
お師さんの言葉に、空気が少し引き締まる。
アイナさんもキッカさんも、真面目な顔でお師さんを見つめている。
そして、ボクも。
しばし無言の時間が過ぎ、キッカさんが眉間にシワを寄せた。
「それは、どうかしらね」
何かをいろいろ考えた結果、どうしても納得出来ない部分があった。
そんな顔で、お師さんに反論する。
「他人といると、よく見せようとか虚勢を張ろうとかしてしまうものじゃない。そっちが本当の自分だなんて、あたしは思えないわね」
「無論、他人の前では『外面』を見せるもんじゃからなぁ」
「だったら……」
「言うたじゃろ? 本当の自分は『ひょっこり顔を見せるもの』じゃと」
新たなアサリを手に取り、中身をほじくり返す。
そんなことをしながら、お師さんはこんな例え話を始めた。
「あるところに極悪人がおっての、そいつは自分の腐った性根を理解しておったし、自身を最低最悪の人間だと確信しておった。……じゃがある日、男は魔獣に襲われそうな女の子を助けてしもぅたんじゃ」
「助けて『しもぅた』……ですか、お師さん?」
「うむ。男にとってそれは予想外のことであり、信じられんことじゃった」
「それで、その女の子はどうなったのだ?」
「無事じゃったよ。男は死んだがの」
「え……」
アイナさんが言葉に詰まる。
あの、アイナさん。そんなに真に受けなくていいですよ。例え話ですから。
……例え話、ですよね?
「男は、自分は孤独が似合い、仲間など必要ない、むしろその方が楽でいいと思ぅておった。それが本当の自分じゃと。じゃがの、女の子と出会い、煩わしい面倒くさいと思ぅておった時間が実は楽しかったんじゃなと、その男は気付いたんじゃ……死の間際にの」
「本当の自分は、文句を言いながらもそれを楽しいと思っていた……ということですね」
「ま、そうなんじゃろうの」
食べ終わったアサリの貝殻を無造作に放り投げ、満腹になったのか長い指で顔を数度拭う。
「他人と一緒におるとの、自分でも知らん自分に気付かされる時があるのじゃ。それがまた、なんとも面白い――価値観をひっくり返されるようなもんじゃからの」
ほっほっほっと笑い、お師さんはカウンターにごろんと寝転がった。
天井を仰ぎ、ぷっくり膨らんだお腹をさする。
「お師さん」
珍しく長く語ったお師さんに、ボクは今の素直な気持ちを告げる。
「食べてすぐ横にならないでください、手掴みでアサリを食べないでください。貝殻をぽいぽい床に捨てないでください」
「ボーヤよ、顔が怖いのじゃ。いい話してやったからチャラじゃチャラ」
ったく。誰が片付けると思ってるんですか。
けど、お師さんの言うことも分かる気がする。
お師さんと出会うまで、ボクはこの世界に必要のない存在だと思っていたし、ボクなんかが誰かの役に立てるなんて考えもしなかった。
けど今は、料理を通じて誰かに元気を分けてあげられる。そんな自信を持っている。
料理好きになったのはお師さんの影響かもしれないけれど、料理を楽しいと思っているのは、きっとボクの本心だ。
他人によって気付かされる本当の自分、か。
アイナさんに出会ってからも、ボクは自分の意外な一面に驚かされたりした。
あれも、もしかしたら『本当のボク』の一面なのかもしれない。
アイナさんのおかげで気付けた、本当の自分は………………むっつりスケベ?
「ぐふっ!」
なぜだろう……心が、痛い……違う。そんなの本当のボクじゃない……
「カエルの言うことなんか間に受けてたまるか……」
「お~い、ボーヤ。心の声が漏れとるぞ~。あと、自分の負の部分を受け入れる勇気も時には必要じゃぞ~」
ふ、負の部分なんかないですから。
ボク別にそんなんじゃないですから!
アイナさんのことはもっと純粋な気持ちで……あ、そうか。
アイナさんに出会って、ふとした仕草に胸が高鳴って、こんなに穏やかで幸せで……これが、本当のボクなんだとしたら、それはすごく幸せなことだと思う。
「さすがお師さん。いいこと言いますね!」
「情緒不安定なのかの、ボーヤ?」
なんにせよ。
「誰かと一緒にいるって、楽しいですよね」
そう。アイナさんやお師さん、それにキッカさんもだけど、ボクはこの人たちと一緒にいるのが楽しいと思っている。
まだ出会ったばかりだけど、出来ることなら、これからもずっと一緒に楽しい時間を過ごせればいいなと、思っている。
アイナさんや、他二名と。
「ボーヤの顔は分かりやすいのぅ。とりあえず、抗議させてもらうのじゃ」
お師さんが何か言っているが、アサリの貝殻を拾うまでは無視だ。
すーん。