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第二節

 森を無理やり切り拓いて、人が住める程度に整えた土地を「集落」と呼ぶのであれば、ダァトの目指していた村も確かにその定義には該当していた。


 だが、その村の様相は彼の脳裏に浮かべていた平穏とは程遠い。並び立つ家屋はすべてが朽ちかけ、窓という窓には木板が打ちつけられ、開口部を拒絶するように閉ざされていた。畑に残された穴には家畜の白骨が突き刺さるように突き出し、そこにあったはずの生活の匂いは、既に地中に沈んで久しい。


 「いやはや、郷愁ってヤツかね……。哀愁が強すぎて泣けてくる」


 「――」


 「どうしたマリアンヌ、お前さんも懐かしい気分にでもなったか?」


 「あの……私、ここでお別れします」


 「おや、俺のこと嫌いになった?」


 「……いえ。ダァトさんが、村を見て回りたいと仰っていましたので」


 「そうそう、それそれ。俺ぁ観光客なんでね。少しばかり村を歩いて、雰囲気でも楽しみたいのさ」


 ケタケタと場違いなほど明るく笑いながら、脇に抱えていたマリアンヌを地面に降ろす。その際、骨が鳴るほど首を左右に回してストレッチする様は、殺人前の準備運動にも見えた。


 「案内、しましょうか」


 「デートのお誘いってやつかい? 嬉しいねぇ、こんな可憐なシスターと腕を組んで歩けるなんてさ」


 「そういう意味ではありません」


 「知ってる。だけどさ、男ってのはそういう勘違いが好きなんだ。ほら、行こうぜ案内人さん」


 差し出された手に一瞬視線を落とし、マリアンヌはロザリオを強く握ったまま応じた。冷たく硬い金属の感触が、彼女の掌に淡く震える記憶を刻む。


 その瞳を覗き込む。


 笑っている。だが、底が見えない。


 焼け焦げたような色の瞳孔が燃えていた。怒ってもおらず、喜んでもいない。ただ、何かを殺すために感情の一切を焼却処理したような瞳。人の姿をした何かがそこにいた。


 「どうした、見惚れたか? 惚れてもいいぜ? 女に刺されるのも男の華だしな」


 「……ダァトさん」


 「ん?」


 「怒っているように、見えます」


 その一言に、剣士は一拍遅れて笑いを止め、眉をぴくりと引き上げた。


 「へぇ、変わった子だねぇ……誰に教えられた? その目」


 「誰にも。ただ、最初から……笑っていないように見えました。ずっと」


 「……そうかもな。でも怒っちゃいねぇよ。怒っても無駄だって知ってるからな」


 「無駄?」


 「怒っても、何も変わらねぇってことさ。怒りでどうにかなるなら、もう何百回も世界を変えてる」


 「感情なんて風のように流れてしまうもの……ですか?」


 「そうそう、よく分かってるじゃねぇか。感情ってのは過ぎるもの。忘れちまえば楽になるって寸法さ」


 そう言って、ダァトは一軒の家に近寄り、拳でドアを軽く叩いた。音は中から吸い込まれ、応答の気配はなかった。


 「全然出てこねぇな。愛想の悪い村だ」


 「……陽光病のせいです」


 「ん、何それ?」


 「陽光病……この村にいる人たちは、皆太陽の光に触れると死ぬのだと教わりました。ですから、日中は眠り、夜だけ活動する生活を送っています」


 「……そいつぁ、便利な病だな」


 「ご存じ、なかったのですか?」


 「知ってるさ。原因も、治し方もな。だが、それより聞きてぇことがある」


 剣の柄を指で軽く叩きながら、板の隙間を覗くように顔を寄せる。微かに光る蒼い眼と目が合った。


 「マリアンヌ、お前さん……村人の顔を、見たことあるか?」


 「……夜間は外出を禁じられていました。だから、一度も」


 「そうか。なら、旅人の姿は?」


 「書や彫像の中に描かれていたものだけです」


 「なるほど、なら一つだけ。聖人の血杯……聖餐杯って名前で知ってるか?」


 「……」


 祭壇に置かれていた杯。神父が手入れを欠かさず、大切にしていた金銀装飾のそれ。あれのことだろうか、とマリアンヌは無表情なまま、記憶をたどる。


 「それがどうしたんですか?」


 「呪いを解くために、俺にはそれが必要なんだ」


 「呪い……?」


 笑みが崩れた。裂けた唇から覗いた牙が、赤く濡れている。


 「呪われてるんだよ、俺はな。だから探してる。俺を殺せる方法を」


 ダァトが板を引き剥がした途端、家屋の内部から異臭が漏れ出た。乾いた腐肉と、燃え切らない脂肪が混じり合ったような匂い。空気に混ざっていたのは、命ではなく、死が凝固した気配だった。


 「やっぱりな」


 ぽつりと呟き、ダァトはガラスを叩き割った。粉砕音と同時に、埃を被った室内から、ずるりとそれは現れた。 


 人の形をしていた。だが、その歩みは異様だった。骨がずれ、筋が捩れ、全身がぎこちなく軋んでいる。白く膨張した皮膚の下で、蛆のようなものが微かに蠢き、指の先から伸びる黒ずんだ爪は、まるで刃物のように尖っていた。


 そして、何より――顔。


 鼻の穴は広がりすぎて歪んでおり、頬の肉は干からびて裂けている。瞳孔は異様に開き、虚ろな眼差しがダァトを凝視していた。瞳の奥に光はなかった。ただ、捕食の本能だけが燃えていた。


 「なァ……に……?」


 それが声を発した。言葉にならない呻きと、喉の奥で泡立つ唾液の音。歯茎からは黄ばんだ犬歯が無数に覗き、赤黒く染まった唇から、腐った血が滴っている。


 「しゃべんなよ。口が腐ってる」


 ダァトは肩を竦め、剣を鞘から抜いた。金属音と同時に、空気が震える。


 矢のように飛び出した劣化眷属ムロニの手が、彼の頬を掠めた。錆びた矢尻のような爪が皮膚を裂き、血が一筋、頬を伝う。しかし剣士は表情ひとつ動かさなかった。


 「痛みは生の証ってな。悪くねぇ」


 次の瞬間、彼は喉元を掴んだ劣化眷属ムロニを、そのまま外へと引きずり出した。地面に落とされたそれは四肢を無様に暴れさせ、何かを訴えるように呻いたが、ダァトの目には何の感情も浮かばなかった。


 「マリアンヌ、俺には嫌いなモノが三つある。一つは誰かを犠牲にしてでも生き延びようとする屑。二つ目は隠れて命を狙う塵。三つめは不死者ノスフェラトゥであることを隠して、生者を喰らう滓だ。お前さん、村人の姿を見た事がねぇって言ったな?」


 冷たい声音が空気を切り裂く。そして、剣が振り上げられる。


 「マリアンヌ、見とけ。これが“陽光病”の正体だ」


 ぐさり、と刃が胸を貫き、ムロニは呻きながら陽の下へ転がされた。


 「一」


 ダァトが指を一本立てる。


 「二」


 唇が裂け、叫び声が迸る。肌が蒼白に染まり、内部から裂け目が走る。肉が焼ける音と共に、骨が鳴る。


 「三」


 そして、全身が内側から爆ぜた。青白い炎が皮膚の隙間から噴き出し、瞬く間に全身を焼き尽くす。骸は火葬された木偶のように灰となり、その灰の中から――何かが蠢いた。


 ズルリ、と音を立てて這い出したのは、節足動物のような蟲だった。身を丸め、幾対もの脚を畳み、太陽光に晒されて身悶えるように震えていた。


 「これが“陽光病”だ。いや、“偽りの病”か……。人を喰らい、人の皮を被る劣化眷属ムロニの末路だな」


 マリアンヌは言葉を失っていた。顔色を変えず、ただ黙って――震えていた。


 「さっきも言ったよな。俺はこの病の正体も、治し方も知ってる」


 「じゃあ、私は――」


 「騙されてたってことさ。この村の奴らに。……いや、正確には“神父”だな」


 剣を手に、ダァトはゆっくりと教会の方へ振り向いた。


 「神父様が……?」


 「見せてやるよ、あいつの本性を」


 ダァトはムロニの頭蓋を踏み潰した。砕けた骨の破片が散り、腐った脳漿が地に染みる。その光景にマリアンヌは一歩も動かず、ただその場に立ち尽くしていた。


 「マリアンヌ、お前さんは何も悪くねぇ。ただ――知るべきだ。これが現実ってやつさ」


 そう言いながら、ダァトは悠々と歩を進める。口元に笑みを湛えながらも、その背には怒りの残滓が濃く揺れていた。


 教会の前へ辿り着く。大きくて重厚な扉は、鉄の枷に封じられ、まるで侵入を拒んでいるようだった。


 だがダァトは、構わず足を上げ――


 「お邪魔しまぁすッ!」


 剣士の足が勢いよく扉を蹴り破った。乾いた音が響き、割れた木片が教会内へと飛び散る。崩れた扉の奥からは、深い闇と古びた香が漏れ出ていた。


 「ダァトさんは……最初から全部、知っていたんですか?」


 マリアンヌが小さく問う。迷子のような声だった。


 「知ってたよ」


 「なら……なぜ、私に剣を向けなかったんですか?」


 「お前さんを斬る理由がどこにある? 俺が殺すのは塵屑とノスフェラトゥだけだ。生きてる可愛い子ちゃんに刃を向けるほど、俺は鬼じゃねぇよ」


 彼女は答えなかった。代わりに、目だけが揺れていた。


 「戸惑ってんな。無理もねぇ。じゃあ、代わりに一つ……俺の秘密、教えてやる」


 「……秘密?」


 「俺はな、五百年生きてる」


 その言葉に、マリアンヌの瞳が大きく見開かれた。


 「……冗談、ですよね?」


 「半分な」


 ゲラゲラと笑い、腹を捩って目尻に浮いた涙を指で拭い、ダァトは肩をすくめた。


 「……少しも、笑えませんでした」


 「だろうな。だが、死人みたいなツラしてるお前さんにゃ、丁度いい薬だと思ってな」


 「死人、ですか。私が」


 「そうさ。若い娘がそんな顔してどうすんだ。生きてる人間は、生きてるように笑えよ。俺みたいによ」


 「ダァトさんは――」


 笑っていない、と言いかけた言葉は、喉奥で詰まった。


 代わりに、マリアンヌは闇へと一歩を踏み出した。濁った空気を吸い込み、足音もなく、彼の背へと続いた。



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