「いらっしゃ~い、アサギさんっ! あ、ツヅリちゃんもね」
新聞屋さんに着くと、オーナーの奥様が出迎えてくださいました。
それを合図に、お店の中にいた奥様方が一斉にアサギさんへと群がります。
ここ最近では、すっかり見慣れた風景です。
「オーナーさん。おはようございます」
「あぁ、エターナルラブの。おはようさん。すまないねぇ、ウチのカミさんが……」
「いえいえ」
オーナーの奥様を筆頭に、この新聞屋さんで働いている方の奥様方が、ここ最近は毎朝お店に顔を出されているので、新聞屋さんはとても賑やかになりました。
以前は、話をするにも声を潜めてしまうほどに静かだったのですが。
「ヤダ、アサギさん、随分薄着ねぇ。寒くないの?」
「いや、まぁ……」
「やっぱり男の子よねぇ~。たくましいわぁ~」
「いや、別に……」
「ヤ~ダ、見て見て! 鎖骨! せくし~!」
「あの、ちょっと……」
「体が冷えるといけないわ、お茶を飲みましょう! ね、そうしましょう!」
「「「さんせ~い!」」」
奥様方は、みなさんアサギさんに夢中なのです。
「ったく、年甲斐もなくはしゃぎやがってよぉ」
苦々しい顔をしながらも、オーナーさんをはじめ、新聞屋さんで働くオジサマたちは奥様方を責めるようなことはされていません。
せいぜい、呆れ顔で苦笑を漏らす程度です。
「やっぱ、若い兄ちゃんがいいんだろうなぁ。これまでは、どんなに叩き起こしても昼まで寝てたくせによぉ」
「最近はいつもご夫婦でお店に立たれていますものね」
「あぁ、結婚二年目までは、あいつも毎朝店に立ってたんだがなぁ」
「では、新婚気分が蘇ってきますね」
「はっはっはっ! それはないなぁ。まぁ、毎朝メイクして小綺麗にしてんのは、新婚の頃と同じかもしれないけどなぁ」
「素敵な奥様が毎朝見られて幸せですね」
「はははっ、なら兄さんに感謝だなぁ」
他の男性と仲良くされることを不快に思わないのですかと、一度伺ったことがあるのですが、オーナーさんは、「あれくらいはどうということはないさ。ただの目の保養だろう」と笑っておられました。
なんでも、二十年連れ添った夫婦の絆は、目に見える程度のもので揺らぎはしないのだと。
目の届く範囲ではしゃぐ分には問題ない、という意味でしょうか?
もしこっそりアサギさんと逢瀬を交わしていれば、その限りではない……と?
「ねぇ、アサギさん。今度お食事に行きましょうよぉ~」
「いえ、仕事がありますので」
「仕事がない日に~」
「年中無休ですので」
「ヤダ、真面目~。素敵~!」
奥様方をひとしきりうっとりとさせ、アサギさんはこちらに歩いてきました。
「新聞は買ったか?」
「いえ、まだです」
「そうか。ではオーナー、朝刊を一部」
「はいよ。悪いねぇ、毎朝毎朝ウチのカミさんが」
「いえ。ただ、あまりに目に余るようでしたら、当相談所にご相談ください」
「あっはっはっはっ! その予定はないなぁ、残念ながらね」
「そうですか。それはよかった」
大笑いするオーナーさんに微笑みかけ、アサギさんは笑顔のままでこんなことをおっしゃいました。
「あなたの責任で墓場まで面倒を見てくださいね。間違っても放逐などなさいませんように」
……アサギさん、もしかしてちょっとだけ迷惑、してますか?
どうしましょう。
アサギさんのご迷惑になるのなら、やはり新聞は私一人で買いに来た方が……
「また来ます。行くぞ、ツヅリ」
「は、はい」
ぺこりと頭を下げ、アサギさんは新聞屋さんを出て行きます。
わたしもそれに続きました。
以前は新聞屋さんに併設されているイートインでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたりしたのですが、最近は事務所に帰ってから読むようにしています。
朝食もありますし、コーヒーよりハーブティーの方が美味しいですし、ここで休憩すると奥様方に囲まれてアサギさんが大変そうですし。
やっぱり、ご迷惑なのでは?
でもアサギさんは「また来ます」とおっしゃいましたし、新聞屋さんに行くこと自体はイヤではないようです。
そもそも、奥様方に囲まれることをイヤだと思っているのでしょうか? 先ほどオーナーさんに言っていたのは冗談、ですよね?
「あの、アサギさん」
「なんだ?」
「アサギさんは、奥様方に囲まれるのはお好きですか?」
「…………」
ダイレクトに質問をぶつけてみたところ、アサギさんの眉間にくっきりとしたシワが浮かび上がりました。
「……ツヅリ」
「はい?」
「陰口というのは、どんなに隠れてこっそり呟いたとしても、いつか必ず本人の耳に届くものなんだ」
「そうなんですか?」
「だから、関係が終わってもいいと思った相手以外の陰口はしない方がいい」
陰口は、言う方も言われる方も、いい気持ちがしませんものね。
「分かりました。気を付けます」
「俺もそうするつもりだ」
確かに、アサギさんに陰口なんて似合いませんものね。
「だからな、さっきの質問はノーコメントだ」
ストーンと表情が抜けきった真顔でアサギさんはそうおっしゃいました。
それは、えっと、つまり……コメントをすると陰口に……ん? あれ?
「……くしゅん!」
もうすぐ相談所に着くというところで、アサギさんがくしゃみをしました。
二の腕を抱えて、寒そうにされています。
「やっぱり寒いんじゃないですか」
アサギさんが風邪を引いては大変です。
ガバッと、お借りしている上着を脱いだら、ガバッと着せられました。
おやぁ?
「いいから着てろ。もうすぐ相談所だし」
そう言って、一番上のボタンまでしっかりと留められました。
「……それと、ちょっと目のやり場に困る」
ぼそっと呟いて、こちらに背を向けると少し速足で歩き出してしまいました。
……目のやり場に困る?
首元までしっかりと覆われた上着を見下ろします。
上着を押し上げるように、胸元がポッコリとしています。
あぁ、そういうことですか。
「アサギさんは、揺れるとついつい目で追ってしまいますからね」
「ごふぅっ!」
ごほごほと咽るアサギさん。
あ、なるほど、あれは照れている証拠なんですね。
うふふ。アサギさん、耳が赤いです。
ぷらぷら揺れるぼんぼりを目で追ってしまうのは、小さな赤ん坊がよくする仕草です。
アサギさんのように、立派に成人された男性が、そのような習性を持っていると言われるのはやはり恥ずかしいようです。
今日はわたし、一段と揺れるぼんぼりのついた服を着てきてしまいましたからね。
ついつい目で追ってしまって、それをわたしに知られるのが恥ずかしかったんですね。
うふふ。
アサギさんってば……
「誤解のないように言っておくが、そんなには見ていないからな? た、たまに……チラッと……目に入るくらいだ!」
「はい、ちゃんと分かってますから」
「……お前なぁ」
「大丈夫ですよ。うふふ」
眉間にシワを寄せて怖い顔でこちらを睨むアサギさんですが、そんな真っ赤な顔では迫力がありませんよ。
強がる男の子みたいで、可愛いくらいです。
「それじゃあ、事務所に戻ったら着替えてきますね」
「え?」
日中、ずっと揺れているとアサギさんの気が散るかもしれませんし。
「あのな、ツヅリ」
「はい?」
アサギさんが少し寂しそうな顔でわたしを見ます。
なんでしょうか?
「別に、その服がよくないって言ってるわけじゃないからな?」
「へ?」
「まぁ、その……ぼんぼりも可愛いし、あの……よく、似合っている、と、思う……ぞ?」
ドキッとしました。
洋服を褒められたのは、もしかしたら、これが初めてではないでしょうか?
両親や身内の者にドレスを褒められることはありましたが、こんな普段着を褒めてもらったのは初めてな気がします。
それも、可愛いだなんて……
「ありがとう、ございます」
なんでしょう。
褒めていただいたお礼を言っただけなのに、無性に恥ずかしいです。
……もう、今日はずっとこの服でいいのではないでしょうか?
だって、似合っていると言ってくださったのですし。
でも、……ふふ、やっぱり褒めるのはぼんぼりなんですね。うふふ。
「大丈夫ですよ、アサギさん。お仕事に向く服に変えるだけですから」
アサギさんに褒めていただいたので、もう満足です。
「そうか」
「はい。この服は、アサギさんとお散歩するために着ただけですから」
お散歩ですから、オシャレしたかったんです。
でも、仕事着とオシャレ着は別です。
「俺のために、着てきた……のか?」
「へ?」
アサギさんのために……
「い、いえ! お散歩のために、です!」
「そ、そうか!」
「はい! ……そうです」
なんでしょう。
アサギさんのためにオシャレしたと思われるのは、なんだかとても恥ずかしい気がしました。
アサギさんは大切な人ですので、オシャレをしてお会いするのは普通のことですのに……
なんだか、変です、わたし……
それから無言で歩き、事務所のビルに着くとわたしはいったんアサギさんと別れ三階の自室へと向かいました。
アサギさんは、先に事務所に行って朝食の準備をしてくださるそうです。
楽しみです。
「……あ、そうでしたね」
ドアを開けると、廊下が散らかっていました。
出かける時に荷物を引っかけてしまったんでした。
このまま放置しておけば、自室へ戻る度に憂鬱な気分になってしまいます。
今のように、浮かれた気分を台無しにされるのはイヤなので、着替える前に片付けることにしました。
「置き場所にも、困ってしまいますね」
廊下にしゃがみこんで、散らばった中身を拾い集め麻袋へと戻します。
拾い上げた金貨は、どれも朝の空気に冷やされて無機質な冷たさを指先に感じさせました。