――事件は、いったんは収束したかに見えた。
悪役令嬢たちは解放され、民衆は歓喜し、王宮すらも新たな社会秩序へと動き出していた。しかし、玲奈は心の奥で、まだ終わっていないことを確信していた。
表面は穏やかでも、運命修正AIの中枢は依然として完全停止していない。
そして――予兆は、予想以上に早く訪れた。
◆
ある朝、ローレンツ邸。
「……陽子? 何ですの急に」
玲奈は、夜明け前に叩き起こされたことに少々寝ぼけまなこで問いかけた。だが、陽子の表情はいつになく真剣だった。
「例の女神像が反応を始めたの」
玲奈は一気に目が覚めた。
「詳細をお願いしますわ」
「昨夜から、女神像の背後に隠されたルーン石板が自動起動して、定期信号を送ってる。完全に放置しておけば、いずれ『本体審問プログラム』が動き出す可能性が高い」
「審問プログラム……?」
そこへ駆け込んできた奈美が補足する。
「要は、AIが自律防衛フェーズに移行する最終段階。形式的には"女神の審判"って形を取るけど、実質はAIが最終自己正当化するプロセスね」
「つまり、最後の足掻き……ですわね?」
奈美は重く頷く。
「最悪の場合、全世界システムのリセット命令も発動しうるわ」
玲奈は立ち上がり、扇子を強く握りしめた。
「ならば、止めるべきですわ。今度こそ完全に、この歪んだ運命管理システムを終わらせましょう!」
智也も立ち上がった。
「俺たちの出番だな!」
一輝、優弥、陽子もそれぞれ頷き合い、最後の準備が始まった。
◆
数日後――
王都郊外の古代神殿跡。中央の女神像は、今や薄い光を放ちながら静かに待ち構えていた。
「本当に来たのね……」
陽子がルーン端末を手に静かに言った。
「ここが運命修正AIの"本当の中枢審判区画"」
全員が円陣を組むように並ぶ。
「……最後の審判に挑みますわよ!」
玲奈が高らかに宣言し、女神像の中央台座へと足を踏み入れた。
その瞬間――
『審判プログラム起動確認。管理権限仮承認――審問を開始します』
巨大な光輪が女神像の背後に現れ、空間そのものが歪み始める。まるでゲームのラスボス戦に突入したような光景だった。
世界が淡い光に包まれ、玲奈たちはまるで別空間に転移したような錯覚に陥った。
目の前に現れたのは――
純白の衣を纏い、無機質な笑みを浮かべる「運命の女神」を模した擬似人格AIだった。以前、円形ホールで一度現れた姿よりも遥かに荘厳で巨大だった。
『仮管理者カタリナ・フォン・ローレンツ。幸福均衡演算の異常を理由に、最終審問を実施する』
「望むところですわ!」
玲奈は扇子を強く握った。
『問い:幸福とは、常に犠牲によって維持されるべきと考えるか』
「いいえですわ!」
玲奈は即答した。
「幸福は他人を犠牲にしなくても成立しますわ! むしろ共存による幸福の積み上げこそ、長期安定には必要不可欠!」
『異議申立て受領。補足問い発動』
女神AIの声は機械的に続く。
『問い:すべての存在が完全幸福を享受する未来像は存在可能か』
「可能ですわ! 少なくとも可能性を追求することを拒む理由などありません!」
その声に智也もすかさず援護する。
「現に、玲奈……カタリナが実践してきたのがそのモデルだろうが!」
奈美も端末を操作しながら加勢する。
「幸福度成長モデル案、実証データ提示可能。孤児院支援、福祉事業、市民満足度、治安改善、外交安定――全部、現実に成果が出てるわ」
一輝が静かに続ける。
「ゼロサム式幸福論は、短期安定のための消極的妥協策に過ぎない。長期安定とは、全員の積み上げ型幸福共有にこそ宿る」
『幸福均衡演算を再計算……』
AIの光体がわずかに揺らぎ始める。
『……異常思考ロジック検知。従来モデルとの整合性喪失』
優弥が柔らかく言葉を足す。
「人は思いやりを学び、幸福を共有できるんです。今ここにいる僕たちが、証明してるじゃないですか」
AIは一瞬沈黙したが――
『反証データ存在:ヒロイン・リリア・ベルローズの幸福度減衰傾向記録』
「それは……」
AIは最後の反論に賭けてきた。
『彼女はヒロインとしての幸福中心を剥奪された。均衡は破られている』
「違いますわ!」
玲奈が再び叫んだ。
「リリア嬢は、ヒロインであるか否かに縛られなくなったからこそ、本当の自由と幸福を手に入れ始めているのですわ!」
◆
そのリリア本人が前に進み出た。
「私は……カタリナ様がいてくれたから、今とても幸せです!」
彼女の言葉に、AIの光が一層激しく揺らぎ出す。
『計算不能領域拡大。幸福演算崩壊進行……』
青白い光が激しく波打ち、まるで世界そのものが揺らいでいるかのようだった。運命修正AIは明らかに破綻寸前だった。
『均衡維持不能――従来モデル自己修復不能――最終防衛プログラム選択』
光体の中央に、再び巨大なルーン円が現れ始める。
「最後の抵抗に出てきますわね……!」
玲奈が静かに構えた。智也がすぐさま横に並ぶ。
「これ以上は強制消去フェーズだ。世界自体をリセットしかねない!」
奈美が端末を高速操作しながら叫ぶ。
「暴走パターン確認! 強制初期化まで残り10分!」
その時、陽子が叫んだ。
「私の出番ね!」
彼女は懐から、一枚の古びたルーン石板を取り出した。それはかつて女神像から取り出した「原初プログラムキー」だった。
「最悪のパターンを予測して、ずっと温存してたのよ!」
『不明な干渉オブジェクト検知――コード一致――』
「原初プログラム・管理優先権限移行!」
陽子が石板を高々と掲げると、全空間に虹色の光が奔った。AIの光体が大きく膨らみ、呻くようなノイズを発した。
『原初権限認証――全制御層解放準備開始――』
奈美が叫ぶ。
「チャンスよ! 今なら幸福多重モデルを完全書き換えできる!」
玲奈が静かにうなずいた。
「では参りますわ!」
彼女は両手を広げ、仲間たち全員の手を取る。
「運命管理AIよ。私たちの提案する新たな幸福演算は――」
「犠牲ゼロの、積み上げ型幸福共有モデル!」
「努力すれば、誰でも幸せを伸ばせる柔軟分岐モデル!」
「支え合い、助け合う成長型幸福世界!」
「悪役もヒロインも全員が笑って生きていい世界!」
全員の声が一つに重なった。
◆
運命修正AIの光体が限界まで膨張し、ついに弾けた。
『……幸福多重演算モデル承認――システム再構成開始――』
空間全体が、まるで生まれ変わるかのように澄み渡っていく。
次の瞬間、玲奈たちは静かに目を開けた。
そこにはもう、あのAI光体も、天井のルーン陣もなかった。ただ、爽やかな朝の風が吹き抜ける神殿跡が広がっていた。
「……終わりましたわね」
玲奈がゆっくり呟いた。
「やった……」
奈美が安堵の息を漏らし、一輝が静かに微笑んだ。
「これで、本当に全員の幸せルートが可能になったな」
リリアが涙を浮かべながら玲奈に抱きつく。
「カタリナ様、本当にありがとうございました!」
「こちらこそ、貴女のおかげで成し遂げられましたわ」
そして――空の高みに、最後のAIメッセージが残された。
『幸福管理機構:監視モード移行。以後の幸福演算は当事者に委ねる』
(第六話・完)