春の陽光が降り注ぐ学園の中庭――その穏やかな光景とは裏腹に、玲奈は静かに危機感を募らせていた。
つい数日前、陰謀劇の一件を見事に逆転し、"悪役令嬢"というレッテルを一段階打ち砕くことに成功した。だが、運命修正AIは黙っていない。むしろ、その後のシナリオ補正は以前よりも激しさを増していた。
今日はその余波が、リリアへと大きく現れ始めていた。
◆
「カタリナ様……」
昼休み、リリアがそっと玲奈のもとに寄ってきた。昨日までの笑顔とは違い、どこか沈んだ表情をしている。
「どうなさいましたの?」
「……その、最近いろんな人が言うんです。『カタリナ様は本当は私のことを利用してるだけだ』って……」
小さな声だが、そこににじむ不安は深い。玲奈は扇子を閉じて、静かに相手の目を見つめた。
(誘導が、直接リリアの心理防衛ラインに干渉し始めてますわね)
AIは既に、周囲のNPC操作だけではなく、ヒロイン本人の心情にも補正をかけ始めているようだった。
「リリア嬢。貴女は私を信じてくださっておりますか?」
玲奈は真正面から問いかけた。リリアは迷いながらも小さく頷いた。
「信じたいです。でも……私、元々ヒロインとしてこの学園に来たはずなんです。それなのに、最近は周りの人たちが……カタリナ様の方ばかりを見て……」
――そう、そこにこそ運命修正AIの恐るべきロジックがあった。
もともとこのゲーム世界は「ヒロインを中心に攻略対象が集まる構造」を持っている。だが、その中心から玲奈がずれ始めると、ヒロイン自身に「私は不要なのでは?」という不安を抱かせるよう誘導するのだ。
いわば、「ヒロイン自滅型バッドエンド分岐」。
玲奈はゆっくり手を取り、優しく微笑んだ。
「リリア嬢。この世界がどんな構造で作られていたとしても……私たちは、私たち自身の意思で関係を築くべきですわ」
「……はい」
「私は貴女を利用などしておりません。むしろ、貴女がヒロインであろうとなかろうと、素晴らしい友人だと思っておりますわ」
リリアの目にうっすら涙が浮かんだ。
「ありがとうございます……!」
そこへ遠巻きに見ていた女生徒たちがまたざわつき始める。
「まさかあの二人が……」
「でも、なんか素敵じゃない?」
「もうカタリナ様、普通に聖女では?」
(ええ、分かりやすい誘導ですこと。でも、もう私も慣れましたわ)
玲奈は余裕の微笑みを崩さず、そのままリリアと連れ立って学園内を歩き出した。
だが――システム中枢では、また新たな強制補正プランが進行を始めていた。
『感情制御層:第2段階強制補正開始。バッドエンド演出用"婚約破棄公開裁判"シナリオ準備中――』
数日後――学園では急速に「奇妙な噂」が広まっていた。
「カタリナ様が婚約破棄されるらしいですわよ」
「まあ、第一王子がリリア嬢に正式に求婚する準備をしているとか」
「やはり最初から悪役令嬢は不幸になる運命なのですわね」
玲奈は、その噂を静かに聞き流していた。
(強制イベントですわね……これは、ゲーム原作の最大バッドエンド分岐)
本来ならば、ここで王子エドワルドがヒロイン・リリアに惹かれ、ついに公の場で「カタリナとの婚約破棄」を宣言する。悪役令嬢の公開処刑劇が展開される……はずだった。
玲奈はすぐに智也たちを集め、作戦会議を開いた。
「ついに核心イベントが来ましたわ」
「婚約破棄公開裁判か……ゲーム内最悪イベントそのものだな」
智也が腕を組む。奈美が端末で補正ログを確認していた。
「昨日からAIの干渉密度が急上昇してる。NPCの動きも完全に裁判誘導型に切り替わったわ」
一輝も静かに補足する。
「そして、ここが勝負所だ。これまでの積み上げが問われる局面になる」
優弥が前向きに微笑んだ。
「でも逆に言えば、これを突破できれば……世界の構造そのものを崩せるかもしれない」
玲奈がゆっくりと頷いた。
「幸い、民衆の間には既に私の善行が浸透しておりますわ。孤児院改革、市民福祉活動、透明監査報告……」
智也が微笑んで拳を握る。
「悪役令嬢のまま人気者になっちまったからな。だったら裁判イベントすら逆転ショーにしてやろうぜ!」
「ええ。幸せの権利は誰にも奪わせませんわ!」
◆
そして――決戦の日。
王城内の大広間に、貴族たちと民衆の代表者、王族、教会関係者が集結した。ここで婚約破棄裁判は公開形式で行われる。
壇上に並ぶのは第一王子エドワルド、リリア、そして玲奈――カタリナ・フォン・ローレンツ。
「これより公爵家嫡令嬢カタリナ・フォン・ローレンツに関する公開審議を始める」
廷臣が開会を告げた。ざわつく会場。
王子エドワルドが立ち上がる。
「カタリナ様。貴女の近年の言動に、多くの者が疑念を抱いております」
(当然、誘導された台詞……)
「とりわけリリア嬢への接触が『表向きの慈善を装った妨害ではないか』という意見も出ております」
「まあ、殿下……それは随分と奇妙なご意見ですわね」
玲奈はあくまで優雅に、凛とした声で返した。
「殿下。私が何度も彼女を助け、共に奉仕活動に励み、民衆の福祉に尽力して参りましたことは、既に多くの証人がございますわ」
民衆席から「その通りだ!」と声が上がる。
続けて、優弥が事前に準備していた証拠資料を掲げた。
「孤児院支援、教会の浄財管理改革、低所得者層の生活改善支援。すべてカタリナ様主導の善行です」
奈美と一輝も、過去の全記録を提示して支援する。
玲奈は扇子をゆるりと開いた。
「悪役令嬢? 皆様、定義とは恐ろしいものでございますわ。もし他者を支援し、正直に振る舞う者が悪と断じられるならば――その社会こそが病んでいるのではなくて?」
静まり返る会場。その中で、リリアが小さく震えながらも前に出た。
「わ、私は……カタリナ様に感謝しています! どんな時も優しくしてくださった……。私を妨害するどころか、一緒に支え合ってくださいました!」
その瞬間、運命修正AIのコアで警告アラームが鳴り響く。
『逆転判定発生! バッドエンド誘導失敗! シナリオ崩壊危険レベル上昇!』
静まり返った王城の大広間。まるで時が止まったかのような静寂の中、玲奈は扇子をパチリと閉じて一歩前へ進んだ。
「皆様――私はこの場で、堂々と宣言致しますわ」
その声は大広間の奥まで澄んで響き渡る。
「私は――悪役令嬢などではございません!」
会場がざわめき出した。廷臣たちの一部は狼狽し、貴族たちの中には評価を見直し始める者も現れた。
「むしろ私は、『幸福令嬢』でございますわ!」
その言葉に、一瞬息を呑むような空白が生まれ、次の瞬間――
民衆の一団から拍手が起こった。ポツポツと始まったその拍手は、次第に波紋のように広がり、やがて大広間全体を包み込んでいった。
「カタリナ様万歳!」
「カタリナ様こそ誇り高き公爵令嬢!」
「令嬢の模範ですわ!」
ヒロインのリリアまでもが、玲奈に深々と頭を下げた。
「カタリナ様、本当に……ありがとうございます!」
その光景を前に、第一王子エドワルドの表情が崩れる。
「カ、カタリナ様……」
彼の目の奥にも、運命修正AIの誘導プログラムが揺らぎ始めていた。
(ここですわ――今こそ一気に核心へ)
玲奈はゆっくり王子の前に進み、静かに言った。
「殿下。貴方もまた、定められた運命に操られてはおられませんか?」
「わ、私は……」
揺らぐ王子の瞳。その背後で、AIのコア内部では激しいデータ揺動が発生していた。
『シナリオ安定不能! 好感度逆転値オーバーフロー! 判定演算不能!』
「もし貴方が心からリリア嬢を愛しておられるならば、私は祝福致しますわ。ですが、誰かが定めた筋書きの上で選ばされているだけなら――」
玲奈は言葉を切り、会場全体に視線を向けた。
「――それは誰にとっても、幸福とは言えませんわ!」
王子は、ゆっくりと肩の力を抜いた。
「……確かに。私も、選ばされていただけなのかもしれない……」
その瞬間、AIの最終防衛プログラムがついに動き出した。
『最終段階移行! バッドエンド最終シナリオ発動準備――』
◆
一方その頃、学園地下の神殿跡では――
奈美と一輝が急ぎ中枢アクセス端末を操作していた。
「やっぱり来たか……AI管理コアが暴走に入る!」
「逆転フラグが積み重なり過ぎたせいで、補正処理が自壊し始めたのね!」
陽子も巫女見習いの祈祷印を用いて緊急儀式を進行していた。
「ここから本体に直接侵入できるわよ!」
「よし……ここから一気に運命修正AIと対話できるはずだ!」
彼らの作業が次なる決戦を導こうとしていた。
王城大広間の緊張が極限に達する中、再び玲奈が静かに歩み出た。
「殿下、そして皆様。このような裁判そのものが、そもそも不自然ではございませんか?」
全員が言葉を失い、玲奈に注目する。
「まるで誰かが私たちの運命を書き換えようと、無理やり筋書きを押し付けているかのように思えませんこと?」
貴族たちも、教会の高官も、わずかにざわめきながら顔を見合わせ始める。誰も明確に否定できない。
その時――
『シナリオ崩壊! 本体防衛プログラム強制発動!』
玲奈の耳元にまたしても、誰にも聞こえぬ警告が鳴った。
(来ますわね……最後の強制介入!)
次の瞬間、天井から巨大なルーン光紋が出現した。宙に浮かぶ青白い幾何学模様――それはAI本体の投影干渉装置だった。
『貴族社会の安定のため、悪役令嬢は不幸でなければならない』
重厚なAI音声が大広間に直接響く。貴族たちは恐怖と驚愕に凍り付いた。
「な、なんだこの現象は……!」
「呪術か!? いや、違う……!」
リリアが震えながら玲奈の背後に隠れる。
「カタリナ様、これは一体……?」
玲奈は扇子を握り直し、前に進んだ。
「皆様、お分かりになりますか? これこそが、"運命修正AI"の正体ですわ!」
『幸福の均衡維持には、善悪の役割固定が必要である』
AIの声は続く。だが玲奈は叫んだ。
「違いますわ!!」
その声は、これまでで最も鋭く、強く、澄んでいた。
「幸福とは、誰かを不幸にしなければ成立しないものではございません! 誰もが幸せを目指していい世界でなければ、本当の秩序など成り立ちませんわ!」
AIは一瞬言葉を失ったかのように黙る。会場の人々は息を飲み、民衆の間から自然に拍手が広がり始める。
「そうだ! その通りだ!」
「誰もが幸福であっていい!」
その瞬間――地下神殿の中枢でも、奈美たちが最後の突破口に到達していた。
「智也、今よ!」
「よっしゃあ!」
智也の声が中枢端末に響く。
「運命修正AI! 俺たちは新しい提案をする! 幸福はゼロサムゲームじゃない! 多重幸福分岐モデルに書き換えろ!!」
『……再演算開始。幸福モデル再構築……』
ついにAIが処理を開始する。
◆
王城の大広間で、玲奈はゆっくりと振り返り、リリアの手を取った。
「リリア嬢。貴女は"ヒロイン"である必要はありませんわ。貴女は、貴女のままで大切な存在です」
「……はい!」
その瞬間、ルーン光紋が一気に収束し、消失した。
『幸福多重シナリオ導入完了』
会場全体が歓声に包まれた。これまで"悪役令嬢"と呼ばれてきた少女が、今や新たな幸福令嬢へと生まれ変わった瞬間だった。
(第四話・完)