フラフラと歩き始めたが、頭が混乱してどこをどう歩いたのか記憶にない。
気が付くと、噴水のある公園のベンチに座っていた。
噴水のそばでは小さな子どもたちが遊びまわっている。
天気は穏やかな晴れの日。
暖かい春の日に誰もが嬉しそうに微笑んでいる。
ベンチに座るエリザのことを気に留める者はいない。
杖をついた老人がゆっくりとベンチの前を通り過ぎて行く時、彼女のことを少し不審そうに見ていたが、一瞥しただけで何事もなく通り過ぎて行った。
エリザは身動きもせず真っ直ぐベンチに座り、目の前の光景をぼんやりと眺めていた。
公園は穏やかな時間が流れていたが、彼女の心の中は嵐のようだった。
「……私はフィルの恋人じゃなかったの……?」
〝金蔓〟
フィルもその友人も、エリザのことをそう称した。お金を出してくれるだけの存在だと友人に吹聴していたのだ。
「将来、一緒になろうねって……フィルが言ったのよ……嘘つき」
幼い頃から知っている仲で、家の事情で離れてしまう時期があっても関係が切れることはなくお互いを思いやって縁が続いてきた。
それなのにどうして彼は突然こんなに変わってしまったのか。
金蔓というのは、ある意味間違っていない。
現在、フィルの生活を支えているのはエリザだからだ。
士官になりたいが実家からの援助が望めない彼のために、先に職に就いていたエリザが援助を申し出た経緯がある。
夢を諦めずに済むと、いつか必ず恩に報いると感謝してくれていた……と思っていたが、あれは間違いだったみたいだ。
何度考えても、分からない。
ぼんやりと考えているうちに、噴水で遊んでいた子供たちはいなくなり肌寒くなった公園内を人々が足早に歩いていく。
そのうちに、歩く人の姿も減り、さんさんと降り注いでいた太陽もいつの間にか傾き、オレンジ色の光が噴水を照らしていた。
公園を歩く人はほとんどいなくなり、ベンチにポツンと座る女性を不思議そうに横目で見ていく人々もいたが、噴水を見つめたまま動かないでいるエリザに声をかけてくるものはおらず、皆足早に去って行った。
日が暮れても、エリザはベンチにすわったままだった。
夜が更けると、昼間の暖かさが嘘のように空気が冷たくなり、公園内を歩く者は誰もいなくなった。
空に浮かぶ満月が地面を照らしていて、まるで昼間のような明るさだった。月ばかりが輝いていて、星が全く見えない。月明かりがスポットライトのようにひとりきりのエリザを照らしているようだった。
籐のバスケットを膝に乗せ、真っ直ぐな姿勢で座り続ける。
まるで銅像のように動かない彼女に目を向ける者はいない。
どれくらいそうしていたのか、噴水を見つめていたエリザの左側にふと影が差す。
ゴソゴソと衣擦れのような音が聞こえ、誰かが隣にいる気配がする。それでも前を向いていたが、いつまでたってもそこにいるようなので、諦めて横を向いた。
隣には、薄汚れた男が座っていた。
土気色になり擦り切れた服にボサボサの髪の毛。そして左右違う汚い靴を履いている。
見た目からすると、家がない路上生活者。
そんな風体の男が膝をそろえて姿勢よくエリザの隣に座っていた。
男は目が合うと、にこにこと人の良さそうな笑顔を向けてくる。
「かごの中、良い匂いがしますねえ。甘い苺と……カスタードの匂いだ」
そう言って隣に置いた籐かごに鼻を近づけクンクンと匂いを嗅いでいる。ああ、食べ物を欲しがっているのかと気づいて、かごの蓋を開けてやった。
「欲しければ、どうぞ」
かごが地面に落ちたせいで中にあったケーキはぐちゃぐちゃだったが、崩れただけで中に入っている分は床に落ちてはいない。崩れているだけならあげても構わないだろうと判断しケーキを渡してやる。
「おお、これはこれは。ごちそうになります。立派なケーキだなあ。これあなたが作ったんですか? この苺がつやつやで宝石みたいに美しいですね。素晴らしい、美味しそうだ」
「……っ」
欲しかった言葉をこんな得体のしれない男から言われてしまい、ぐっと喉がくるしくなった。
崩れたケーキを見て男は嬉しそうにはしゃいだ声をあげる。無遠慮にかごのなかを漁り、フォークを取り出すとケーキに突き刺しぱくりと一口頬張った。
「うん、美味い。甘い物なんていつぶりかなあ。これ全部食べちゃっていいのかな? ああ、生地がまた絶品だ。このサクサクしたところは何でできているんですか? 食感の違いがまたいいですね」
口数の多い男だなと鼻白む。
この辺りは貧困街がないので、路上生活者と関わる機会がほとんどなかった。相手をおだてて食べ物をもらうのが生活の知恵なのかもしれない。
そうだとしても頑張って作ったケーキを褒められるのは素直に嬉しかった。たとえ赤の他人のホームレスの言葉であっても。
恋人の思い出の味となるように、記憶をたどって試行錯誤して作り上げたケーキだ。
ものすごく手間がかかるが、その分味も抜群に美味しいはずだと自負している。
そうやって出来上がったケーキなのに、彼の口に入るどころか叩き落とされてぐちゃぐちゃになってしまった。
もう捨てるつもりでいたそれをなぜか見ず知らずの薄汚れた男が食べている。
なんだか不思議な光景だなと思いつつ、嬉しそうに食べてくれているのでちょっとだけ救われた気持ちになった。
男は崩れたケーキを綺麗に食べつくすと、満足そうに笑ってお礼を述べる。
「ごちそう様。ああ美味かった。思いがけず甘い物にありつけて、今日はいい日だなあ。ところでレディはこんなところで何をしているんです? もう夜中だっていうのに、一人でいたら危ないですよ。強盗にでも襲われたらどうするんですか」
「いえ、私強いのでその心配は無用です」
食べ終わったのならもう用はないはずなのに、男は未だに隣に座ったままベラベラと話しかけてくる。しかも不躾なほどジロジロ眺めてくるので、ここへきてようやくエリザに不信感が生まれた。
(コイツ、様子を窺いつつ強盗でもする気かしら?)
腰のベルトに仕込んである小型ナイフを男に気取られないようにそっと手に握りこむ。
「うーん、その様子だと、男に振られたってとこかな? 張り切って豪華なケーキを持って告白しに行ったけど、あっさり振られてショックのあまりベンチで茫然自失になっていたって感じ? ね、当たりでしょ。僕、男女間の修羅場には詳しいんだ」
いつ強盗を働くつもりなのかと身構えているのに、男は気づきもせず呑気に笑ってしつこく話しかけてくる。
「違います! フィルとはちゃんと恋人で、約束して……毎年このケーキで彼の誕生日をお祝いするっていうのが決まりで……だったのに……」
「行ったら女がいたとか?」
「それともちょっと違うんだけど……なんか男女数人で部屋にいて、その人たちに私、『金蔓ちゃん』って呼ばれてわけが分からなくて。そりゃあ確かに彼の学費も生活費も私が援助していたけども……」
「へー。じゃあ君はその彼のお財布だったんだね。すごいね、若いのにヒモを飼うなんてなかなかセレブな趣味だね」
「は? ヒモなんかじゃありません……!」
カッとなって言い返すと、男はびっくりしたようにのけぞった。
「えっ、違うのかい? お金をせっせと貢いでいたって言うから、てっきりヒモを飼っているのかと」
「彼とは幼馴染なの。彼に援助していたのは、彼が士官になりたいって夢があったから、援助していただけでヒモとかじゃないわ」
煽られてついムキになり、フィルとの関係を詳しく説明してしまう。
元恋人とは、中流貴族の家同士で幼い頃から家ぐるみの付き合いだった。
けれど、二人が十歳になった時、三男だったフィルは他家に養子に出されてしまった。離れてしまってからお互いの気持ちに気づいて、フィルのほうからエリザに気持ちを伝えてくれて、その時から二人は恋人同士になったのだ。
決してお金だけの関係じゃなかったと言うエリザに対し、男はきょとん顔で首をかしげている。
「それでなんでお金をあげることになるんだい? やっぱり変な話だなあ」
「それは……彼が士官を目指していたけど、彼の養父母が学費は出さないって言うものだから……。私は一足先に職についていたから、お金に余裕があったし、士官学校も三年だけだから、その間は私が彼を支えるって、私のほうから提案したの!」
養子先は彼にとってあまり良くない環境で、最初から息子としてではなく労働力としか見られていなかった。
十五歳になった時フィルは進学を望んだが当然学費を出してもらえるはずもなく、途方に暮れていた。
その話を聞いたエリザが、自分が援助するから夢を諦めないでとフィルに提案したのだ。その時から、フィルの生活費と学費を援助して彼の生活を支えていた。
「私たちは将来を誓い合った恋人だったし、彼が困っている時に助けるのは当たり前のことでしょう? 何も変なことは言っていないわ」
「でも出していたのは学費だけじゃないんだろう? 話によると家賃や生活費もレディが払うのはおかしいのでは? 彼も自分の生活費分くらいは働いて稼げたでしょう」
「し、士官学校は学費が安い分、勉強のほかに奉仕労働とかもあって大変だから、働く余裕なんてないらしいの……」
フィルを擁護する言葉を口にしながら、本当にそうなのか? という疑問が湧いてくる。
忙しいとはいえ、休日はあるはずだ。それに、士官学校はお金に余裕のない者も通えるように、学業の合間に日雇いの仕事を斡旋してくれると最近知った。
――――本当にフィルは自分では働けないほど学業が忙しかったのだろうか?