森を無理やり切り拓いて、人が住める程度に整えた土地を「集落」と呼ぶのであれば、ダァトの目指していた村も確かにその定義には該当していた。
だが、その村の様相は彼の脳裏に浮かべていた平穏とは程遠い。並び立つ家屋はすべてが朽ちかけ、窓という窓には木板が打ちつけられ、開口部を拒絶するように閉ざされていた。畑に残された穴には家畜の白骨が突き刺さるように突き出し、そこにあったはずの生活の匂いは、既に地中に沈んで久しい。
「いやはや、郷愁ってヤツかね……。哀愁が強すぎて泣けてくる」
「――」
「どうしたマリアンヌ、お前さんも懐かしい気分にでもなったか?」
「あの……私、ここでお別れします」
「おや、俺のこと嫌いになった?」
「……いえ。ダァトさんが、村を見て回りたいと仰っていましたので」
「そうそう、それそれ。俺ぁ観光客なんでね。少しばかり村を歩いて、雰囲気でも楽しみたいのさ」
ケタケタと場違いなほど明るく笑いながら、脇に抱えていたマリアンヌを地面に降ろす。その際、骨が鳴るほど首を左右に回してストレッチする様は、殺人前の準備運動にも見えた。
「案内、しましょうか」
「デートのお誘いってやつかい? 嬉しいねぇ、こんな可憐なシスターと腕を組んで歩けるなんてさ」
「そういう意味ではありません」
「知ってる。だけどさ、男ってのはそういう勘違いが好きなんだ。ほら、行こうぜ案内人さん」
差し出された手に一瞬視線を落とし、マリアンヌはロザリオを強く握ったまま応じた。冷たく硬い金属の感触が、彼女の掌に淡く震える記憶を刻む。
その瞳を覗き込む。
笑っている。だが、底が見えない。
焼け焦げたような色の瞳孔が燃えていた。怒ってもおらず、喜んでもいない。ただ、何かを殺すために感情の一切を焼却処理したような瞳。人の姿をした何かがそこにいた。
「どうした、見惚れたか? 惚れてもいいぜ? 女に刺されるのも男の華だしな」
「……ダァトさん」
「ん?」
「怒っているように、見えます」
その一言に、剣士は一拍遅れて笑いを止め、眉をぴくりと引き上げた。
「へぇ、変わった子だねぇ……誰に教えられた? その目」
「誰にも。ただ、最初から……笑っていないように見えました。ずっと」
「……そうかもな。でも怒っちゃいねぇよ。怒っても無駄だって知ってるからな」
「無駄?」
「怒っても、何も変わらねぇってことさ。怒りでどうにかなるなら、もう何百回も世界を変えてる」
「感情なんて風のように流れてしまうもの……ですか?」
「そうそう、よく分かってるじゃねぇか。感情ってのは過ぎるもの。忘れちまえば楽になるって寸法さ」
そう言って、ダァトは一軒の家に近寄り、拳でドアを軽く叩いた。音は中から吸い込まれ、応答の気配はなかった。
「全然出てこねぇな。愛想の悪い村だ」
「……陽光病のせいです」
「ん、何それ?」
「陽光病……この村にいる人たちは、皆太陽の光に触れると死ぬのだと教わりました。ですから、日中は眠り、夜だけ活動する生活を送っています」
「……そいつぁ、便利な病だな」
「ご存じ、なかったのですか?」
「知ってるさ。原因も、治し方もな。だが、それより聞きてぇことがある」
剣の柄を指で軽く叩きながら、板の隙間を覗くように顔を寄せる。微かに光る蒼い眼と目が合った。
「マリアンヌ、お前さん……村人の顔を、見たことあるか?」
「……夜間は外出を禁じられていました。だから、一度も」
「そうか。なら、旅人の姿は?」
「書や彫像の中に描かれていたものだけです」
「なるほど、なら一つだけ。聖人の血杯……聖餐杯って名前で知ってるか?」
「……」
祭壇に置かれていた杯。神父が手入れを欠かさず、大切にしていた金銀装飾のそれ。あれのことだろうか、とマリアンヌは無表情なまま、記憶をたどる。
「それがどうしたんですか?」
「呪いを解くために、俺にはそれが必要なんだ」
「呪い……?」
笑みが崩れた。裂けた唇から覗いた牙が、赤く濡れている。
「呪われてるんだよ、俺はな。だから探してる。俺を殺せる方法を」
ダァトが板を引き剥がした途端、家屋の内部から異臭が漏れ出た。乾いた腐肉と、燃え切らない脂肪が混じり合ったような匂い。空気に混ざっていたのは、命ではなく、死が凝固した気配だった。
「やっぱりな」
ぽつりと呟き、ダァトはガラスを叩き割った。粉砕音と同時に、埃を被った室内から、ずるりとそれは現れた。
人の形をしていた。だが、その歩みは異様だった。骨がずれ、筋が捩れ、全身がぎこちなく軋んでいる。白く膨張した皮膚の下で、蛆のようなものが微かに蠢き、指の先から伸びる黒ずんだ爪は、まるで刃物のように尖っていた。
そして、何より――顔。
鼻の穴は広がりすぎて歪んでおり、頬の肉は干からびて裂けている。瞳孔は異様に開き、虚ろな眼差しがダァトを凝視していた。瞳の奥に光はなかった。ただ、捕食の本能だけが燃えていた。
「なァ……に……?」
それが声を発した。言葉にならない呻きと、喉の奥で泡立つ唾液の音。歯茎からは黄ばんだ犬歯が無数に覗き、赤黒く染まった唇から、腐った血が滴っている。
「しゃべんなよ。口が腐ってる」
ダァトは肩を竦め、剣を鞘から抜いた。金属音と同時に、空気が震える。
矢のように飛び出した
「痛みは生の証ってな。悪くねぇ」
次の瞬間、彼は喉元を掴んだ
「マリアンヌ、俺には嫌いなモノが三つある。一つは誰かを犠牲にしてでも生き延びようとする屑。二つ目は隠れて命を狙う塵。三つめは
冷たい声音が空気を切り裂く。そして、剣が振り上げられる。
「マリアンヌ、見とけ。これが“陽光病”の正体だ」
ぐさり、と刃が胸を貫き、ムロニは呻きながら陽の下へ転がされた。
「一」
ダァトが指を一本立てる。
「二」
唇が裂け、叫び声が迸る。肌が蒼白に染まり、内部から裂け目が走る。肉が焼ける音と共に、骨が鳴る。
「三」
そして、全身が内側から爆ぜた。青白い炎が皮膚の隙間から噴き出し、瞬く間に全身を焼き尽くす。骸は火葬された木偶のように灰となり、その灰の中から――何かが蠢いた。
ズルリ、と音を立てて這い出したのは、節足動物のような蟲だった。身を丸め、幾対もの脚を畳み、太陽光に晒されて身悶えるように震えていた。
「これが“陽光病”だ。いや、“偽りの病”か……。人を喰らい、人の皮を被る
マリアンヌは言葉を失っていた。顔色を変えず、ただ黙って――震えていた。
「さっきも言ったよな。俺はこの病の正体も、治し方も知ってる」
「じゃあ、私は――」
「騙されてたってことさ。この村の奴らに。……いや、正確には“神父”だな」
剣を手に、ダァトはゆっくりと教会の方へ振り向いた。
「神父様が……?」
「見せてやるよ、あいつの本性を」
ダァトはムロニの頭蓋を踏み潰した。砕けた骨の破片が散り、腐った脳漿が地に染みる。その光景にマリアンヌは一歩も動かず、ただその場に立ち尽くしていた。
「マリアンヌ、お前さんは何も悪くねぇ。ただ――知るべきだ。これが現実ってやつさ」
そう言いながら、ダァトは悠々と歩を進める。口元に笑みを湛えながらも、その背には怒りの残滓が濃く揺れていた。
教会の前へ辿り着く。大きくて重厚な扉は、鉄の枷に封じられ、まるで侵入を拒んでいるようだった。
だがダァトは、構わず足を上げ――
「お邪魔しまぁすッ!」
剣士の足が勢いよく扉を蹴り破った。乾いた音が響き、割れた木片が教会内へと飛び散る。崩れた扉の奥からは、深い闇と古びた香が漏れ出ていた。
「ダァトさんは……最初から全部、知っていたんですか?」
マリアンヌが小さく問う。迷子のような声だった。
「知ってたよ」
「なら……なぜ、私に剣を向けなかったんですか?」
「お前さんを斬る理由がどこにある? 俺が殺すのは塵屑とノスフェラトゥだけだ。生きてる可愛い子ちゃんに刃を向けるほど、俺は鬼じゃねぇよ」
彼女は答えなかった。代わりに、目だけが揺れていた。
「戸惑ってんな。無理もねぇ。じゃあ、代わりに一つ……俺の秘密、教えてやる」
「……秘密?」
「俺はな、五百年生きてる」
その言葉に、マリアンヌの瞳が大きく見開かれた。
「……冗談、ですよね?」
「半分な」
ゲラゲラと笑い、腹を捩って目尻に浮いた涙を指で拭い、ダァトは肩をすくめた。
「……少しも、笑えませんでした」
「だろうな。だが、死人みたいなツラしてるお前さんにゃ、丁度いい薬だと思ってな」
「死人、ですか。私が」
「そうさ。若い娘がそんな顔してどうすんだ。生きてる人間は、生きてるように笑えよ。俺みたいによ」
「ダァトさんは――」
笑っていない、と言いかけた言葉は、喉奥で詰まった。
代わりに、マリアンヌは