「師匠。之人神様って、知ってますか?」
仕事終わりのまったりとした雰囲気の中、工房の大きなテーブルで差し向かいに座り、コーヒーの湯気が二つ天井へ上っていくのを視界の端に捉えつつ、僕は師匠に相談を持ちかけた。
相談というか、情報収集だ。
だって、『元神様です』って言われて「なるほど、分かりました」では済まされないじゃないですか、そんなの。
この『世界』に詳しい師匠なら、きっと有力な情報をくれるに違いない。
正しい之人神様との付き合い方とか。
……いえ、カサネさんの付き合い方がおかしいと非難するつもりはないんですが……カサネさんって、誰に対してもさっぱり塩対応なところがあるから。
特に、神様に対して特別視するようなこともないみたいだし。
きっと神様を無条件で敬ったりすることのない種族なんだと思う。
というわけで、庶民的感覚が僕と近しい師匠に尋ねようと思ったのだ。
一緒に生活しているとよく分かる。
師匠は僕とすごく似ている。物の考え方や生き方。いわゆる『普通』の基準が僕と近しいのだ。
たとえば、大好きな芋の煮っ転がしを床に落としたら、「三秒ルールだ」って言って食べちゃうし、チロルちゃんが師匠より僕を優先するような発言をすれば分かりやすくスネるし、早朝こむら返りを起こして悶絶している姿なんか異世界の人間だなんて思えないほど親近感を覚えてしまう。
そんな師匠に聞けば、正しい接し方が分かると思うんだ。
「之人神?」
「はい。どんな風に接すれば失礼に当たりませんかね?」
「ん~、人それぞれだとは思うが……とりあえず、むやみに敬うような言動はやめておけ」
「……へ?」
「さっきみたいに『之人神様』って様を付けたりよ、『失礼に当たりませんか』とか、気を遣うのはやめておいた方が無難だ」
いやいや、でもですね。
「神様、なんですよね?」
「『元』な」
元とはいえ、神様だったことに変わりはないのだから、僕なんかよりもずっと目上ということになると思うんですけども……
「お前が俺にしてくれているような敬意をもって接するってのはいいんだ。けどな、必要以上にへりくだったり、あまつさえ崇め奉る必要はない。というか、しない方がいい」
様付けが、それに該当するのだろうか。
「あくまで人によるし、全員が全員そうだってわけじゃないってことを念頭に聞いてくれよ?」
そんな仰々しい前置きをしてから、師匠はゆったりとした口調で語り出した。
「之人神ってのはな、やっぱどこかで自分は特別だって思ってるヤツが多いんだ。そうは見えなくても、心の底か端っこの方ではな」
生まれ持った神格。
幾星霜も続いた神としての時間。
それは、ちょっとやそっとでは払拭できないものらしい。
「普通に接してりゃそこらの人と変わらないのによ、崇めたりするとな、途端にそいつにとっての『特別』になっちまうことがあるんだよ」
「『特別』、ですか?」
「野暮ったい言い方をすりゃあ『信者』ってヤツかな」
神を崇める者は信者と呼ばれる。
なるほど。それはそうかもしれない。
「それで上下関係が生まれてしまう、ということですか?」
「まぁ、そういうのもあんまよくはないが……そんなもんは割とどうでもいいことだ」
「厄介なのはな……」と、呟いた後、師匠は周囲をぐるりと見回して、ぐっと身を乗り出し、声を潜めてこう言った。
「連中は嫉妬深いのさ。自分の『特別』が誰か他のヤツの『特別』になることを心底嫌がる」
「嫉妬……ですか?」
「あぁ」と言いながら体を起こし、深く長~いため息をこぼす。
「御利益なんか全然寄越さないくせに、祟りだけはしょっちゅう吹っかけてくる。そういう
確かに、『○○に□□すると呪われる』または『○○に□□しないと呪われる』って話はよく聞いたけど、その『○○』が御利益をくれる方法っていうのは聞いた覚えがない。
僕が知らないだけかもしれないけれど。
「もしお前ならどうだ?」
「え? 僕が、なんですか?」
「これまで出会った何人かの女性がいるだろ? その中で誰か一人……そうだな、たとえばあの相談員さんとよ、特別な関係になったとするだろ?」
カサネさんと特別な関係に。
そんな言葉に、心臓がきゅっと鳴った。
「お前にだけは特別優しくて、休みの日には仲良く出かけて、ことあるごとにお前を気にかけて優しい言葉をかけてくれる」
師匠がたとえ話として並べていく言葉に、僕の顔はどんどん熱くなっていく。
だって、それって普段のカサネさんそのままだから。
僕にだけ特別優しいかは分からないけれど、カサネさんの優しさは身に沁みて感じているし、買い物だって……今度、一緒に行く約束を……それに、いつだってカサネさんは僕のことを気にかけてくれている。
師匠的には、そういう対応をしてくれる女性って……『特別』なの、かな?
師匠だけ?
世間一般的にそうだったりして……もしそうなら…………
「でな、『あぁ、気分がいいなぁ』なんて思っていた時にだ、実は他の誰かにも同じようなことをしていた、いや、お前よりももっと特別な扱いを別の誰かにしていたって聞いたら、どうよ?」
「…………え?」
世界から、音と、匂いと、温度が消えた。
一瞬、なんの話をしていたのか分からなくなって、脳みそが変なノイズを発していることだけを感じていた。
動きを止めた僕の脳みそをスクリーン代わりに、ありもしない光景が次々に映し出される。
親しげに寄り添う二人の男女。
手をつなぎ、腕を組み、肩を抱いて。
見つめ合う二人は、やがて……
――ガン!
耳元で急に大きな音がした。
何かがぶつかったような音だったけれど、何がぶつかったのかは分からない。
分からないなぁ~と思っているうちにどんどん額が痛くなっていく。
テーブルの向こうで、師匠がドン引きな表情で固まっている。
あ、そうか。
僕の頭がテーブルにぶつかったんだ。
どうりで額が痛いわけだ。
「お、おい、大丈夫か、トラ? たとえ話、だからな?」
「えぇ、もちろん。たとえ話に決まってますよ」
心配させないように笑顔を返す。
なのに、師匠の表情は困惑の色を濃くしていく。
「ま、まぁ、そういう感じでよ。『特別』が別の誰かの『特別』になるってのは嫌なもんだろ? 自分のそばから離れていかないと分かっていても、その一瞬だけでも誰かの『特別』になるってのは、結構キツいもんなんだよ」
「それは、神様も人も同じですよね」
浮気や不倫がそんな感じかもしれない。
ちょっとした火遊び――そんな言い方をする人がいるけれど、そのちょっとした火遊びで一生消えないような深い傷を相手に負わせてしまう危険を理解しているのだろうか。
していたら、そんなことは出来ないはずだけれども。
「でだ。神ってのは人よりもその嫉妬や独占欲がちょっと強い傾向がある」
自分の価値を知っている者ほどプライドは高くなる。
そのプライドが高いほど、些細なほころびが許せなくなることがある。
僕みたいななんてことない一般庶民なら踏まれても蹴られても平気な顔をして立っていられるけれど、神様なら……そうはいかないのかもしれない。
「だからよ、普通に接しろ。変に様付けして崇めるような態度を見せて、勝手に『特別』認定されるような振る舞いは控えろ。勘違いでどえらい祟りなんか欲しくないだろ?」
「まぁ、それはそうですけれど……」
自分の性格を一朝一夕で変えられるとは思えない。
特に、お見合いまで数日しかない今の状況では。
とりあえず、『之人神』に対して様付けをしない。それだけを頑張ってみよう。
「普通の人間と同じように接しつつ、決して普通の人間と同じじゃないんだって意識を常に持っておく。これが、俺に言える之人神との付き合い方だな」
「なるほど。気を付けます」
「んで、なんでそんな話を…………オイ、まさかっ!?」
何かに思い至り、椅子を倒す勢いで立ち上がった師匠。
「今度の見合い相手が……っ?」
「……はい。之人神、らしいです」
控えめに頷くと、師匠は大きく目を見開いたまま背中から床に倒れ込んだ。