翌日の夜、再び本部の扉を開けた。
足を踏み入れた瞬間、テレビの音が耳に飛び込んできた。
「おぉ⋯⋯堂島がまたホームランだ。今シーズンは調子いいな」
親父の声だった。
背を向けたまま、画面の中の打者を見つめている。
「若いってのはいいな。根性がある奴は、やっぱり這い上がってくる」
俺は、黙って一歩、足を進めた。
「⋯⋯親父、最後に聞かせてくれ。本当に、白梟会と盃を交わすのか」
その背中が動いた。
振り返らないまま、親父は言った。
「⋯⋯最後?」
俺は息を呑んだ。
その声色に、迷いはなかった。
だけど、どこか⋯⋯寂しさのようなものも滲んでいた気がした。
「⋯⋯親父、俺は──」
「やめとけ」
親父がかぶせるように言った。
「言葉なんて、余計なもんだ。やるか、やらねぇか。お前は昔から、そうだった」
振り返ったその顔に、もう“あの頃の親父”はいなかった。
──あの目に、俺は育てられた。
でも今は、俺を試す目じゃない。
俺を、突き放す目だった。
それでも──まだ、少しだけ縋りたくて。
「白梟会の金田に会った」
親父はこちらに身体を向けた。
「奴らは親父をカタにはめようとしてる。間違いない。なぁ親父、それでも盃交わすのかよ!」
俺は感情的になって、親父の胸ぐらを掴んだ。
「⋯⋯お前はどうするつもりだ?」
凄んだ親父の威圧感に押されそうになったが、無意識に言葉が出た。
「何も変わらねぇなら⋯⋯俺は親父を殺す」
「そうか⋯⋯じゃあ殺してみろ」
親父は表情ひとつ変えず言い放った。
掴んでいた胸ぐらの力が、徐々に抜けていった。拳を握る手が、震えていた。
──なんでだよ。
なんでそんな顔で言えるんだよ。
俺は、親父の目を見ていられなかった。
「⋯⋯クソが」
呟くように吐いて、手を離した。
背を向けて歩き出す。
もう一度振り返ったら──きっと、殺せなくなる。
「慶太(けいた)⋯⋯」
背中越しに、親父が呼んだ。
「お前は⋯⋯どこへでも行ける。だが、ここにいる限り、お前は俺の“若頭”だ」
俺は、返さなかった。ただ足を止めずに、部屋を後にした。
外に出ると、雨は止んでいた。
その代わり、風が強くなっていた。
ビルの隙間を縫うように吹き抜けて、背広の裾をはためかせる。
歩きながら、煙草に火を点ける。
火が揺れて、うまく着かない。
「チッ、クソが」
仕方なくポケットにしまって、空を仰いだ。
──見上げた空は、ただただ灰色だった。
そのとき──視界の端で、何かが揺れた。
ビルの壁に貼られた、今にも剥がれそうな一枚のチラシ。
足が止まった。
なんとなく──そう、“なんとなく”──手を伸ばして、それを剥がした。
「あなたの記憶、喰います」
黒いマジックで走り書きされた文字。
いたずらか、占いか──その程度の軽いノリに見えた。
だが──何の気なしにめくり、裏面を見た瞬間。
「目が合いましたね」
どこからともなく声が聞こえて──ゾクリ、とした。
風が、急に冷たくなったような気がした。
いや、気のせいじゃない。
周囲の空気が、さっきまでと違っている。
瞬きの間に、背後の喧騒が消えた。
視界が灰色に染まり、足元の地面が“音”を失った。
気づくと、目の前に──見たこともない“男”が立っていた。
笑っていた。
どこか、間の抜けたような顔で。
けれど、その瞳は一切笑っていなかった。
「久しぶりのお客さんだ〜」
「誰だてめぇは」
俺の声は思った以上に冷静だった。
だが、相手はまったく動じない。
むしろ、楽しげに肩をすくめた。
「僕ですか?ん〜⋯⋯この世界だと“貘”って呼ばれてます」
「ばく⋯⋯?」
「字で書くと“貘”ですね。記憶を喰う、って意味で。あ、でも漢字はどうでもいいか」
こいつは、ヤバい。
シャブでも食ったんだろうか。
「⋯⋯組の人間か?」
「う〜ん、そういうのじゃないですねぇ。組も会社も、肩書きも⋯⋯あ、鬼畜美食家って肩書きでやってます。あ〜、やっと使う機会が来たなぁ⋯⋯強いて言えば“ご依頼人”の味方ですかね〜」
「依頼人⋯⋯?」
「はい。あなたですよ、神矢慶太さん」
奴はニッと笑った。
口調だけは終始柔らかい。
「どうして俺の名前を⋯⋯俺が、いつそんな依頼した」
「ふふっ、あれ?紙、持ってますよね?」
奴は顎で、俺の右手を指した。
見れば、まだ俺はチラシを握っていた。
「“記憶を喰ってください”って、これは立派な依頼のサインです」
「勝手に決めてんじゃねぇぞ」
「いえいえ、これでもルールはあるんです。目が合う、手に取る、裏を見る──3コンボ決まったら、成立なんですよ」
⋯⋯どうする?
サツの世話になる訳にはいかねぇし、チャカ使うなんて以ての外だ⋯⋯
「さぁ、どの記憶を喰いますか?」
「⋯⋯記憶を喰うってどういうことだ?」
「そのまんまの意味ですよ。記憶をパクッと喰うんです」
こいつは何言ってんだ?
そんな都合のいいことある訳ねぇだろ。
「う〜ん、信じてもらえないようなので、取りかかりますね」
なっ、いつの間に間合いに⋯⋯
俺の額に手を翳すと、周りは闇に染まった。
視界が──暗い。
音もない。
まるで自分の内側に沈んでいくみたいだ。
「これは、“記憶の入り口”です」
奴の声だけが、耳元で響いた。
どこにも姿は見えない。
「こうなってしまったら拒否出来ません⋯⋯あっ、最初からか」
「⋯⋯チッ、勝手にしろ」
すると、景色が──浮かび上がった。
夜の街、雨の匂い。
事務所の安ソファ。
灰皿の上で、火が消えかけた煙草。
そして、親父の背中。
橘勝。
あの人の記憶。
「さぁ、どの記憶を喰いましょうか?」
⋯⋯これで本当に記憶が消せるなんて思っちゃいねぇ。
正直親父を殺るなんて⋯⋯俺には出来ねぇ。
でも⋯⋯でも⋯⋯親父は親父のままでいて欲しい⋯⋯。
「俺の親父⋯⋯橘勝の顔を喰ってくれ」
「ピンポイントな依頼もあるんだねぇ。分かったよ。いただきます⋯⋯」
──最初の出会い
スリだった。いや、正確には、スリ未遂。
財布を抜こうとした瞬間、気づかれた。
相手は酔ってたが、声は大きかった。
「おいガキ!この野郎!!」
商店街の通りが、一瞬でざわついた。
「チッ⋯⋯!」
走った。
制服のシャツの裾が風でバタついて、 後ろから怒号と足音が追いかけてくる。
(このまま捕まれば、いよいよ年少か)
逃げ場なんて、最初からなかった。
追い込まれた路地裏。
もう無理だと思ったときだった。
──バッ、と横から腕を引かれた。
驚く間もなかった。
強引に引きずりこまれたのは、使われていないような倉庫の中。
「⋯⋯なぁ、坊主。そんなんじゃ先がねぇぞ」
振り返ると、スーツ姿の男がいた。
眉間に皺を寄せ、咥え煙草のまま俺を見下ろしている。
怖い、と思った。
けど、怒ってはいなかった。
「⋯⋯誰だよ、あんた」
「橘。⋯⋯まぁ、そのうち覚えることになる名前さ」
外で足音が行き過ぎていく。
男──橘は、煙を吐きながら呟いた。
「運がよかったな。だが次は、誰も手ぇ出してくれねぇぞ」
その夜、俺は初めて“親父”に出会った。
──中学卒業して組に入った日
卒業式の日、誰よりも早く制服を脱いだ。
ボタンを外す手が、やけに落ち着いていたのを覚えてる。
「俺は、今日から“こっち側”の人間だ」
その足で事務所に向かった。
親父は、変わらぬ顔で言った。
「慶太⋯⋯もう後戻りは出来ねぇぞ」
「分かってます」
その一言に、嘘はなかった。
⋯⋯あのときだけは、何も迷ってなかった。
──みんなで楽しく飯を食った日
本家での会合の後、珍しく親父が声をかけてきた。
「たまには、若いもんだけで飯でも行ってこい」
焼き肉屋の座敷に、煙と笑い声が充満していた。
「おい、神矢!米ばっか食ってんじゃねぇよ、肉焼け!」
「バカ、お前焦げてんじゃねぇか、こっち寄越せ!」
何でもない夜だった。
けど、あの時間は確かに“仲間”だった。
俺たちは、ただ笑ってた。
⋯⋯誰一人、死ぬなんて思ってなかった。
──抗争で初めて人を殺した日
火薬の匂いが、鼻について離れなかった。
夜の川沿い、濡れたスニーカーの中で、足が震えていた。
「カシラ⋯⋯俺⋯⋯人を⋯⋯」
「⋯⋯慶太、もう大丈夫だ。お前はやるべきことをやった」
親父が、そう言って背中を叩いてくれた。
「ビビらねぇ奴は、最初から終わってる」
その夜、俺は“線”を越えた。
そして、親父はそれを黙って受け止めてくれた。
俺がこの世界に入って泣いたのはこのときだけだ。
──シャバに戻って親父が直々に来てくれた日
何年かぶりに、鉄の扉の外に出た。
誰も来てねぇだろ、と思ってた。
迎えが来るとも思ってなかった。
でも──門の前に、黒のセダン。
運転席のドアが開いて──降りてきたのは、親父だった。
「慶太、ご苦労さん」
それだけ言って、後部座席を開けた。
後で知ったが、親父が自ら迎えに来たのは、初めてのことだった。
「すまなかったな⋯⋯お前を行かせちまって」
「いえ、俺のケジメです」
目を合わすと、親父はふっと笑って──
「なら、よし」って、それだけ言った。
その日だけは、親父の背中がやけに大きく見えた。
──親父が組長になった日
会合のあと、組長の座が引き継がれた。
親父はその日、新しい背広を着ていた。
似合ってなかった。
でも、やけに誇らしげだった。
「⋯⋯今日から、お前らの“頭”はこの俺だ」
声が少しだけ震えていたのは、きっと俺だけが気づいた。
(この人を、俺が支える)その時、心から思った。
──将来の夢を語り合った日
酔った勢いで、深夜の事務所の屋上。
「親父、夢とかあんのか?」
「⋯⋯夢?」
「例えば、でっけぇ城でも建てて、みんなで住むとか」
親父は笑った。
「慶太、極道がそんなガキみたいな夢語っていいのか?」
「いーじゃねぇか、夢くらい」
親父は煙を吐いて、少しだけ遠くを見た。
「⋯⋯戦争のない時代で、家族連れて堂々と歩ける街。それが俺の夢だった」
「⋯⋯かっけぇじゃん」
「バカ」
ふたりで笑った。
⋯⋯あの夜だけは、本当に“親子”だった気がする。
ひとつずつ、消えていく。
あの顔も、この顔も。
楽しかったあの日、辛かった日、嬉しかった日⋯⋯全部あんたがいたなぁ⋯⋯。
あぁ、あんたの顔、忘れちまった⋯⋯。
「⋯⋯ごちそうさまでした」
そう言い残して奴は消えた。
指を鳴らしたような音のあと、気づけばさっきの路地にいた。
俺は───視界がぼやけていた。
⋯⋯泣いてるのか?
何でだ?
何があった?
⋯⋯そんなことはどうでもいい。
俺は、橘勝を、殺す。
俺は本部に向かった。
白梟会との盃は交わさせない。
俺は極道だ。
カタギに手ぇ出すような奴らと組む気なんか無ぇ。
橘勝。
お前は道を踏み外した。
お前は───親父でも何でも無ぇ。
ただの外道だ。
俺は1人で、チャカを手に本家にカチ込んだ。
「おい橘ぁ!出て来いコラァ!!」
「うるせぇぞコラァ!⋯⋯慶太?何しに来た?」
最初の威勢は何処に行きやがった?
俺の名前なんて呼びやがって。
「橘。お前を殺しに来た。白梟会との盃は交わさせねぇ。てめぇは何しようとしてんのか、分かってんのかコラァ!」
「⋯⋯あぁ、分かってるよ」
あ?何でそんな悲しそうな顔をする?
「慶太、このご時世、ヤクザは肩身が狭い。俺は正直解散しようと思った。でも頭の悪い奴らばっかりの集まりだ。そんなことしたら路頭に迷っちまう」
「おい、綺麗事抜かすなよ。それが盃交わす理由になるか?」
「⋯⋯ならねぇな。橘の家紋、消したくねぇんだよ。俺だけじゃねぇ、皆で支えてきたこの家紋をよ」
「白梟会の傘下に入ったらそんなもん無くなる⋯⋯それでもか?」
「慶太⋯⋯お前に託そうと思ってた。お前ならそうなっても、歯食いしばってでも守ってくれると思った」
「⋯⋯」
言葉にならなかった。
喉の奥から笑いのような、吐き気のような何かがこみ上げてきた。
「託すだと?お前が何を捨てたか分かって言ってんのか⋯⋯?極道としての仁義だろうが!ケジメだろうが!全部⋯⋯全部、見てきたんだぞ、俺は!」
拳が震えていた。
でも、声だけは潰れないように押し殺した。
「なぁ、親父──」
その言葉に、橘がわずかに顔を上げた。
「最後に、ひとつだけ答えてくれ」
「お前が俺の知ってる親父なら⋯⋯あのとき、倉庫で俺をかばってくれたあんたは⋯⋯どこに行っちまったんだよ」
ほんの一瞬だけ、橘の表情が揺れた。
「⋯⋯さぁな」
──あぁ、終わった。
「じゃあ、死ね」
チャカの銃口を向ける。
引き金を引く瞬間──何も見えなかった。
ただ、煙の中に揺れる“家紋”だけが、視界の隅に残った。
⋯⋯天井が見える。
そういや、ここの天井なんてちゃんと見たことなんて無かったな。
⋯⋯腹が痛ぇ。
誰だ撃ちやがったのは⋯⋯。
「あ⋯⋯あ⋯⋯」
⋯⋯そりゃそうだ、組長が殺されそうなんだ、三下はビビって撃つよな⋯⋯。
俺、何で撃てなかった?
手が震えてた。
「慶太、慶太!」
「⋯⋯うるせぇな。何だよ⋯⋯」
「お前、何でこんなことを⋯⋯」
「⋯⋯知らねぇふりすんじゃねぇよ⋯⋯仁義を貫く⋯⋯生き様⋯⋯見せてきたのは親父だ⋯⋯でもてめぇじゃねぇ⋯⋯」
「許せねぇんだよ⋯⋯何でも時代で⋯⋯誤魔化しやがって⋯⋯」
血の混じった唾が、口の端からこぼれる。
視界が霞む。
もう、何がどこにあるかもわからない。
「⋯⋯何が、極道だ⋯⋯」
視界の端で、組の連中が駆け寄ってきた。
橘も何かを叫んでる。
でももう、声なんか聞こえなかった。
屋上のあの日が、浮かぶ。
煙草を吹かしながら、夢を語っていた、あの夜。
『バカ』そう言って笑った声。
⋯⋯そういや、記憶の声と橘の声が似てたなぁ。
俺の親父か?んな訳ねぇか⋯⋯
「⋯⋯なぁ、あんた、誰なん⋯⋯だ?」
神矢慶太は死んだ。
仁義を信じた男の生き様が、この夜、終わった。
⋯⋯そして、その“結末”を、屋上の影から見下ろす者がいた。
「⋯⋯ふーん、そうなるんだ」
貘は何の感情も見せず、ただそう呟いた。