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第四節

 闇に沈んだ室内で、ひとつ、またひとつと血の滴が落ちる。生温い赤が床板を濡らし、ぬめりとした音を立てた。


 天井から吊るされたのは、人間の形を保ったままの肉塊――手足を切断され、臓腑を抜かれ、ただ生かされ続ける血の器。その唇は耳まで裂け、干からびた声で呻きながら、意識の縁を彷徨っていた。


 「いやぁ……いい趣味してんな。昼間っから飯食ってオネンネか? 随分と、だらしねぇじゃねぇか」


 ダァトは楽しげに笑い、無残な肉塊へと剣先を向けた。その腹に刃を突き立て、ゆっくりと横へ薙ぐ。


 切り裂かれた腹から溢れ出した臓物が床へぶちまけられ、どろりと流れた血潮を嗅ぎつけて、闇から無数の牙が這い出す。腸を噛み千切り、肝を引き裂き、嗅ぎ慣れた人肉の香りに悦ぶように咀嚼を始めた。


 それは――眷属ストリゴイイが飼う、餌の肉達磨。死んでいない。殺してはいない。ただ、生きたまま血を搾るために吊るされた、人間の成れの果て。


 「マリアンヌ」


 「はい」


 少女の声は震えず、無機質なまま応じる。


 「さて、ここは何の部屋だと思う?」


 「分かりません。入ったことがないので」


 「そりゃそうか。……ここはな、眷属の寝室兼、餌場だ」


 ダァトは淡々と語りながら、近くに吊るされた別の肉達磨の首を機械のような手付きで断ち落とす。頭部が転がり、血の尾を引きながら止まった。


 「手間を省くには合理的だよな。劣化眷属ムロニに餌を集めさせて、テメェはベッドで食って寝るだけ。……親のノスフェラトゥの真似事ってとこか。どうでもいいけどよ」


 棺桶の傍へと歩み寄ったダァトは、蓋を靴で蹴り飛ばす。乾いた音を立てて跳ね上がった棺の中は、空だった。


 舌打ち一つ。つまらなそうに踵を返す。


 「神父様は?」


 「小賢しいねぇ。こりゃ本当に面倒な奴だ」


 「……」


 「さっさと首を刈って血杯を回収するつもりだったのによ……蓋を開けりゃ無駄働きってオチだ。神父ってのは……聖騎士軍とでも戦うつもりだったのかね?」


 意味が――と続けかけたマリアンヌの口が止まる。血飛沫の弧を描いて、彼女の頬を掠めた剣が青い目の劣化眷属ムロニを串刺しにする。


 「罠だな」


 「わ、罠……?」


 「そう。獲物を招き入れて、自分の腹を満たす、原始的で悪趣味な罠だ。……マリアンヌ」


 ダァトの笑顔の奥にある何かが、ふと、微かに軋んだ。


 「少し、暴れるぜ?」


 「え――」


 暗闇がざわめいた。血の池から無数の瞳が浮かび上がる。粘膜の膜に覆われた不気味な視線が天井から、壁から、床から少女を見下ろし、笑い出す。ギョロギョロと蠢き、ゲタゲタと笑う、獣と人の区別もつかぬ嘲笑が空間を満たした。


 『祈りの間』――あの部屋を、マリアンヌは思い出す。暗がりの中、苦しみの呻きが交錯し、血と嘆きと許しを乞う声が満ちていた、あの場所。


 彼女はロザリオを固く握り締める。恐怖の声が脳を打つ。逃げ出したい、遠ざかりたい。その感情が、胸を締め付ける。


 「悪趣味だ」


 鋼のような声が耳朶を叩き、マリアンヌは振り返る。そこには剣を抱いたダァトがいた。冷たい怒りと共に、鋼鉄のような殺意を纏っていた。


 「眷属ストリゴイイごときが調子に乗るなよ」


 誰に――殺意を向けてやがるッ!!


 突如として暗がりから襲い来るムロニたちを、ダァトは一太刀で断つ。剣の軌跡が空気を裂き、血と臓腑を撒き散らして宙を斬った。沈黙が走る。


 「茶番はいい。……出て来い、眷属。何だ? ビビってんのか? 隠れてもパパは助けちゃくれねぇぞ。出来損ないが」


 血潮が渦を巻き、ぬらりとした粘液のように蠢いた。吊るされた肉達磨が次々と噛み砕かれ、食われていく。骨を、肉を、魂を喰らい尽くしたそれが、やがてひとつの姿を形作る。


 黒の神官服を纏った男――神父が、そこに立っていた。


 「よぉ、眷属ストリゴイイ。おネンネの時間はおしまいか? 俺としちゃあ、とっとと死んでくれたほうが助かるんだけどな」


 剣を担ぎ直したダァトの声は変わらず飄々としていた。だが、そこに混じる気配は静かな殺意。怒りも、憐れみもない、ただ処刑人のもの。


 「マリアンヌ」


 「はい、神父様」


 神父――否、異形の男が静かに掌を差し出す。影が収束し、その中心から一本の杭が音もなく生まれた。無機質な黒が鋭く光を弾き、空気を裂いて少女の前へ放たれる。


 「こっちへ来なさい。その男は人の理から外れた外道です」


 影の杭が閃光のように飛ぶ――だが、その軌道は一本の剣に阻まれた。金属の音と共に杭が砕け、破片が舞う。直後、新たな杭が、空間を埋めるように浮かび上がった。


 「随分とたらふく人間を食ったようだな。えぇ?」


 一振りのうちに砕かれた甲冑の隙間から、赤い血が滲む。ダァトは面倒そうに眉を顰めると、無言でマリアンヌの肩を抱き寄せ、自身の影へと引き入れた。


 「まぁ、そんなこと、俺にはどうでもいい話だがな」


 「ダァトさん、放してください」


 「なんで?」


 「神父様が、来なさいと仰ったからです。私は……従わなくてはなりません」


 「あっそ。なら、勝手にしな」


 そう言って、彼女の背を軽く押した。迷いのない指の動きだった。ダァトは再び剣の柄を握り直し、ぐるりと部屋を囲むように浮かぶ目玉たちへと、にやりと笑いかけた。


 「来なさい、マリアンヌ。君には祭事の準備がある。神の信徒として、外道と空気を交える必要はない」


 「はい、神父様」


 「そして禁を破った罰として――祈りの間で魂を浄化しなさい。人の嘆きを聞き、悲鳴をその身に刻み、赦しを乞うのです。……よろしいですね?」


 マリアンヌの目が見開かれる。震える指先。心の底から湧き上がる、得体の知れない嫌悪感。あの部屋だけは、あの空気だけは――もう嫌だった。


 血の香り、濁った空気。悲鳴が壁に染み込んだ空間。赦しなど得られはしない、ただ痛みに満ちた部屋。思考が逃げ場を求め、意識とは別に、視線だけが一人の男――ダァトへと向けられる。


 その目は、笑っていた。


 「なぁ、神父よ」


 「何でしょう。……外道の剣士」


 「女の子が嫌がってんだ。無理やり従わせるのは、“虐待”って言うんだぜ。知ってっか?」


 「貴方には関係のないことです」


 「いや、関係大アリだ。……なにより」


 真紅の瞳が、ひときわ強く光を放つ。


 「聖人の血杯――あの中に溜まってる血は、マリアンヌのものだろう? 眷属が人間のガキを飼って生かしておく道理なんざ、一つしかない。手を出せない理由がある」


 言葉の端々に、煮詰まった怒りが滲む。だがそれを、ダァトは声に乗せず、ただ冷ややかに口元を歪めるのみだった。


 「目が慣れてきたな。……見えるぜ、アンタの周りを這ってる“理由”がよ」


 眷属たちが蠢き、劣化した肉の波と杭の雨が空を裂く。ダァトはそれらを斬り払いながら、余裕を崩さず言葉を継ぐ。


 「銀の血。聖人の卵。……あぁ、やっと繋がった。マリアンヌの中に流れてるのは、“特別な血”ってわけだ。どうりでな」


 神父の顔から笑みが消える。マリアンヌには、それが“無”へ変わるのが見えた。


 白目を覆い尽くす無数の瞳。血走り、蠢き、焦点を持たぬままマリアンヌを見据える、悪夢のような視線。肌は白すぎるほどに白く、生き物というより死人に近かった。


 神父は静かに手を伸ばすと、マリアンヌの手からロザリオを奪い取り、無慈悲に握り潰す。そして、鋭く尖った指先で彼女の首筋をなぞった。


 「……神父、様……?」


 血が流れる。銀に煌めくそれが、首元を伝って白衣を濡らし、ベールをはらりと落とした。


 白銀の髪。朝焼けのように燃える緋の瞳。まるで聖画の中から抜け出したかのような美しさが、そこにあった。だが、それは祭壇に捧げる供物の輝きでしかない。


 「口惜しいな」


 「……え?」


 「あと少しだった。満月の夜に、我は完全なる不死者ノスフェラトゥになる筈だった。……十六年の手間をかけ、女教皇の元から赤子を盗み、穢れと無垢を両立する血を育ててきたというのに」


 「なにを、言って……」


 「マリアンヌ――いや、“我が供物”よ。……予定を変更しよう。今ここで儀式を行う。その銀の血肉をすべて、我に捧げろ。不死の礎として――それが貴女の、唯一の存在理由なのだから」


 ダァトの気配が変わった。影の奥から声がした。それは嗚咽と慟哭、祈りと憎しみを孕んだ、何百もの人間の声――死に際の魂の嘆きだった。


 「不死になりたい? そのためにガキを盗んで、育てて、最後に殺す?」


 嘲り混じりの声が響く。


 「眷属、いや……不死に憧れる阿呆ってのは、なんでこう、揃いも揃って下らねぇのかねぇ」


 声が止まった瞬間、空間が静止する。粘ついた空気が一瞬、凍りついたように感じられた。


 「……貴様、何者だ」


 神父の問いが、かすかに震えていた。


 「俺か?」


 ダァトは剣を担ぎ、退屈そうに欠伸を一つ吐いた。


 「ダァト・フォルグレス。死にたがりの――」


 不死者ノスフェラトゥだよ。


 影が音もなく飛び散る。噛み千切られた叫びが、咀嚼音と共に掻き消える。次々と牙が突き立てられ、闇に棲む眷属たちが彼の体内へと取り込まれていった。


 ダァトは一歩踏み出し、剣の柄に手を置きながら口の端を吊り上げる。


 「なぁ、眷属ストリゴイイ。……テメェは、どうやって死にてぇ?」


 問いかける声に、慈悲はなかった。ただ、殺すために選ばせる


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