床に溜まった埃がフワリと舞い上がり、長椅子を伝う蜘蛛の糸と絡まり合う。
朽ち掛けた女神像から煤の涙が頬を伝って流れ落ち、累積した汚泥の山が崩れて乾く。陽光一つ差し込まぬ教会を照らすのは蝋の炎と祭壇に捧げられた銀杯のみ。鎮魂を求め、救いの手を差し伸べる筈の教会は闇に穢れた魔窟と化し、招かれざる剣士……ダァト・フォルグレスを死臭を以て迎え入れた。
「風情があるねぇ」
クツクツと含んだような笑みを浮かべた剣士が床に散らばっていた骨片を拾い上げ、粘り気のある腐肉を引き剥がす。
「最近の怪奇屋敷でも此処まで本格的なモノは無いぜ? 感心したよ、本当に」
「あの……」
「ん?」
「そこまで、おかしいでしょうか?」
「あぁ」
「えっと、どこら辺がおかしいか教えて貰ってもいいですか?」
何故ダァトが教会を怪奇屋敷と呼んだのかマリアンヌには分からない。物心付いた時から闇の中で生き、神父が説く神に祈りを捧げてきた少女にとって、異様な雰囲気を醸し出す教会であっても家と呼ぶべき場所だったのだから。
蝋燭の灯りを頼りに書物を読み解き、銀杯へ生き血を捧げる日々に疑問を抱いたことは無い。
時折訪れる誰かの声に耳を傾け、不浄に障らぬようにと部屋へ押し込まれても可怪しいと思わない。
己に課せられた禁を破り、祈りの間で神父の赦しを得るまで祈りを捧げるのは当然だと思っている。
全てはマリアンヌの為であると神父は囁き、異貌の背後に蠢く影は神の御使いである。不浄を清め、闇に濡れた世界こそが正しき世界の姿。真の聖者は苦痛の中より生まれ、その御霊を以て命を救う。
「おかしいとこか……まぁ、俺から言わせりゃ全部狂ってるな」
「全部?」
「そ、この光景そのものが間違ってるね。捨てられた教会でも此処まで荒れた場所は無いんだよ、普通はな」
「……普通って、なんですか?」
「個人的な感性の話だろうよ」
剣を担ぎながら銀杯に近づき、タプリと揺らぐ赤黒い血を覗き込んだダァトは足元に広がった陣を睨む。
「……」
「ダァトさん?」
「固定されてるな」
「固定?」
「部分的な時空固定陣。此処にあって、此処には無いんだなコレは」
「どういう意味ですか?」
少女の問い聞き流した剣士の瞳が微かな魔力を辿り、女神像を見据える。
「マリアンヌ」
「はい」
「宗教ってのは心の拠り所で、都合の良い依存先に過ぎない。何を信じようと、何に縋ろうと、結局はそれを選んだ自分自身に責任が降りかかる」
鋼が軋み、剣の柄を握り締める籠手の隙間から血が滴る。
「ダァトさん、血が」
「先に言っておくぜ? 俺はな……テメエ以外信じないことにしてんだ。苦しくても、痛くても、死にたくても……どんな時でもなぁッ!!」
吼え猛るダァトが剣を振るい、女神像を木っ端微塵に打ち砕く。雷鳴のような轟音に耳を塞ぎ、瞼を薄く開けると黒い扉を視界に収める。
「行こうぜマリアンヌ、もっと面白いモノが見れるかもな」
「……ダァトさんは、どこまで知ってるんですか?」
「全部だよ、
「その、今更なんですが……その
「残念、俺は不死狩りの聖騎士でも狩人でもないさ。ただ単に自分の為に面倒な不死を探して、色んな殺し方を試してるだけの人間だ。悪いね、キラキラした
剣の持ち手を裏返し、錆塗れの刃で扉を斬り付けたダァトはドアノブから噴出した屍血と泥を練り合わせたようなヘドロを跨ぐ。
先に進むべきか、この場で立ち尽くすべきか。逡巡するマリアンヌを一瞥した剣士はヤレヤレと肩を竦め、
「
「……」
「
「親の……」
「
「どうして」
「お前さんが居たから。子供は大事にするべきだろ? 何時の時代でもな」
戸惑うマリアンヌへ手を差し伸べ、その小さな掌を握った。
彼の言葉を聞けば聞く程分からなくなってしまう。何を考えて、何を思い、何故そこまで笑顔の仮面を被りながら怒り狂っているのか。
ダァトから見れば村とマリアンヌの状況は異常そのものだ。
だが、何故情報を小出しにしながら真実に迫るのか。それは常識の矯正にあったのだ。狂気を正常と誤認しながら命を繋ぎ、刈り取られる時を待つ少女の為に現実を突き付ける。マリアンヌという少女の日常を破壊し、彼女の普通が非日常へ向かう瞬間に立ち会う責任を果たす為。
「ダァトさんは、
「そりゃあ勿論。数え切れない程な」
「どうやって?」
「ありとあらゆる方法を試して」
「どうして其処まで殺そうとするんですか?」
「死ぬ為さ」
「死ぬ?」
「あぁ、テメエが死にたいから確実に殺せる方法を考える。思いついた殺し方を試して、駄目なら胡散臭い民間伝承にも頼る。
聖水に浸けて乾かした薬草を聖書の紙片で包み、自家製紙巻煙草を咥えたダァトはマッチ棒を擦り、細かな火花を散らすと拙い火を灯す。
濡れて乾いた血痕が壁を伝って黒ずみ穢れ、ぬらぬらと照る食い千切られた骨肉が網に入ってぶら下がる。瞳孔を開いた男の顔面が血に染まりながら頭蓋を晒し、蛆が湧くピンク色の脳にマッチの火が映える。
「―――」
狂気の世界に慣れ親しみ、狂気を異常と思わぬマリアンヌであろうとも目の前に広がる光景は耐え難い。彼女が人間である以上、奉納は同族の死を忌避するのだから。
「コイツは一週間前に行方を眩ました冒険者だな」
網を破り、血肉の中へ手を突っ込んだダァトは銀メッキのネームプレートを指で擦る。
「ざっと見て五十か百……いや、血袋の数を見なきゃ分かんねぇな」
濃い死臭に脳が眩み、視界が揺れる。人間の死を直接眼に収めたマリアンヌはその場で吐き、胸を抑えてロザリオを強く握り締めた。
「生物ってのはさ」
「……」
「同族が死んだ場所に足を踏み入れねぇんだよ、野生の獣であってもな。マリアンヌ、お前はこの光景を見てどう思った?」
「私は」
細い通路の天井から吊り下がる網袋、骨髄をしゃぶり出された骨の山、蛆と蠅が集る死の香り……。口角から垂れる胃液を拭い、吐瀉物を無理矢理飲み込んだ少女は「怖い、です。何か分からないけど、凄く」掠れ声を振り絞る。
「ならやっぱりお前さんは人間さ、少しだけ認識がズレちまった普通の女の子。俺から見たマリアンヌの姿なんだろうよ」
「……」
「血袋の場所が此処じゃねぇってことは……寝床かな? 良いねぇ、寝酒代わりに生き血を啜って眠りこけるたぁ良い御身分じゃねぇか」
こちとらもう何日寝てないか分からねぇのによ。そう言ったダァトは紫煙を吐き出すと奥にある扉を蹴り破り、
「塵掃除の時間だぜ? 屑神父」
漆黒の棺桶へ剣先を向けた。