雨に濡れる街。
遠くからサイレンの音が響く。
暗い路地裏に、1台の黒塗りの高級車がひっそりと停められていた。
数発の銃弾が車体を貫き、助手席側の窓は無惨に砕け散っている。
車内には2人の遺体。
1人は運転席。
もう1人は後部座席──そこに崩れるようにもたれかかっていたのは、橘組組長、橘勝(たちばな・まさる)。
暗闇に濡れたスーツの胸元には、にじむような血の花が咲いていた。
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安ソファに沈んで、3本目の煙草を吸ってる。
雨音は途切れない。
⋯⋯この事務所の雨漏り、まだ直してなかったな。
本家と違って、こっちは雑だ。
でも、その雑さが妙に落ち着くのも、俺の性分か。
⋯⋯いや、今日は落ち着かなくなる気がしやがる。
なんとなくな。
ドアが開いて、若いのが顔を出す。
声に迷いがあった。
「⋯⋯カシラ」
目だけで促す。奴はひと息置いてから続けた。
「噂が出てます。親父が──白梟(はっきょう)会と、盃を交わすって」
その言葉に、体の奥が冷えた気がした。
「⋯⋯ウラ、取れてんのか?」
「⋯⋯いえ。うちの補佐と白梟の若いのが動いてるって話が、外からいくつか入ってます。あと、それを聞いた暴対も動いてるって」
そうか。
それだけで、もう十分だった。
昔からそういう人間だった。
ギリギリまで自分で背負い込んで、最後だけ「殺すなら殺せ」って顔する。
⋯⋯ずっと、それで俺らを引っ張ってきた。
あの人は、そういう人間だ。
俺が何を選ぶか、あの人は知ってる。
俺も、分かってる。
煙草を灰皿に押しつけて、立ち上がる。
ジャケットを羽織って、ドアに手をかけた。
後ろで若いのが黙って立っていた。
「⋯⋯親父は、今どこだ」
「本部に。⋯⋯一人で、です」
「そうか」
ドアを開けかけて、ひとつだけ背中で言った。
「──本当なら、俺がケジメをつける」
そう口にした時、妙に喉が乾いていた。
あの人を“親父”と呼べなくなったら──俺は、俺じゃなくなる。
その前に、聞かなきゃいけない。
本部の部屋は静かだった。
葉巻の煙が立ち込めた先に、親父はいつも通りの顔で座っていた。
その姿を見た瞬間、少しだけ期待してしまった自分がいた。
──まさか、って。
──そんなわけが、って。
でも、言葉は止められなかった。
「⋯⋯白梟会と、盃を交わすってのは⋯⋯本当なんですか」
目を逸らさずに聞いた。
それでも、どこかで「違う」と言ってくれると信じてた。
親父は煙を吐いた。
そして、いつもの調子で返してきた。
「噂ってのは便利だな。火もねぇのに、勝手に煙を上げやがる」
冗談みたいな言い回しに、心がザラついた。
⋯⋯否定は、しなかった。
「気に入らねぇなら、ここで殺せ」
目の前の男が、そう言った。
──試す時の声だ。
昔からずっとそうだった。
でも、今回は違う。
今回は──本当に、“殺さなきゃならない理由”を言っている。
「白梟会がどんな連中か、親父が一番分かってるだろ!」
堰を切ったように言葉が出た。
「OSにタタキ、粉売ってやがる外道だ!それを“裏のエリート”なんて言う奴がいる時点で終わってんだよ!」
あの人の顔は、変わらない。
だから余計に、腹が立った。
「それが極道のやることかよ!“そうはなるな”って⋯⋯あんたが誰より嫌ってた連中だろうが!」
身体が熱かった。
声が上ずってたかもしれない。
⋯⋯でも、言わずにはいられなかった。
「⋯⋯親父。カタにはめられてんじゃねぇのか?⋯⋯誰かに、押し込まれて──仕方なく、そうしてるんじゃないのか?」
最後のひと押しだった。
自分でも分かってる。
これは“問い”じゃない。“願い”だ。
俺はただ、戻ってきて欲しかった。
少しの間があって──
親父は、煙をゆっくり吐いた。
そして、たった一言だけを置いた。
「⋯⋯時代だ」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
分かった。
もう、戻らない。
この人は、もう──“あの親父”じゃない。
拳を握っても、震えるだけだった。
背中を向けて、ドアノブに手をかけた。
音を立てずに出ていくことだけが、最後の礼儀だった。
昨夜のことが頭から離れない。
親父のあの態度。
あれはマジだ。
俺はどうしたらいい⋯⋯。
すると、事務所の電話が鳴った。
誰の番号か分からないが、受話器を取った。
「──もしもし」
第一声から、言葉に湿り気のある声だった。丁寧すぎる口調が、逆に不穏だった。
「お忙しいところ失礼いたします。白梟会の金田と申します。神矢(かみや)さんでいらっしゃいますか?」
若頭補佐が直々に⋯⋯筋を通したい相手──という演出は感じ取れる。
礼儀正しい声には、妙な自信が滲んでいた。
「⋯⋯なんの用だ」
「少しだけ、お時間を頂ければと思いまして。神矢さんと──二人きりでお話ししたいことがございます」
間髪入れず、応じた。
「お前と話すことは無い。あるならこれで済ませろ」
受話器を戻そうとした、その瞬間だった。
「まぁまぁ、そこを何とか。言葉では伝わらないこともあります。面と向かって、誠実にお話させていただければ、それで十分です」
声のトーンは崩さず、押し切ってくる。
まるで、話す前から結果を読まれているような手応え。
“これは一枚も二枚も上手だ”──そんな感触が背筋を冷やす。
だが、心のどこかで思っていた。
──話してみる価値はあるかもしれない。
何か、掴めるかもしれない。
「⋯⋯場所は?」
「こちらでご用意いたします。ご都合に合わせて、お時間を──」
通話を終えたあとも、しばらく沈黙が流れていた。
指先に、受話器の感触がまだ残っている。
背中越しに声がした。
「⋯⋯カシラ?」
顔を上げると、若い衆が心配そうにこちらを見ていた。
「白梟会の金田って奴と、話してくる」
一瞬で空気が変わった。
もうひとりの若いのが、慌てたように声を上げる。
「金田?⋯⋯あいつ、かなりキレ者でヤバいって噂が⋯⋯“毒蛇”って、あだ名まで付いてますよ⋯⋯!」
「それに、あっちのシマに行くんですよね⋯⋯大丈夫っすか?」
俺は立ち上がり、ジャケットの裾を軽く払った。
そして短く、静かに言った。
「一回話を聞くだけだ。心配すんな」
事務所のドアを開けた先の空気は、やけに静かだった。
この先に何が待っているかなんて、分かるはずもないのに──一歩踏み出す足は、やけに軽かった。
──雨の匂いが残る料亭の玄関。
下足番の目が一瞬だけこちらを測るように動いた。
案内係の女が、静かに廊下を歩く。
床に沈む足音だけが耳に残る。
この空気⋯⋯好きじゃない。
襖の前で一呼吸。
それが静かに開いた。
通されたのは、奥の個室。
正座で待っていたのは、金田だ。
まだ若いが、目の奥に“色”が無い。
笑っているが、全く安心できない。
「ようこそお越しくださいました、神矢さん。改めまして、白梟会若頭補佐、金田哲成(かねだ・てつなり)と申します」
その言葉と同時に、深く頭を下げる。
──礼儀正しい。
だが、手のひらの中に“牙”を隠しているタイプだ。
「他の方とお話するときは、決まってウチがケツ持ってるキャバクラに行くんですが⋯⋯神矢さんはお好きでは無さそうでしたので」
俺は黙って座る。
この時点でもう、相手のペースだ。
金田は湯呑を置き、俺の方へ身体を向けた。
「本日は、私どもの申し出をお聞き届けいただき、誠にありがとうございます」
“完璧すぎる礼”。
それはもう、作法じゃなくて武器だ。
「⋯⋯申し出、ね」
わざと引っかかる。
金田は微笑んだまま受け止めた。
「ええ、盃を交わすということは──血を分け合うということでございます。 しかし、今の時代、儀式は“意味”より“形”を優先することもございます」
「“形”だけで済むと思ってるのか」
「いえ、とんでもない」
首を下げる動作すら計算されたような滑らかさだ。
「だからこそ、神矢さんにこうしてお時間を頂いたのです」
「──我々は、敵意を持って橘組に近づいたわけではありません。 ただ、今のこの業界において、“生き残る道”を共に選べる相手を探していた ⋯⋯それが、たまたま橘組だった。それだけのことです」
「⋯⋯“たまたま”ね」
笑うしかなかった。
「本当にそうか? 橘が死ねば、あんたらにとっては都合がいい。 ⋯⋯違うか?」
金田は笑みを崩さない。
「橘組がどうなるかは、橘組次第です。ただ──神矢さん。あなたには、もう少し広い視野を持っていただきたい」
“諭す”ような声音。
それが逆に苛立つ。
「あなたのような方が、この先の時代を生きていかれることを、私どもは本気で願っております」
毒を含んだ丁寧語。
分かってる。
こいつは“本気”で言ってる。
⋯⋯その本気が一番厄介だ。
「たとえば──」と、金田が続ける。
「橘組という名前が残ること。それを担うのが、あなたであること。我々が“敵”でなければ、これは“好機”でもあります」
「⋯⋯利用する気か」
「利用とは言いません。ただ、あなたのような方が、“正しい場所”に立たれるなら⋯⋯ それは、とても意義のあることだと思いませんか?」
俺は黙ったまま、湯呑を取った。飲むふりだけして、視線は金田から外さなかった。そして、低く抑えた声で──言葉を落とす。
「⋯⋯率直に聞くが。 ──親父を、カタにはめるつもりじゃないだろうな」
一拍の沈黙。
その間に、金田の笑みが、わずかに“揺れた”。
それでも、すぐに元の柔らかい表情に戻り──、静かに答える。
「そんな、物騒なことはしませんよ。ましてや、あの橘組組長を。そんな器用な真似、私にはできません」
その言葉に、俺は目を伏せた。
ほんの一瞬だけ、心のどこかが笑った。
──ああ、やっぱりだ。
そうだよな、金田。
お前は“直接手を下す”必要なんて、もう無い。
親父は、もう戻らない。
盃を交わしたその瞬間、すべてはお前らの筋書きの中にある。
暴れたところで、何も変わらねぇ。
一発ぶち込んだって、潰されるのはこっちだ。それに──何より。
⋯⋯あんな親父、見たくなかった。
仁義だの、筋だの、 俺たちにずっと語ってきた“あの人”が、白梟会なんぞの傘下に入るなんて。
俺は立ち上がった。
湯呑にも、手はつけなかった。
「⋯⋯分かった。話は十分聞かせてもらった」
金田が何か言おうとしたが、その前に口を開く。
「金田、これ以上は、無駄だ」
──あとは、俺がケジメをつける。
そう心の中で呟いて、 襖を開けた。