めずらしいものを見たと目を輝かせる者、感謝か敬意か、頭を下げる者。
マキは刀を鞘に収めながら、ため息を吐き出した。
「気楽なもんだ……」
ここにいる人々は知らないのだ。
「そんな言い方するなって」
マキがフンと鼻を鳴らした。
腰から下がる木札に手をかざすアケル。
「
アケルが報告を終えるころ、マキは既に目的地に向かって歩き始めていた。
先ほどの現場から少し離れたところ、
マキとアケルは、そのビルの最上階にある役員専用会議室を訪れていた。重厚な木製のテーブル、革張りの椅子、歴代経営者の顔写真。
二人の前に座るのは、平瀬財閥の当主である
「遅かったな」
慎吾は時計を見ることもなく、不機嫌そうに呟いた。まるで部下を叱責するような口調。それだけのことで、この男が他人のことを叱り慣れているのが、よくわかる。
「
アケルは素直に頭を下げた。その声は、いつもどおりに軽くやわらかだったが、いつもに比べると、ほんの少しだけ固さが含まれている。緊張だろうか。それとも警戒だろうか。マキはそれに気づいたが、何も言わなかった。代わりにマキも、アケルほどていねいな仕草ではないものの、義務的に軽く頭を下げる。
「さっき外が騒がしかったあれか」
慎吾は軽くため息をついた。そこには、明らかな苛立ちが込められている。
慎吾はマキとアケルをどこか冷たい瞳で眺めた。値踏みするような視線。
「せっかく
その言葉を口にする時、慎吾の声には明らかな蔑みの色が混じっていた。まるで腐った魚でも見るような嫌悪感を隠そうともしない。
マキはそう嘲笑われても、眉ひとつ動かさなかった。いつも通りの不機嫌そうな顔は、まるで校長先生のつまらない話を聞いている学生のようでもある。しかし、よく見ればその瞳の奥に、氷のような冷ややかさが宿っているのがわかった。
一方でアケルは形のいい眉をわずかにひそめた。その表情には、明らかな不快感が浮かんでいる。
「
穏やかではあるが、きっぱりと言い切るアケルの声。慎吾はそれをフンと鼻で笑う。その笑い声は、会議室の重苦しい空気をさらに悪化させた。
「だとしても平瀬の落ちこぼれを送りこんでくるとは。わざとだとしか思えんな。まあそういうところも護華院らしい鬱陶しさだが」
「護華院は俺の元の名字が平瀬であることも区別していません」
アケルの言葉は平坦だったが、その拳がそっと握りしめられているのを、マキだけが見ていた。
慎吾は立ち上がり、大きな窓に向かって歩いた。そこからは
「まあとにかく、
慎吾が振り返りながら言った。
「生まれや血筋の区別がないというのなら、それ相応の働きを期待しているよ」
明らかな挑発の意味が込められた言葉。歪んだ愉悦が慎吾の表情に浮かんでいた。するとそれまで黙っていたマキが口を開いた。
「護衛の詳細を聞かせてください」
その声は、相変わらず淡々としており、感情の波一つ見せない。その態度に慎吾が興味深そうに眉を上げた。
「樟田君、君はなかなか肝が据わっているようだ」
マキの返答は簡素だった。
「腰抜けでは華守衆は務まらないので」
それは暗に「つまらない挑発は自分たちには通用しない」という警告だった。
◆
慎吾との顔合わせが終わると、マキとアケルは控え室として用意された部屋に案内された。先ほどの会議室ほど豪華ではないが、それでも比較的重要な客を招くための会議室なのだろう。肘掛けつきの革張りのチェアに重厚な木の机。壁際の小机の上にはコーヒーサーバーやミネラルウォーターのボトル、かんたんな菓子も用意されている。慎吾がこのビルの中で仕事をしている間は、この部屋で過ごすようにとのことだった。
部屋に二人きりになると、アケルが口を開いた。
「悪かったな」
わずかな疲労が滲む声。
「何が」
マキの返答は相変わらず淡々としている。
「いや、さっきの……」
アケルは言いかけたが、マキがそれをぴしゃりと遮った。
「お前が何かしたワケじゃない。あんなタヌキの言葉、気にする価値もない」
その瞬間、アケルの目が丸くなった。たしかに慎吾の下ぶくれな顔は、少しばかりタヌキに似ていなくもない。だがここは慎吾の会社の社屋の中だ。
「おい……他に聞こえるぞ」
笑いをかみ殺し、小声で注意するアケルに対し、マキは涼しい顔で答えた。
「関係ないな」
アケルは頭を抱えた。実にマキらしい。マキは決して喧嘩っ早いわけではないし、誰彼構わず喧嘩を売るわけでもない。しかし忖度なく事実を口にする性格は、ときに
アケルが知るかぎりマキは、子どもの頃からそういう性格だった。周囲ともそれなりにぶつかり合ってきたし、大人たちから諭されることも度々あったはずである。それでも直っていないということは、ここでアケルが何か言ったところで直るものでもないということだ。
アケルは諦めのため息をついて、持参していたノートパソコンを、机の上で広げた。画面には通信制大学のロゴが表示される。
「俺は課題でもやるよ……」
呟きながらキーボードを叩き始めるアケル。
基本的に
そのような中でアケルは、通信制の大学という道を選んだ。もちろん華守衆としての任務や鍛錬もあるため忙しくはなるが、アケルはそんな忙しさも、嫌いではない。