柔らかな朝日がローレンツ邸の窓から差し込んでいた。
「今日も平和そうに見えますわね……表面上は」
玲奈は身支度を整えながら、鏡に映る自分を見つめていた。ドレスのレースを整え、髪飾りの位置を微調整する仕草も、もうすっかり板についてきた。
昨日、神殿跡で手に入れた「運命の鍵」。それは運命修正システムの中枢に接続できる唯一のアイテムらしい。だが、それを得たことは、当然システム側にも感知されているはずだった。
(これから、より激しい干渉が来るでしょうね……)
玲奈は心の準備を整えつつ、扇子をパチンと開く。
「では参りますわ!」
◆
学園の門をくぐると、案の定、早速嫌な空気が漂っていた。
「まあまあ、皆様お聞きになりまして?」
「あのカタリナ様、最近急に聖女ぶっておられますけど――」
「裏では何を画策しておられるのかしら?」
女生徒たちのささやき声が、まるで濃霧のように辺りを包んでいた。
(来ましたわね……陰謀フラグ発動ですわ)
玲奈は表面上、平然と微笑みを保ったまま歩く。その背後を智也――アランが護衛役として歩いていた。
「気にすんな。むしろ狙い通りだ」
「ええ。悪役令嬢が優しくすればするほど、"裏がある"と勘繰らせるのが誘導の基本ですわ。分かりやすい構造ですこと」
二人が中庭を通り抜けると、待ち構えていたのはセシリア・ミルシュタインだった。先日も現れた、典型的なサブ悪役令嬢ポジションの少女である。
「ご機嫌麗しゅうございます、カタリナ様」
「おはようございますわ、セシリア嬢」
礼儀正しく挨拶を交わすが、セシリアの目は鋭い。
「噂では、最近カタリナ様が殿下との距離を縮めておられるとか。まあ、勇敢ですわね?」
「まあ、私と殿下の間柄は幼少からの友情でございますわ」
「友情……ふふ、純粋ですこと」
皮肉めいた言葉に、周囲の女生徒たちもくすくすと笑い始めた。玲奈は冷静に微笑む。
「もちろん友情でございますわ。ところで、セシリア嬢は最近どのような読書をなさっておりますの?」
「読書?」
「ええ。貴族令嬢たる者、常に教養を磨かねばなりませんもの。私、おすすめの古典詩集がございますの。ぜひ今度お貸し致しますわ」
完全に予想外の対応に、セシリアは口を噤んだ。
(計画通り、こちらの誠実路線で相手の挑発を受け流しますわ)
玲奈は余裕の笑みを崩さない。だが、ここで気づく。
(あら……?)
リリアが遠くの廊下からこちらをじっと見つめていたのだ。目にはわずかな不安と迷いが浮かんでいる。
(……誘導は、ヒロインの心理面にも仕掛け始めてますわね)
シナリオの歪みは、確実にリリアの感情にも影を落とし始めていた。
昼休み。玲奈は智也、一輝、奈美、優弥、陽子とともに学園裏手の離れ小屋に集合していた。ここは奈美が見つけた、運命修正AIの監視圏外の"安全圏"である。
「セシリア嬢が仕掛けてきたわね」
玲奈が椅子に腰かけながら報告を始める。
「むしろ予想よりも早かったかもしれんな」
智也が腕を組んで答える。奈美が端末を見つめたまま続けた。
「システムは確実に段階的な誘導補正を強化してきてるわ。直接的ないじめイベントは無理でも、"周囲の誤解による包囲"を作ろうとしてる」
「でもリリア嬢本人は困惑してるように見えた」
一輝が静かに補足する。
「彼女は本来、明るく素直なヒロイン属性のはず。それが今、周囲に『カタリナ様が裏で何か企んでる』と吹き込まれている状況」
「逆に言えば、リリア嬢を早めに味方化すれば、誘導そのものを崩せますわ」
玲奈はそう結論付けた。
すると優弥がふと思いついたように言った。
「ねえ、僕に少し任せてもらえないかな?」
「お?」
「リリア嬢って、王都の中央教会の福祉活動にも興味があるって聞いたんだ。なら、僕の慈善活動に誘ってみたいんだよね」
「なるほど、優弥さんが自然に交流機会を作るわけですわね!」
「正面から"仲良くしましょう"じゃなく、"同じ善行に参加する"なら誘導の反発も抑えやすい」
奈美が分析を補足する。
「よし、それ採用!」
智也が即決し、作戦は始動することとなった。
◆
数日後――王都中央教会の孤児院前。
「わあ……これが教会の施設なんですね」
リリアが目を輝かせながら辺りを見回していた。優弥の提案は成功し、彼女を自然な形で慈善活動に誘導できたのだ。
「ええ。貧しい子供たちに少しでも支援を、と始めたばかりなのです。リリア嬢にもぜひ手伝っていただければ」
「もちろんです!」
リリアは嬉々として施設の子供たちと交流を始めた。その様子を遠くから眺める玲奈と智也。
「……いい流れですわ」
「だな。直接悪役フラグも立たないし、ヒロインの善行ポイントも安定してる」
「ですが、このまま穏便に済むとは思えませんわ」
「まあな。次はどんな手を打ってくるか……」
その時だった。教会の奥から、神官の一人がゆっくり近づいてきた。
「カタリナ様。よろしければ一つご相談が……」
「ええ? なんでしょう?」
「実は最近、教会への寄付金が一部不自然に消えまして……。内部に不正があるかもしれませぬ」
「まあ……」
「もしよろしければ、貴族家のお力で監査をお願いできませんか?」
玲奈は一瞬考えた。
(誘導ですわね……)
これが「裏で資金操作している悪役令嬢フラグ」に繋がる可能性は高い。だが――
「もちろんですわ。逆にこれは私が潔白であることを証明する好機でもありますもの」
玲奈は毅然と答えた。
「私の公爵家が正式に監査役を派遣いたしますわ」
「ありがとうございます……!」
神官は頭を下げたが、その背後で別の陰謀の影が蠢いていた。
その晩、ローレンツ邸の一室にて。
「玲奈、やっぱり誘導濃厚だな。資金疑惑なんてまさに典型的な陰謀フラグじゃねえか」
智也が真剣な顔で机上の書類を見つめている。
「ええ。しかし、むしろ好都合ですわ」
玲奈は静かに微笑んだ。
「誘導が分かりやすいほど、逆利用できますもの。潔白な監査結果を出せば、私の評価はさらに高まりますわ」
「本来なら悪役令嬢が裏金を回してる疑惑ルートになるわけだが……」
「でも今の私には、名実共に公爵家の正統令嬢としての権限がありますもの」
玲奈は堂々と言い切った。そこへ奈美が端末を片手に入ってくる。
「面白いデータが取れたわ」
「ほう?」
「監査要請の瞬間、AIの補正ログに不自然な跳ね上がりがあった。どうも"汚職ルート判定補正"という項目が自動で動き始めたみたい」
「やっぱり自動補正AIが全イベントに監視介入してるわけだな」
一輝が静かに分析を重ねる。
「ならば、ここで監査ルートを完全クリアすれば、バッドエンド誘導も一段階崩せますわね」
「その通り。しかも世間の目が監査結果に注目すれば、むしろカタリナ評判アップフラグに転化できる」
玲奈の冷静さに智也もニヤリと笑う。
「だが、ここまで逆転続きだとAIも相当焦ってるはずだぜ」
「ええ。焦れば焦るほど、次の手が露骨になって隙も生まれますわ」
玲奈の瞳に、少しだけ戦略的な光が宿った。
◆
翌日、学園の教室では既に噂が広がっていた。
「カタリナ様が自ら監査を申し出たんですって?」
「でも表向きはそう言って、裏で証拠隠滅してるんじゃ……?」
女生徒たちの声は、依然として半信半疑に揺れている。だが以前と決定的に違ったのは――
「でも最近のカタリナ様、なんだか本当に優しくなったわよね」
「昨日もリリア様と一緒に孤児院のお手伝いをしてたって聞いたわ」
中立寄りの意見が生まれ始めていたことだった。
(……着実に好感度逆転ルートに侵入してますわね)
玲奈は淡く微笑み、扇子をゆるりと開いた。
「皆様。誤解のないよう、透明性をもって全ての監査結果は公表致しますわ」
その凛とした姿に、一部の女生徒たちはそっと視線をそらした。中にはうっすらと尊敬の眼差しを向ける者さえいる。
(まだ完全ではありませんが……補正AIの牙が少しずつ鈍ってきている証拠ですわ)
その昼休み――
「カタリナ様!」
突然、廊下でリリアが玲奈を呼び止めた。
「リリア嬢?」
「昨日はありがとうございました!……あの、もしよければ、今後も孤児院のお手伝い、ご一緒してもいいでしょうか?」
玲奈の心に一瞬、温かいものが走る。
「もちろんですわ。喜んでご一緒致しますわ」
リリアが嬉しそうに微笑んだ瞬間、またひとつ――シナリオの歪みが軋む音が、誰にも聞こえぬ次元で鳴り始めていた。
だがその夜――
「……いよいよ来たな」
智也がローレンツ邸の隠し書庫で低く呟いた。
奈美と一輝が、教会の監査に提出された会計書類のデータを分析していたのだ。膨大な金額の寄付金の動きを追う中、不自然な帳簿改ざん痕跡が浮かび上がってきた。
「これ、単なる教会内部の不正じゃないわ。背後に王都財務局の役人が絡んでる」
奈美の指先が示す先に、薄汚れた裏帳簿の電子写本が映し出されていた。
「つまり……教会資金疑惑を利用してカタリナ様を陥れようとした黒幕が、さらに背後にいるということですの?」
玲奈が眉をひそめる。優弥が静かに頷いた。
「どうやら、教会の腐敗分子と王都の貴族派閥の一部が結託してる。彼らにとって、カタリナ様の改革路線は都合が悪い」
「そして運命修正AIは、それら現実の利害と連動して、"自然な陰謀"という名のバッドエンド誘導シナリオを構築しているわけだ」
一輝の言葉に、全員が重く頷いた。
「これはもう乙女ゲームの枠組みを越えてますわね」
玲奈は扇子を閉じ、ゆっくりと息を整えた。
「でしたら、逆に利用しますわ。これほど露骨な陰謀ならば――正義の暴露劇を演出できますもの!」
「まさに
智也が冗談めかして笑ったが、その目は鋭い光を帯びていた。
◆
翌朝――学園大講堂。
公爵家・侯爵家の令嬢令息たち、王立教会関係者、そして教官陣まで一堂に集められていた。
「本日は、公正なる監査報告会でございます」
玲奈が堂々と壇上に立つ。手には膨大な書類ファイル。
「教会資金流用疑惑につき、詳細調査の結果――内部不正は存在せず。むしろ背後に一部貴族官僚が不当な資金操作を行っていた証拠を確認致しました」
「な……!」
「貴様、それは名誉毀損では!?」
複数の高官が叫ぶが、その瞬間――
「証人として関係記録を提出します」
奈美と一輝が別室から登場し、詳細な電子ログデータを提示した。さらに――
「今回の件、神殿奉仕活動中に偶然知りました。すべて事実です!」
リリア自身も証言に立ち上がったのだ。静まり返る会場。
玲奈は満面の微笑を浮かべた。
「皆様。これが誤解のない"真実"ですわ。悪役令嬢? 失礼ですわね、私はむしろ正義の令嬢でございますわ!」
圧倒的な証拠と証言の前に、陰謀は崩壊した。
周囲の女生徒たちは、自然と玲奈に敬意の視線を向け始める。
「カタリナ様、やはりお美しくもお強い……!」
「やだ、ちょっと憧れるわ……!」
ついに、悪役令嬢フラグは一つ、完全にへし折られた。
だが――その裏で、システム中枢では別の動きが始まっていた。
『介入失敗。管理モード切替要請。バッドエンド誘導優先度:高→緊急適用モードへ』
新たなる陰謀の準備が、静かに進行を始めていた。
(第三話・完)