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第4話 時代(後編)

翌日の夜、再び本部の扉を開けた。

足を踏み入れた瞬間、テレビの音が耳に飛び込んできた。


「おぉ⋯⋯堂島がまたホームランだ。今シーズンは調子いいな」


親父の声だった。

背を向けたまま、画面の中の打者を見つめている。


「若いってのはいいな。根性がある奴は、やっぱり這い上がってくる」


俺は、黙って一歩、足を進めた。



「⋯⋯親父、最後に聞かせてくれ。本当に、白梟会と盃を交わすのか」


その背中が動いた。

振り返らないまま、親父は言った。


「⋯⋯最後?」


俺は息を呑んだ。


その声色に、迷いはなかった。

だけど、どこか⋯⋯寂しさのようなものも滲んでいた気がした。



「⋯⋯親父、俺は──」


「やめとけ」


親父がかぶせるように言った。

「言葉なんて、余計なもんだ。やるか、やらねぇか。お前は昔から、そうだった」


振り返ったその顔に、もう“あの頃の親父”はいなかった。


──あの目に、俺は育てられた。

でも今は、俺を試す目じゃない。

俺を、突き放す目だった。


それでも──まだ、少しだけ縋りたくて。



「白梟会の金田に会った」



親父はこちらに身体を向けた。


「奴らは親父をカタにはめようとしてる。間違いない。なぁ親父、それでも盃交わすのかよ!」


俺は感情的になって、親父の胸ぐらを掴んだ。


「⋯⋯お前はどうするつもりだ?」


凄んだ親父の威圧感に押されそうになったが、無意識に言葉が出た。


「何も変わらねぇなら⋯⋯俺は親父を殺す」


「そうか⋯⋯じゃあ殺してみろ」


親父は表情ひとつ変えず言い放った。


掴んでいた胸ぐらの力が、徐々に抜けていった。拳を握る手が、震えていた。


──なんでだよ。

なんでそんな顔で言えるんだよ。

俺は、親父の目を見ていられなかった。



「⋯⋯クソが」



呟くように吐いて、手を離した。

背を向けて歩き出す。

もう一度振り返ったら──きっと、殺せなくなる。


「慶太(けいた)⋯⋯」


背中越しに、親父が呼んだ。


「お前は⋯⋯どこへでも行ける。だが、ここにいる限り、お前は俺の“若頭”だ」


俺は、返さなかった。ただ足を止めずに、部屋を後にした。




外に出ると、雨は止んでいた。

その代わり、風が強くなっていた。

ビルの隙間を縫うように吹き抜けて、背広の裾をはためかせる。


歩きながら、煙草に火を点ける。

火が揺れて、うまく着かない。


「チッ、クソが」


仕方なくポケットにしまって、空を仰いだ。


──見上げた空は、ただただ灰色だった。




そのとき──視界の端で、何かが揺れた。




ビルの壁に貼られた、今にも剥がれそうな一枚のチラシ。

足が止まった。



なんとなく──そう、“なんとなく”──手を伸ばして、それを剥がした。




「あなたの記憶、喰います」




黒いマジックで走り書きされた文字。

いたずらか、占いか──その程度の軽いノリに見えた。


だが──何の気なしにめくり、裏面を見た瞬間。





「目が合いましたね」





どこからともなく声が聞こえて──ゾクリ、とした。


風が、急に冷たくなったような気がした。

いや、気のせいじゃない。

周囲の空気が、さっきまでと違っている。


瞬きの間に、背後の喧騒が消えた。

視界が灰色に染まり、足元の地面が“音”を失った。


気づくと、目の前に──見たこともない“男”が立っていた。



笑っていた。

どこか、間の抜けたような顔で。

けれど、その瞳は一切笑っていなかった。



「久しぶりのお客さんだ〜」


「誰だてめぇは」



俺の声は思った以上に冷静だった。

だが、相手はまったく動じない。

むしろ、楽しげに肩をすくめた。



「僕ですか?ん〜⋯⋯この世界だと“貘”って呼ばれてます」


「ばく⋯⋯?」


「字で書くと“貘”ですね。記憶を喰う、って意味で。あ、でも漢字はどうでもいいか」


こいつは、ヤバい。

シャブでも食ったんだろうか。


「⋯⋯組の人間か?」


「う〜ん、そういうのじゃないですねぇ。組も会社も、肩書きも⋯⋯あ、鬼畜美食家って肩書きでやってます。あ〜、やっと使う機会が来たなぁ⋯⋯強いて言えば“ご依頼人”の味方ですかね〜」



「依頼人⋯⋯?」




「はい。あなたですよ、神矢慶太さん」

奴はニッと笑った。

口調だけは終始柔らかい。


「どうして俺の名前を⋯⋯俺が、いつそんな依頼した」


「ふふっ、あれ?紙、持ってますよね?」


奴は顎で、俺の右手を指した。

見れば、まだ俺はチラシを握っていた。


「“記憶を喰ってください”って、これは立派な依頼のサインです」


「勝手に決めてんじゃねぇぞ」


「いえいえ、これでもルールはあるんです。目が合う、手に取る、裏を見る──3コンボ決まったら、成立なんですよ」


⋯⋯どうする?

サツの世話になる訳にはいかねぇし、チャカ使うなんて以ての外だ⋯⋯


「さぁ、どの記憶を喰いますか?」


「⋯⋯記憶を喰うってどういうことだ?」


「そのまんまの意味ですよ。記憶をパクッと喰うんです」


こいつは何言ってんだ?

そんな都合のいいことある訳ねぇだろ。


「う〜ん、信じてもらえないようなので、取りかかりますね」



なっ、いつの間に間合いに⋯⋯



俺の額に手を翳すと、周りは闇に染まった。


視界が──暗い。

音もない。

まるで自分の内側に沈んでいくみたいだ。


「これは、“記憶の入り口”です」


奴の声だけが、耳元で響いた。

どこにも姿は見えない。


「こうなってしまったら拒否出来ません⋯⋯あっ、最初からか」


「⋯⋯チッ、勝手にしろ」


すると、景色が──浮かび上がった。


夜の街、雨の匂い。

事務所の安ソファ。

灰皿の上で、火が消えかけた煙草。

そして、親父の背中。



橘勝。



あの人の記憶。


「さぁ、どの記憶を喰いましょうか?」


⋯⋯これで本当に記憶が消せるなんて思っちゃいねぇ。


正直親父を殺るなんて⋯⋯俺には出来ねぇ。


でも⋯⋯でも⋯⋯親父は親父のままでいて欲しい⋯⋯。


「俺の親父⋯⋯橘勝の顔を喰ってくれ」


「ピンポイントな依頼もあるんだねぇ。分かったよ。いただきます⋯⋯」





──最初の出会い


スリだった。いや、正確には、スリ未遂。


財布を抜こうとした瞬間、気づかれた。

相手は酔ってたが、声は大きかった。


「おいガキ!この野郎!!」


商店街の通りが、一瞬でざわついた。


「チッ⋯⋯!」


走った。

制服のシャツの裾が風でバタついて、 後ろから怒号と足音が追いかけてくる。


(このまま捕まれば、いよいよ年少か)


逃げ場なんて、最初からなかった。

追い込まれた路地裏。

もう無理だと思ったときだった。


──バッ、と横から腕を引かれた。


驚く間もなかった。

強引に引きずりこまれたのは、使われていないような倉庫の中。


「⋯⋯なぁ、坊主。そんなんじゃ先がねぇぞ」


振り返ると、スーツ姿の男がいた。

眉間に皺を寄せ、咥え煙草のまま俺を見下ろしている。

怖い、と思った。

けど、怒ってはいなかった。


「⋯⋯誰だよ、あんた」


「橘。⋯⋯まぁ、そのうち覚えることになる名前さ」


外で足音が行き過ぎていく。

男──橘は、煙を吐きながら呟いた。


「運がよかったな。だが次は、誰も手ぇ出してくれねぇぞ」


その夜、俺は初めて“親父”に出会った。




──中学卒業して組に入った日


卒業式の日、誰よりも早く制服を脱いだ。

ボタンを外す手が、やけに落ち着いていたのを覚えてる。


「俺は、今日から“こっち側”の人間だ」


その足で事務所に向かった。

親父は、変わらぬ顔で言った。


「慶太⋯⋯もう後戻りは出来ねぇぞ」


「分かってます」


その一言に、嘘はなかった。

⋯⋯あのときだけは、何も迷ってなかった。




──みんなで楽しく飯を食った日


本家での会合の後、珍しく親父が声をかけてきた。

「たまには、若いもんだけで飯でも行ってこい」


焼き肉屋の座敷に、煙と笑い声が充満していた。


「おい、神矢!米ばっか食ってんじゃねぇよ、肉焼け!」


「バカ、お前焦げてんじゃねぇか、こっち寄越せ!」


何でもない夜だった。

けど、あの時間は確かに“仲間”だった。

俺たちは、ただ笑ってた。

⋯⋯誰一人、死ぬなんて思ってなかった。




──抗争で初めて人を殺した日


火薬の匂いが、鼻について離れなかった。

夜の川沿い、濡れたスニーカーの中で、足が震えていた。


「カシラ⋯⋯俺⋯⋯人を⋯⋯」


「⋯⋯慶太、もう大丈夫だ。お前はやるべきことをやった」


親父が、そう言って背中を叩いてくれた。


「ビビらねぇ奴は、最初から終わってる」


その夜、俺は“線”を越えた。

そして、親父はそれを黙って受け止めてくれた。

俺がこの世界に入って泣いたのはこのときだけだ。




──シャバに戻って親父が直々に来てくれた日


何年かぶりに、鉄の扉の外に出た。

誰も来てねぇだろ、と思ってた。

迎えが来るとも思ってなかった。


でも──門の前に、黒のセダン。

運転席のドアが開いて──降りてきたのは、親父だった。



「慶太、ご苦労さん」



それだけ言って、後部座席を開けた。

後で知ったが、親父が自ら迎えに来たのは、初めてのことだった。


「すまなかったな⋯⋯お前を行かせちまって」


「いえ、俺のケジメです」


目を合わすと、親父はふっと笑って──

「なら、よし」って、それだけ言った。


その日だけは、親父の背中がやけに大きく見えた。




──親父が組長になった日


会合のあと、組長の座が引き継がれた。

親父はその日、新しい背広を着ていた。

似合ってなかった。

でも、やけに誇らしげだった。


「⋯⋯今日から、お前らの“頭”はこの俺だ」


声が少しだけ震えていたのは、きっと俺だけが気づいた。 


(この人を、俺が支える)その時、心から思った。




──将来の夢を語り合った日


酔った勢いで、深夜の事務所の屋上。


「親父、夢とかあんのか?」


「⋯⋯夢?」


「例えば、でっけぇ城でも建てて、みんなで住むとか」


親父は笑った。

「慶太、極道がそんなガキみたいな夢語っていいのか?」


「いーじゃねぇか、夢くらい」


親父は煙を吐いて、少しだけ遠くを見た。


「⋯⋯戦争のない時代で、家族連れて堂々と歩ける街。それが俺の夢だった」


「⋯⋯かっけぇじゃん」


「バカ」


ふたりで笑った。

⋯⋯あの夜だけは、本当に“親子”だった気がする。



ひとつずつ、消えていく。

あの顔も、この顔も。

楽しかったあの日、辛かった日、嬉しかった日⋯⋯全部あんたがいたなぁ⋯⋯。



あぁ、あんたの顔、忘れちまった⋯⋯。




「⋯⋯ごちそうさまでした」




そう言い残して奴は消えた。

指を鳴らしたような音のあと、気づけばさっきの路地にいた。


俺は───視界がぼやけていた。

⋯⋯泣いてるのか?

何でだ?

何があった?



⋯⋯そんなことはどうでもいい。

俺は、橘勝を、殺す。




俺は本部に向かった。

白梟会との盃は交わさせない。

俺は極道だ。

カタギに手ぇ出すような奴らと組む気なんか無ぇ。

橘勝。

お前は道を踏み外した。

お前は───親父でも何でも無ぇ。

ただの外道だ。



俺は1人で、チャカを手に本家にカチ込んだ。



「おい橘ぁ!出て来いコラァ!!」


「うるせぇぞコラァ!⋯⋯慶太?何しに来た?」


最初の威勢は何処に行きやがった?

俺の名前なんて呼びやがって。


「橘。お前を殺しに来た。白梟会との盃は交わさせねぇ。てめぇは何しようとしてんのか、分かってんのかコラァ!」


「⋯⋯あぁ、分かってるよ」


あ?何でそんな悲しそうな顔をする?


「慶太、このご時世、ヤクザは肩身が狭い。俺は正直解散しようと思った。でも頭の悪い奴らばっかりの集まりだ。そんなことしたら路頭に迷っちまう」


「おい、綺麗事抜かすなよ。それが盃交わす理由になるか?」


「⋯⋯ならねぇな。橘の家紋、消したくねぇんだよ。俺だけじゃねぇ、皆で支えてきたこの家紋をよ」


「白梟会の傘下に入ったらそんなもん無くなる⋯⋯それでもか?」


「慶太⋯⋯お前に託そうと思ってた。お前ならそうなっても、歯食いしばってでも守ってくれると思った」


「⋯⋯」


言葉にならなかった。

喉の奥から笑いのような、吐き気のような何かがこみ上げてきた。


「託すだと?お前が何を捨てたか分かって言ってんのか⋯⋯?極道としての仁義だろうが!ケジメだろうが!全部⋯⋯全部、見てきたんだぞ、俺は!」


拳が震えていた。

でも、声だけは潰れないように押し殺した。


「なぁ、親父──」


その言葉に、橘がわずかに顔を上げた。


「最後に、ひとつだけ答えてくれ」


「お前が俺の知ってる親父なら⋯⋯あのとき、倉庫で俺をかばってくれたあんたは⋯⋯どこに行っちまったんだよ」


ほんの一瞬だけ、橘の表情が揺れた。




「⋯⋯さぁな」




──あぁ、終わった。


「じゃあ、死ね」


チャカの銃口を向ける。

引き金を引く瞬間──何も見えなかった。


ただ、煙の中に揺れる“家紋”だけが、視界の隅に残った。





⋯⋯天井が見える。

そういや、ここの天井なんてちゃんと見たことなんて無かったな。

⋯⋯腹が痛ぇ。

誰だ撃ちやがったのは⋯⋯。


「あ⋯⋯あ⋯⋯」


⋯⋯そりゃそうだ、組長が殺されそうなんだ、三下はビビって撃つよな⋯⋯。

俺、何で撃てなかった?

手が震えてた。


「慶太、慶太!」


「⋯⋯うるせぇな。何だよ⋯⋯」


「お前、何でこんなことを⋯⋯」


「⋯⋯知らねぇふりすんじゃねぇよ⋯⋯仁義を貫く⋯⋯生き様⋯⋯見せてきたのは親父だ⋯⋯でもてめぇじゃねぇ⋯⋯」


「許せねぇんだよ⋯⋯何でも時代で⋯⋯誤魔化しやがって⋯⋯」


血の混じった唾が、口の端からこぼれる。

視界が霞む。

もう、何がどこにあるかもわからない。



「⋯⋯何が、極道だ⋯⋯」



視界の端で、組の連中が駆け寄ってきた。

橘も何かを叫んでる。

でももう、声なんか聞こえなかった。


屋上のあの日が、浮かぶ。

煙草を吹かしながら、夢を語っていた、あの夜。


『バカ』そう言って笑った声。


⋯⋯そういや、記憶の声と橘の声が似てたなぁ。

俺の親父か?んな訳ねぇか⋯⋯





「⋯⋯なぁ、あんた、誰なん⋯⋯だ?」





神矢慶太は死んだ。

仁義を信じた男の生き様が、この夜、終わった。


⋯⋯そして、その“結末”を、屋上の影から見下ろす者がいた。


「⋯⋯ふーん、そうなるんだ」


貘は何の感情も見せず、ただそう呟いた。

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