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第4話 時代(前編)

雨に濡れる街。


遠くからサイレンの音が響く。

暗い路地裏に、1台の黒塗りの高級車がひっそりと停められていた。


数発の銃弾が車体を貫き、助手席側の窓は無惨に砕け散っている。


車内には2人の遺体。


1人は運転席。

もう1人は後部座席──そこに崩れるようにもたれかかっていたのは、橘組組長、橘勝(たちばな・まさる)。


暗闇に濡れたスーツの胸元には、にじむような血の花が咲いていた。




------




安ソファに沈んで、3本目の煙草を吸ってる。


雨音は途切れない。

⋯⋯この事務所の雨漏り、まだ直してなかったな。


本家と違って、こっちは雑だ。


でも、その雑さが妙に落ち着くのも、俺の性分か。

⋯⋯いや、今日は落ち着かなくなる気がしやがる。

なんとなくな。



ドアが開いて、若いのが顔を出す。

声に迷いがあった。


「⋯⋯カシラ」


目だけで促す。奴はひと息置いてから続けた。


「噂が出てます。親父が──白梟(はっきょう)会と、盃を交わすって」


その言葉に、体の奥が冷えた気がした。


「⋯⋯ウラ、取れてんのか?」


「⋯⋯いえ。うちの補佐と白梟の若いのが動いてるって話が、外からいくつか入ってます。あと、それを聞いた暴対も動いてるって」


そうか。

それだけで、もう十分だった。


昔からそういう人間だった。

ギリギリまで自分で背負い込んで、最後だけ「殺すなら殺せ」って顔する。


⋯⋯ずっと、それで俺らを引っ張ってきた。


あの人は、そういう人間だ。


俺が何を選ぶか、あの人は知ってる。

俺も、分かってる。


煙草を灰皿に押しつけて、立ち上がる。

ジャケットを羽織って、ドアに手をかけた。



後ろで若いのが黙って立っていた。



「⋯⋯親父は、今どこだ」

「本部に。⋯⋯一人で、です」

「そうか」


ドアを開けかけて、ひとつだけ背中で言った。



「──本当なら、俺がケジメをつける」



そう口にした時、妙に喉が乾いていた。

あの人を“親父”と呼べなくなったら──俺は、俺じゃなくなる。

その前に、聞かなきゃいけない。





本部の部屋は静かだった。

葉巻の煙が立ち込めた先に、親父はいつも通りの顔で座っていた。


その姿を見た瞬間、少しだけ期待してしまった自分がいた。

──まさか、って。

──そんなわけが、って。


でも、言葉は止められなかった。



「⋯⋯白梟会と、盃を交わすってのは⋯⋯本当なんですか」


目を逸らさずに聞いた。

それでも、どこかで「違う」と言ってくれると信じてた。


親父は煙を吐いた。

そして、いつもの調子で返してきた。



「噂ってのは便利だな。火もねぇのに、勝手に煙を上げやがる」



冗談みたいな言い回しに、心がザラついた。

⋯⋯否定は、しなかった。



「気に入らねぇなら、ここで殺せ」



目の前の男が、そう言った。


──試す時の声だ。

昔からずっとそうだった。

でも、今回は違う。

今回は──本当に、“殺さなきゃならない理由”を言っている。


「白梟会がどんな連中か、親父が一番分かってるだろ!」


堰を切ったように言葉が出た。


「OSにタタキ、粉売ってやがる外道だ!それを“裏のエリート”なんて言う奴がいる時点で終わってんだよ!」


あの人の顔は、変わらない。

だから余計に、腹が立った。


「それが極道のやることかよ!“そうはなるな”って⋯⋯あんたが誰より嫌ってた連中だろうが!」


身体が熱かった。

声が上ずってたかもしれない。


⋯⋯でも、言わずにはいられなかった。


「⋯⋯親父。カタにはめられてんじゃねぇのか?⋯⋯誰かに、押し込まれて──仕方なく、そうしてるんじゃないのか?」



最後のひと押しだった。

自分でも分かってる。

これは“問い”じゃない。“願い”だ。



俺はただ、戻ってきて欲しかった。



少しの間があって──



親父は、煙をゆっくり吐いた。

そして、たった一言だけを置いた。



「⋯⋯時代だ」



その言葉に、俺は何も返せなかった。


分かった。

もう、戻らない。

この人は、もう──“あの親父”じゃない。


拳を握っても、震えるだけだった。


背中を向けて、ドアノブに手をかけた。

音を立てずに出ていくことだけが、最後の礼儀だった。







昨夜のことが頭から離れない。

親父のあの態度。

あれはマジだ。

俺はどうしたらいい⋯⋯。


すると、事務所の電話が鳴った。

誰の番号か分からないが、受話器を取った。


「──もしもし」


第一声から、言葉に湿り気のある声だった。丁寧すぎる口調が、逆に不穏だった。


「お忙しいところ失礼いたします。白梟会の金田と申します。神矢(かみや)さんでいらっしゃいますか?」


若頭補佐が直々に⋯⋯筋を通したい相手──という演出は感じ取れる。

礼儀正しい声には、妙な自信が滲んでいた。


「⋯⋯なんの用だ」


「少しだけ、お時間を頂ければと思いまして。神矢さんと──二人きりでお話ししたいことがございます」


間髪入れず、応じた。


「お前と話すことは無い。あるならこれで済ませろ」


受話器を戻そうとした、その瞬間だった。


「まぁまぁ、そこを何とか。言葉では伝わらないこともあります。面と向かって、誠実にお話させていただければ、それで十分です」


声のトーンは崩さず、押し切ってくる。

まるで、話す前から結果を読まれているような手応え。


“これは一枚も二枚も上手だ”──そんな感触が背筋を冷やす。

だが、心のどこかで思っていた。


──話してみる価値はあるかもしれない。

何か、掴めるかもしれない。


「⋯⋯場所は?」


「こちらでご用意いたします。ご都合に合わせて、お時間を──」


通話を終えたあとも、しばらく沈黙が流れていた。

指先に、受話器の感触がまだ残っている。



背中越しに声がした。


「⋯⋯カシラ?」


顔を上げると、若い衆が心配そうにこちらを見ていた。


「白梟会の金田って奴と、話してくる」


一瞬で空気が変わった。


もうひとりの若いのが、慌てたように声を上げる。


「金田?⋯⋯あいつ、かなりキレ者でヤバいって噂が⋯⋯“毒蛇”って、あだ名まで付いてますよ⋯⋯!」


「それに、あっちのシマに行くんですよね⋯⋯大丈夫っすか?」


俺は立ち上がり、ジャケットの裾を軽く払った。

そして短く、静かに言った。


「一回話を聞くだけだ。心配すんな」


事務所のドアを開けた先の空気は、やけに静かだった。


この先に何が待っているかなんて、分かるはずもないのに──一歩踏み出す足は、やけに軽かった。






──雨の匂いが残る料亭の玄関。


下足番の目が一瞬だけこちらを測るように動いた。

案内係の女が、静かに廊下を歩く。

床に沈む足音だけが耳に残る。



この空気⋯⋯好きじゃない。



襖の前で一呼吸。

それが静かに開いた。


通されたのは、奥の個室。

正座で待っていたのは、金田だ。


まだ若いが、目の奥に“色”が無い。

笑っているが、全く安心できない。


「ようこそお越しくださいました、神矢さん。改めまして、白梟会若頭補佐、金田哲成(かねだ・てつなり)と申します」


その言葉と同時に、深く頭を下げる。


──礼儀正しい。

だが、手のひらの中に“牙”を隠しているタイプだ。


「他の方とお話するときは、決まってウチがケツ持ってるキャバクラに行くんですが⋯⋯神矢さんはお好きでは無さそうでしたので」


俺は黙って座る。

この時点でもう、相手のペースだ。


金田は湯呑を置き、俺の方へ身体を向けた。


「本日は、私どもの申し出をお聞き届けいただき、誠にありがとうございます」


“完璧すぎる礼”。

それはもう、作法じゃなくて武器だ。


「⋯⋯申し出、ね」


わざと引っかかる。

金田は微笑んだまま受け止めた。


「ええ、盃を交わすということは──血を分け合うということでございます。 しかし、今の時代、儀式は“意味”より“形”を優先することもございます」


「“形”だけで済むと思ってるのか」


「いえ、とんでもない」

首を下げる動作すら計算されたような滑らかさだ。


「だからこそ、神矢さんにこうしてお時間を頂いたのです」


「──我々は、敵意を持って橘組に近づいたわけではありません。 ただ、今のこの業界において、“生き残る道”を共に選べる相手を探していた ⋯⋯それが、たまたま橘組だった。それだけのことです」


「⋯⋯“たまたま”ね」

笑うしかなかった。


「本当にそうか? 橘が死ねば、あんたらにとっては都合がいい。 ⋯⋯違うか?」


金田は笑みを崩さない。

「橘組がどうなるかは、橘組次第です。ただ──神矢さん。あなたには、もう少し広い視野を持っていただきたい」


“諭す”ような声音。

それが逆に苛立つ。


「あなたのような方が、この先の時代を生きていかれることを、私どもは本気で願っております」


毒を含んだ丁寧語。

分かってる。

こいつは“本気”で言ってる。

⋯⋯その本気が一番厄介だ。


「たとえば──」と、金田が続ける。


「橘組という名前が残ること。それを担うのが、あなたであること。我々が“敵”でなければ、これは“好機”でもあります」


「⋯⋯利用する気か」


「利用とは言いません。ただ、あなたのような方が、“正しい場所”に立たれるなら⋯⋯ それは、とても意義のあることだと思いませんか?」


俺は黙ったまま、湯呑を取った。飲むふりだけして、視線は金田から外さなかった。そして、低く抑えた声で──言葉を落とす。


「⋯⋯率直に聞くが。 ──親父を、カタにはめるつもりじゃないだろうな」


一拍の沈黙。


その間に、金田の笑みが、わずかに“揺れた”。

それでも、すぐに元の柔らかい表情に戻り──、静かに答える。


「そんな、物騒なことはしませんよ。ましてや、あの橘組組長を。そんな器用な真似、私にはできません」


その言葉に、俺は目を伏せた。

ほんの一瞬だけ、心のどこかが笑った。


──ああ、やっぱりだ。

そうだよな、金田。

お前は“直接手を下す”必要なんて、もう無い。


親父は、もう戻らない。

盃を交わしたその瞬間、すべてはお前らの筋書きの中にある。


暴れたところで、何も変わらねぇ。

一発ぶち込んだって、潰されるのはこっちだ。それに──何より。



⋯⋯あんな親父、見たくなかった。



仁義だの、筋だの、 俺たちにずっと語ってきた“あの人”が、白梟会なんぞの傘下に入るなんて。


俺は立ち上がった。

湯呑にも、手はつけなかった。


「⋯⋯分かった。話は十分聞かせてもらった」


金田が何か言おうとしたが、その前に口を開く。


「金田、これ以上は、無駄だ」


──あとは、俺がケジメをつける。

そう心の中で呟いて、 襖を開けた。





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