快晴とは言いがたい。陽光を曇らせる薄雲が空一面に広がり、けれども空気は乾き、湿り気は乏しい。中途半端な天候の下、男は足元に咲く草の露を舌で舐め、乾き切った唇を湿らせた。
飢えても、渇いても――身体というものは、なお生きようと足掻くらしい。地面に伏せ、息を殺し、足音すら立てず通り過ぎた蛇を掴み取った男は、そのまま頭部へ喰らいつき、噛み千切る。掌に跳ねた血を啜り、唇に滲む鉄の味を噛み締めた。
鱗の皮を剥ぎ、ナイフで背を割く。骨と筋を引き裂いては貪り食い、指の隙間に残った肉の欠片すら舐め取って惜しまず。乾いた舌が草を引き抜き、茎に残る僅かな水分を啜った。
肩を揺らし、ようやく一息。男は近くの木へ背を預け、腰の剣を抜く。片側は錆びに覆われた両刃の剣。もう片方は、地に舞い落ちた葉すら音もなく切れるほど鋭く研がれていた。
ポーチから砥石を取り出し、無言のまま刀身を磨く。その眼差しが、ふと向きを変える。
音もなく、少女が現れた。
黒一色の修道服に身を包み、無装飾の裾が地を引きずる。首元にかけられた銀塗りのロザリオが、わずかに光を返していた。
「へえ、お嬢さん。こんな天気に一人で散歩かい。無用心だねぇ。鬼が出るぞ、鬼が」
男は剣先で空を指し、唇の端を皮肉気に歪めた。
「……あの」
「ん?」
「貴男は」
「俺? 気にすんな。人は取って喰わねえよ。用があるだけさ、この先の村に」
その言葉に、少女の眉が微かに寄る。目の奥に警戒の色が灯った。
「そう睨むなよ、お嬢ちゃん。睨まれても怖くねぇんだ、あんたみたいな華奢な子にゃな」
「……村には、取るものなんてありません」
「知ってる」
「貴重な品も、何も」
「金なんざ興味ねぇのよ、俺ぁ。ただ、欲しいもんはある」
「……欲しいもの?」
男はククッと喉を鳴らして笑った。紅玉のような瞳が、少女を真っ直ぐに射抜いた。
「そう。呪いを祓うって噂の『聖人の血杯』――お嬢ちゃん、どこにあるか知らねぇかい?」
少女は何も答えない。目の奥の色が変わらない。動きも、声も、熱も、ない。
「嘘ついても喰わねぇよ。人を食うのは怪物の仕事、
少女は男を観察する。爪先から頭の天辺まで、ゆっくりと視線が這い、表情は変わらない。
黒鉄の甲冑は斑に錆び、裂け目から覗く鉄網のような肌は血に染まり変色していた。腰のポーチは擦り切れ、鈍く曇った色が、過去に持っていた機能のすべてを否定している。
だが、何より異様だったのは――表情。艶のある肌に張りついた笑み。裂けた唇から覗く牙。笑っているのに、冷たく、乾いている。
「お嬢ちゃん、お願いがある。村まで案内してくれたら、嬉しいなあ。なんせ腹が減っててさ。あ、金なら払うぜ? 結構持ってんだよ、俺」
「……名前も話さない人を、村には」
「ダァト」
「え……?」
「ダァト・フォルグレス。カッコいい名前だろ? イカしてるって褒めてくれてもいいぜ。さて、こっちは名前を教えた。次はお嬢ちゃんの番だ。ずっと“お嬢ちゃん”じゃ、俺も呼びづらくってな」
ダァトと名乗った男は、笑みを浮かべたまま木に寄りかかり、ゆっくりと立ち上がる。
背丈はゆうに二メートル。岩のような体格に、全身を包む鈍色の甲冑。肩から滲んだ汗が陽光に濡れ、亀裂の隙間から滴る。
その巨体が一歩踏み出した瞬間――
少女の膝が、折れた。音もなく腰を落とし、地に座り込む。
「おいおい、大丈夫か? 手、貸そうか? 冷たいけどよ、鋼の手」
返事は、ない。
「……参ったね、こりゃ」
ダァトは籠手に包んだ手で剣の柄を握り、小気味よい音と共に凶刃を抜き放つ。白刃に映る己の影に、少女は顔を伏せる。ロザリオを胸に押し当て、目を閉じ、祈る。
苦しまないように、穏やかに――それだけを願う、誰に届くとも知れない祈りを。
「良い態勢だ、そのまま動くなよ?」
鈍く唸った刃が振り上げられ、空を裂く風を孕んだその軌跡が、ただの威嚇に終わらないことを証明するように――。
咆哮とともに木陰から飛び出した異形の影が、泥と落ち葉を蹴散らしながら襲いかかる。青い眼。血のように光る舌。
腫れ上がった肉と半壊した骨が不自然に繋がれたその身は、かつて獣だった名残を微かに残していた。だが、今はただの屍。意思なき殺意だけを宿した、腐肉の化物。
唾液と腐臭を撒き散らし、爪を振り下ろしたその瞬間――
「……な――あ?」
低く、笑うような声と共に刃が弧を描いた。
鈍色の空を背景に、血の軌跡が描かれる。
ズバ、と生温い音を立て、狼の
「お嬢ちゃん、良いことを教えてやろう。
ダァトは踵で腐った顎を粉砕し、地に転がる死体を踏み躙った。靴底から肉が裂ける音が鳴る。
「
彼の声は笑っていたが、その眼は笑っていなかった。赤く、濁った瞳がまっすぐに少女を射抜く。
マリアンヌは小さく瞬きをし、口元から微かな息を漏らした。
「どうして」
その声には、熱も抑揚も存在しなかった。機械のような抑制と、恐怖さえ遠い。
「ん?」
「私を助けてくれるんですか?」
「そりゃ、お嬢ちゃんが――女の子だから、かな」
ダァトは肩を竦め、クツクツと喉を鳴らした。
「男ってのは、そういうもんさ。可愛い顔見りゃぁ、剣を引く。泣かれりゃ情けをかける。たとえそれが罠でもな。そういうもんだろ? 女にゃ勝てねぇよ、誰も」
笑いながら、血濡れの剣を一度、二度と横に振り払った。肉片が飛び散り、赤黒い雫が草の上に滴る。
その瞬間、茂みが一斉にざわめいた。
「――来るぞ」
腐肉に塗れた気配が複数。這う、跳ねる、蠢く。死体たちが地中から引きずり出され、木の間を縫うように現れた。犬のように四足で這いずり、骨が剥き出しの腕を振るい、口を開けば歯が剥き出し。どの一体も、獣の皮に人の絶望を縫い合わせたような、哀れな眷属たち。
「そいじゃあ……お楽しみといこうか」
愉快げに口笛を吹きながら、ダァトは前へと歩を進めた。
剣を振るうたび、肉が裂け、骨が砕け、血が地に注ぐ。
腐臭と鉄臭の中、踊るような剣筋が生きた死体たちを一つずつ、無慈悲に断ち切っていく。鋼の籠手が握る剣は重く、太く、そして速い。獣の頭を胴ごと叩き飛ばし、腕を失った眷属が絶叫と共に倒れる。
「マリアンヌ、ポーチから魔石を取ってくれ。頼むよ」
振り向かずにそう言ったダァトの声は軽く、どこか戯けたようでもあったが、その背中から迸る殺気は凄絶だった。
「魔石……はい」
彼女は無言でポーチに手を伸ばし、掌に収まる青紫の石を拾い上げる。
「それだ。聖光の術、使えるか?」
「……はい。でも、神父様から禁止されていました。私には……」
「ふむ。まあ、やってみりゃいい。駄目ならそれまで」
マリアンヌの指が震えた。禁を破るのは、神の怒りに触れること。誰かの悲鳴が響く暗い部屋、そこで祈る時間が何より恐ろしかった。
「……ごめんなさい。できません」
「そうか。なら仕方ねぇ。案内だけ頼むぜ? 眷属は全部、俺がぶっ潰す」
「……わかりました」
言葉に感情はなかった。ただ機械のように応答し、森の中を指さす。
その指先を追い、ダァトは血と死の森を踏み抜いていった。