そして、夕暮れが迫る頃、ようやく全員がトカゲのしっぽ亭へと揃った。
「エリックの解毒、随分時間かかったな……」
「我が家のガーディアンのレベルが、知らぬ間に上がっていたようです」
「独自にバージョンアップすんのか、お前んとこの毒草?」
「それが、生物の進化というものですよ」
末恐ろしいわ。
俺は絶対、一人でエスカラーチェの家には近付くまい。
「エリックさん、お加減はいかがですか?」
「あ、あぁ……大丈夫だ。なんとか」
幾分青い顔をして、エリックが答える。
弱々しい声で。
……この街を守る憲兵の一人なんだけどな、こいつ。エスカラーチェに守らせた方が安全なんじゃないか、この街? いや、余計に危険になるか。うん、やめた方がいいな。
「それでは、奥のお席へ」
ツヅリが店内の奥、壁際のテーブルを示すと、エリックの表情が曇った。
そこには、シーマさんが俯いて座っていた。
視線を合わせず、何も言わず、これからやって来る絶望に怯えるように肩をすくめている。
そんなシーマさんを見て、エリックは険しい表情をしていた。
声をかけるわけでもなく、歩み寄るわけでもなく。
その顔からは、葛藤が見て取れた。
葛藤か。
よかった。
シーマさんを見た瞬間に、表情が怒り一色に塗りつぶされるような状況ならお手上げだったが、葛藤しているならまだ間に合う。
不貞を働いたのではないかという不信感とせめぎ合っているのは、信じたい、許したいという心に違いないからな。
「エスカラーチェ。『お使いその2』の方は?」
「抜かりはありません。もうスタンバイ済みです」
本当に有能で助かる。
性格面にさえ目をつぶれば、エスカラーチェはとてもいいパートナーだ。仕事上のな。
エスカラーチェが静かに手を上げると、それを合図に店内に男どもの声がなだれ込んできた。
「カナちゃ~ん、また来たよ~!」
「今日も尻尾が可愛いねぇ~」
「カナちゃんの手作りベーグル食べるために、お昼抜いてきたんだよ~」
いささか軽薄な声とにやけ顔で入ってきたのは、かんざし工房の若手たち。
エスカラーチェにご執心の彼らをベーグルで釣って、ちょっと助力を願ったのだ。
その用途は――
「あれ!? 向こうにめっちゃ美人がいる!」
「本当だ! あららら、俯いちゃって、可哀想!」
「失恋でもしたのかな? 俺たちで慰めてやらね?」
「「いいーねぇー!」」
「そうするか?」
「「そーするー!」」
謎のテンションでハイタッチを交わし、若手かんざし職人たちがシーマさんのテーブルへと近付いていく。
「おねーさん! 一人?」
「よかったらさ、俺たちと飯食わない?」
「悩み事があるなら相談に乗るよ~」
妻に迫る若い男たちに、エリックのこめかみがぴくっと動く。
そして。
「なんなら、朝までた~っぷり話、聞いてあげちゃう!」
その一言で、キレた。
「俺のシーマに近付くんじゃねぇえぇえええああああああ!」
禍々しい殺気が迸る。
ヤバいヤバいヤバい!
死人が出る!
逃げて!
若手かんざし職人たち、全力で逃げて!
「「「ご、ごめんなさぁぁぁああ~い!」」」
蜘蛛の子を散らすように、脱兎のごとく、光の速さで逃げ出した若手かんざし職人たち。
幸いなことに、死傷者は一人も出なかった。
「はぁ……はぁ…………」
「……ご主人、様……」
「……はっ!?」
気が付けば、自身の背にシーマさんを庇うように立っていたエリック。
声をかけられ振り返り、ばつが悪そうに視線を逸らせる。
一方のシーマさんは、感動なのか、罪悪感なのか、両目に涙をいっぱい溜めていた。
「…………ごめん、なさい……私のせいで……ご主人様に…………不快な思いを……」
「…………」
エリックは何も言わない。
言えなかったのかもしれない。
「いや、いいよ」と許すことも、「まったくだ、どうなってんだ」と怒ることも、今のエリックには出来ないのだ。
そこで、俺たちの出番ってわけだ。
「傍から見ていると、相思相愛以外の何物にも見えないんだが?」
「う……っ!」
図星を突かれて言葉に窮したからか、エリックが怖い目で俺を睨んできた。
ただ、顔が真っ赤なので怖さも半減、いや八割減だ。
「まぁ、座れよ」
「…………」
「じゃあ、俺がシーマさんの前に……」
「俺が座る」
シーマさんの前の席に座ろうとした俺を押し退けて、エリックが着席する。
……まったく、世話の焼ける。
俺は目配せをして、全員を配置につける。
俺はエリックの隣に、ツヅリはシーマさんの隣にそれぞれ座り、エスカラーチェはいざという時のためにエリックのそばに控えてもらう。暴れそうになったら取り押さえてもらうためだ。
……こいつなら憲兵相手でもなんとかするだろう。そんな気がする。
そして、カナは料理の準備があるため厨房へ向かう。
さて、これで準備は整った。
「まず、俺たちが調べた結果、導き出した結論を伝える」
ごくりと、エリックが喉を鳴らす。
「俺たちの調査の結果、シーマさんは………………シロ! 浮気なんかしちゃいない」
その報告に、エリックは心底安堵したような表情を見せた。
だが、俺が「お前の勘違いだ、エリック」と言うと、表情を一変させる。
「だったら、あの魔獣の毛はなんだったんだ? あの夜、シーマはどこにいたというんだ? なぜ正直に話してくれないんだ!?」
エリックの声が大きくなるにつれ、シーマさんが体を小さくしていく。
そこへ、カナが料理を運んでくる。
「お待たせなの。カボチャのクリームシチューなの」
「食ってみろよ。美味いぞ」
「いや、今は飯なんか……」
「いいから食えって。腹が減ってるからイライラするんだよ」
「…………分かった」
渋々といった感じで、エリックがスープを口に運ぶ。
「……美味いな」
一言呟いて、エリックはあっという間にスープを飲み干した。
「次のお料理、どんどん持ってくるなの」
カナが厨房へ戻り、次々に料理を運んでくる。
それは、どれも家庭的で、温かな湯気が立ち上る美味しそうな料理ばかりだった。
俺たちはエリックが食べ終わるのをじっと見守っていた。
「……ご馳走様。とても美味しかったよ」
「本当カナ? 満足してくれたカナ?」
「あぁ。大満足だ」
「なら、ちゃんと褒めてあげてなの」
「褒める……って、君を?」
「違うなの。この料理を作った――シーマさんをなの」
エリックが驚いた顔でシーマさんを見る。
シーマさんは、エリックがスープを飲み干してからずっと、泣きっぱなしだった。
相当、嬉しかったようだ。
「あり……がとう……ございます……残さず、食べて……くれて…………これで、最後に、なる…………かもしれないから……嬉しい…………かった、……です」
ぐずぐずと鼻を鳴らして、何もかもを諦めたような弱々しい笑顔で懸命に声を絞り出す。
「これで最後」、そんな言葉にエリックが顔を歪める。心臓を掴み、握りしめる。
なくしたくないよな。
なら素直になればいいのに……まぁ、それが出来れば離婚相談所には来ないか。
「俺の口からすべてを話す。それでいいか、二人とも?」
本当なら、本人の口から説明するのが一番いいのだが……それが出来ない者もいるのだ。
本当に、臆病で不器用な夫婦だ。
どこかほっとしたような、今にも泣き出しそうな、不安に押し潰されそうな、そんな複雑な顔で二人が同時に頷く。