そのまましばらくの間、三人とも動かず、時間と空間が凍りついていた。
そして、シェフの視線が微かに動いて、わたしを見つける。
表情に変化が現れる。
「あっ」という顔から「やばっ!?」みたいな顔を経て「どどどどどどうしよう!?」みたいな顔、そして「と、とりあえず笑っておこう」みたいな笑顔。
うむ、笑顔だ。
笑顔には笑顔で返すのが礼儀。
なので、微笑みを返す。……いまだ苦手ではあるのだけれど。
にっこり。
……と、した途端、シェフに視線を外されてしまった。……なぜだろう?
ちょっと、ショック……だったりする。
シェフの動きを見てか、キッカが何かに気付いたように、「出来れば気付きたくなかった」みたいなぎこちない動きで、ゆっくりと振り返る。
わたしの顔を見るや否や、キッカの顔から血の気がサーっと引いていく。真っ青。いや、真っ白になる。
「ごっ、ごみゅん!」
そんな不思議な鳴き声(?)を残して、キッカはわたしの隣をすり抜けて従業員スペースへと駆け込んでいった。
バタン!
バタバタバタバタバタバタバタバタ……ガッ! ゴン! バタン! ドサドサ……
…………………………し~ん。
おそらく、廊下を走っている時に、積んである荷物に足の小指をぶつけて、その痛さに飛び退いたら後方の壁に後頭部を強打して、悶え苦しみながら廊下に倒れたところへ、積み上げてあった荷物の箱が崩れて覆いかぶさってきたのだろう。
「たぶんですけど……廊下を走っている時に、積んである荷物に足の小指をぶつけて、その痛さに飛び退いたら後方の壁に後頭部を強打して、悶え苦しみながら廊下に倒れたところへ、積み上げてあった荷物の箱が崩れて覆いかぶさってきたんでしょうね」
すごい。
まるでわたしの心を読み取ったかと思うほどにまったく同じことを考えていた。
店員であるわたしの思考などすべてお見通し……ということだろうか。
わたしのことを、よく分かっていてくれる……………………にやにや。
はっ!?
違う。そんなわけがない。わたしなど……ただ、単純なだけで、誰にでも心が読まれまくりで、丸分かりで、あけっぴろげなのだ。そうに違いない。
「……もう少し、表情を殺す練習をしなければ」
「えっ!? それ以上ですか!?」
む。
なんだか否定された気分になる。
わたしには無我の境地にたどり着けっこないと、シェフはそう言いたいのだろうか。
確かにわたしはまだまだ未熟ではあるが…………
……いや、待ってほしい。
もしかしたら、違うかも…………わたしの心を読んだのではなく……
視線が従業員スペースへのドアへと向かう。
……キッカの行動を読んだのかもしれない。
ということは、シェフは――
『あはは。キッカさんのことなら、なんでもお見通しさ☆』
――爽やかな笑顔でキッカのおでこを「つん!」とするシェフの顔が浮かんだ。
脳を物理的に揺さぶって、浮かんだ映像を消す。
なぜだろう……
いつもは、シェフのそのような顔が脳裏に浮かぶと心臓がぎゅっと縮むのだが、今回は違った。今回は……なんだか、痛かった。
「あの、アイナさん?」
シェフが、前かがみになってわたしの顔を覗き込んでくる。
わたしは、気付けばシェフに背を向けてうずくまっていた。……いつの間に?
「大丈夫、ですか?」
「だ、大丈夫だ……です」
あれ?
今なんで言い直しのだろう?
普段通りの言葉遣いでは、なんとなく……勝てない気がした………………「勝てない」? ん? 何にだろうか?
「……何に?」
「え、何がですか?」
「…………何が?」
「え?」
「え?」
互いに首を傾げ合う。
……なんの話を、しているのだろうか?
まぁ、いい。シェフと話をするのは、どんな内容だろうと……楽しい。
「あ、そういえば。ありがとうございます」
「え? …………なに?」
「キッカさん」
……チク。
「そばにいてあげてくれて、ありがとうございました」
「あ、……あぁ。いや。礼には、およばない」
そうだった。
わたしはシェフに言われてキッカを追いかけたのだった。無論、わたし自身も追いかけたいという思いはあった。けれど、職場放棄は接客業の敵。お客さん前逃亡は死罪に匹敵する。
だから、シェフが行けと言ってくれて、嬉しかった。
きっとキッカは独りぼっちじゃ……
「きっとキッカさんは、独りぼっちだとつらかったと思うんですよね、あぁいう時」
……チク。
「……アイナさん?」
「いや……なんでもない」
なんだろう。
なぜ、痛むのだろう。
シェフは優しい。
従業員思いの優しいシェフ。それは今も昔も変わらない。
キッカもわたしと同じ従業員で、シェフにとっても大切な従業員で……
……チク。
「…………シェフ」
「はい?」
「……介錯を、お願い出来ないだろうか?」
「なぜ腹を切る流れに!?」
わたしは、嫌な人間だ。
なぜ――楽しそうに笑うキッカとシェフの姿が頭に浮かんで――悲しい気持ちになっているのだろうか。
わたしは、嫌な人間だ。
「あの、アイナさん」
「…………キッカの様子を見てくる。怪我を、していると困る、から」
いたたまれなくなって、わたしは逃亡を計画する。シェフ前逃亡は規約違反にはならないはず。
今すぐ、シェフの前から消えてしまいたかった。
きっと、今わたしは、とても酷い顔をしている。醜い、顔を。
シェフには、見られたくない。
好かれることなどあろうはずもないけれど……嫌われたくは、ないから……
「あっ、アイナさん。ちょっと待ってください」
立ち上がろうとしたわたしの肩を、シェフの手が優しく押さえる。
そして――
「さっきから気になってたんですよね」
そう言って、わたしの髪を――
「髪の毛、跳ねちゃってますよ。直します」
ぽん、ぽんって――
「少し、動かないでくださいね」
――撫でた。
「――――――――っ!?」
大声で叫んだ……つもりなのに、声が一切出ていなかった。
な、なで、なで、な、なんで、なで、なでなでなんで……っ!