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第2話

 めずらしいものを見たと目を輝かせる者、感謝か敬意か、頭を下げる者。

 マキは刀を鞘に収めながら、ため息を吐き出した。

「気楽なもんだ……」

 ここにいる人々は知らないのだ。禍虫まがむしと対峙する恐怖を、守れなかった時の絶望を。冷たいその言葉に、アケルが言う。

「そんな言い方するなって」

 マキがフンと鼻を鳴らした。

 腰から下がる木札に手をかざすアケル。

一条いちじょうアケル、樟田くすだマキ。伏幹の現場、終了しました。両名への被害はなし、民間被害者なし、道路等への損害軽微。……これより元の指令場所に向かいます」

 アケルが報告を終えるころ、マキは既に目的地に向かって歩き始めていた。


 先ほどの現場から少し離れたところ、名梧屋なごやの街にあっても一際目を引く立派なビルがそびえ立っている。その外壁を這う蔦には、白い花が咲き誇り、まるでビル全体が巨大な花束のように見えた。しかし、その美しさにはどこか人工的な完璧さがあり、見る者に微かな違和感を抱かせる

 マキとアケルは、そのビルの最上階にある役員専用会議室を訪れていた。重厚な木製のテーブル、革張りの椅子、歴代経営者の顔写真。

 二人の前に座るのは、平瀬財閥の当主である平瀬慎吾ひらせしんごだ。五十代後半、白髪交じりの髪を撫でつけ、高価なスーツに身を包んだ男。その顔には、生まれながらにして富と権力を握ってきた者特有の傲慢さが刻まれている。

「遅かったな」

 慎吾は時計を見ることもなく、不機嫌そうに呟いた。まるで部下を叱責するような口調。それだけのことで、この男が他人のことを叱り慣れているのが、よくわかる。

禍虫まがむしの対応がありまして。申し訳ありません」

 アケルは素直に頭を下げた。その声は、いつもどおりに軽くやわらかだったが、いつもに比べると、ほんの少しだけ固さが含まれている。緊張だろうか。それとも警戒だろうか。マキはそれに気づいたが、何も言わなかった。代わりにマキも、アケルほどていねいな仕草ではないものの、義務的に軽く頭を下げる。

「さっき外が騒がしかったあれか」

 慎吾は軽くため息をついた。そこには、明らかな苛立ちが込められている。

 華守衆かしゅしゅうの最優先任務は禍虫まがむしの討伐。そのためであれば、たとえば信号を無視したり、乗車中のバスをその辺で止めて降りていくような行動も、法律により許されている。さらに華守衆と会社員や学生を兼任する者であれば、それを雇っている会社には、華守衆としての任務への配慮も求められている。つまり本来であれば、マキとアケルの遅刻は責められるべきことではないのだ。

 慎吾はマキとアケルをどこか冷たい瞳で眺めた。値踏みするような視線。

「せっかく護華庁ごかちょうに依頼をしたというのに……来たのは若造二人。しかもよりによってアケルと『樟田くすだ』とは」

 その言葉を口にする時、慎吾の声には明らかな蔑みの色が混じっていた。まるで腐った魚でも見るような嫌悪感を隠そうともしない。

 樟田くすだとは、華守衆かしゅしゅうの血族ではない者が華守衆としての能力を発現した際に、護華院ごかいんから与えられる名字のひとつだ。能力の高さを表すものではないが、血統を重んじる外部の者たちからは、しばしば見下される対象となる。

 マキはそう嘲笑われても、眉ひとつ動かさなかった。いつも通りの不機嫌そうな顔は、まるで校長先生のつまらない話を聞いている学生のようでもある。しかし、よく見ればその瞳の奥に、氷のような冷ややかさが宿っているのがわかった。

 一方でアケルは形のいい眉をわずかにひそめた。その表情には、明らかな不快感が浮かんでいる。

護華院ごかいんは生まれや血筋による区別をしません」

 穏やかではあるが、きっぱりと言い切るアケルの声。慎吾はそれをフンと鼻で笑う。その笑い声は、会議室の重苦しい空気をさらに悪化させた。

「だとしても平瀬の落ちこぼれを送りこんでくるとは。わざとだとしか思えんな。まあそういうところも護華院らしい鬱陶しさだが」

「護華院は俺の元の名字が平瀬であることも区別していません」

 アケルの言葉は平坦だったが、その拳がそっと握りしめられているのを、マキだけが見ていた。

 慎吾は立ち上がり、大きな窓に向かって歩いた。そこからは名梧屋なごやの街並みが一望できる。花で覆われたビル群が夕日に照らされ、美しく輝いている光景が広がっていた。しかし、その美しさとは対照的に、室内の空気は冷たい。冷房が必要な季節ではないはずだが、まるで強すぎる冷房がかかっている部屋のようだった。

「まあとにかく、結花衆ゆいかしゅう花信かしんによれば、私にはしばらく護衛が必要らしい」

 慎吾が振り返りながら言った。結花衆ゆいかしゅうとは、マキたちと同じ華守衆かしゅしゅうだが、剣で戦うのではなく、花の力を用いて結界を作ったり占いをしたりする者たちのことだ。

「生まれや血筋の区別がないというのなら、それ相応の働きを期待しているよ」

 明らかな挑発の意味が込められた言葉。歪んだ愉悦が慎吾の表情に浮かんでいた。するとそれまで黙っていたマキが口を開いた。

「護衛の詳細を聞かせてください」

 その声は、相変わらず淡々としており、感情の波一つ見せない。その態度に慎吾が興味深そうに眉を上げた。

「樟田君、君はなかなか肝が据わっているようだ」

 マキの返答は簡素だった。

「腰抜けでは華守衆は務まらないので」

 それは暗に「つまらない挑発は自分たちには通用しない」という警告だった。



 慎吾との顔合わせが終わると、マキとアケルは控え室として用意された部屋に案内された。先ほどの会議室ほど豪華ではないが、それでも比較的重要な客を招くための会議室なのだろう。肘掛けつきの革張りのチェアに重厚な木の机。壁際の小机の上にはコーヒーサーバーやミネラルウォーターのボトル、かんたんな菓子も用意されている。慎吾がこのビルの中で仕事をしている間は、この部屋で過ごすようにとのことだった。

 部屋に二人きりになると、アケルが口を開いた。

「悪かったな」

 わずかな疲労が滲む声。

「何が」

 マキの返答は相変わらず淡々としている。

「いや、さっきの……」

 アケルは言いかけたが、マキがそれをぴしゃりと遮った。

「お前が何かしたワケじゃない。あんなタヌキの言葉、気にする価値もない」

 その瞬間、アケルの目が丸くなった。たしかに慎吾の下ぶくれな顔は、少しばかりタヌキに似ていなくもない。だがここは慎吾の会社の社屋の中だ。

「おい……他に聞こえるぞ」

 笑いをかみ殺し、小声で注意するアケルに対し、マキは涼しい顔で答えた。

「関係ないな」

 アケルは頭を抱えた。実にマキらしい。マキは決して喧嘩っ早いわけではないし、誰彼構わず喧嘩を売るわけでもない。しかし忖度なく事実を口にする性格は、ときに華守衆かしゅしゅうとしての立場をもって周囲には尊大と受け取られたり、華守衆の中でも上部との衝突を招くことがある。

 アケルが知るかぎりマキは、子どもの頃からそういう性格だった。周囲ともそれなりにぶつかり合ってきたし、大人たちから諭されることも度々あったはずである。それでも直っていないということは、ここでアケルが何か言ったところで直るものでもないということだ。

 アケルは諦めのため息をついて、持参していたノートパソコンを、机の上で広げた。画面には通信制大学のロゴが表示される。

「俺は課題でもやるよ……」

 呟きながらキーボードを叩き始めるアケル。

 基本的に華守衆かしゅしゅうは、全国六カ所にある華染里はなぞめのさとという場所で育つ。華染里には小規模ながらも学校もあり、華守衆としての才能を持つ子どもたちは、華守衆になるための訓練を受けながら学校にも通い、概ね高校卒業までをそこで過ごす。高校を卒業すると里を出て華守衆として全国に配備されていくのだが、任務に支障がない範囲ならば、大学や専門学校などに通ったり、会社に就職することも可能だ。車が好きだからと、修理工場でバイトをする華守衆や、護華庁の仕事を兼務する華守衆などもいる。

 そのような中でアケルは、通信制の大学という道を選んだ。もちろん華守衆としての任務や鍛錬もあるため忙しくはなるが、アケルはそんな忙しさも、嫌いではない。


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