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第5話 誤算(後編)

東屋の屋根に、雨の音が優しく響いていた。

周囲のベンチや遊具は濡れていて、誰の姿もない。

ツヅリはひとり、その小さな空間で傘を閉じ、静かに腰を下ろしていた。


濡れた空気が布の匂いを連れてくる。

肩にかけた鞄の中の除湿剤が、なんだか妙に重たく感じた。


(あの子来てくれるかね。押しつけがましかったかもね)

ツヅリは少し先走ってしまったかもと思った。でも、あの色は確かに、誰かに助けてほしいという願いが込められていた。


するとそこに、カツ、カツ、と濡れた足音が近づく。


「あの〜、お姉さん、来ちゃいました⋯⋯」

カフェの店員がやって来た。


「来てくれたんだね、ありがとう。さぁ、ここに座って」


店員は傘を閉じ、ツヅリの隣に座った。


「まずは自己紹介だね。あたしはツヅリっていうんだ。よろしくね」


「私は岸本遥です。よろしくお願いします」


「早速本題なんだけど、遥は人間関係に悩んでるんだろ?どんな感じなんだい?」


遥はしばらく口を開けなかった。

雨音だけが周囲を包む。

やがて、膝の上で握っていた自分の指を見つめながら、ぽつりと──


「⋯⋯元カレのことで、ちょっと」


「もとかれ⋯⋯?」


ツヅリは言葉の意味が分からなかった。


「元彼氏ってことです。半年くらい前に別れたんですけど⋯⋯」


その先の言葉が続かない。

ツヅリは余計な言葉を挟まず、ただ、待った。


──そして、遥はぽつりぽつりと語り出す。


「付き合ってたときは、優しい人だったんです。ちゃんと話も聞いてくれるし、褒めてくれるし⋯⋯最初は、本当に幸せだって思ってて⋯⋯」


「でも、だんだん“束縛”が増えていって。何時に帰るか、誰といたか、服装、スマホの中身⋯⋯全部知りたがって、確認してくるようになって⋯⋯」


「何かあると“ごめんね、心配だから”って笑って言うんです。でも、私にはもう、それが“愛情”じゃないって分かってた」


「⋯⋯別れを切り出すの、すごく怖くて⋯⋯でも、勇気を出して伝えました。LINEで一方的にですけど⋯⋯そしてすぐブロックしました」


「でも、そのあとこんなことがあって⋯⋯」


----------


──夜道。自宅の近く。街灯の下。


暗い道。


歩いていた遥が、急に足を止める。


背後から、誰かがついてくる気配──


振り向くと、数メートル先に、元カレが立っていた。


無言で、スマホの画面を見せてくる。そこには、遥が男友達と歩いている写真が──


「はるちゃん、どうして俺に隠してたの?俺以外に男いたから別れたの?」


遥は何も言わずに走って逃げた。


幸い、男は追って来なかった。


-----


「⋯⋯それ以来、駅前で見かけるようになって。自宅の最寄りでも。警察にも相談したけど、証拠がないから、って⋯⋯」


「私⋯⋯“忘れた”と思ってたんです。もう終わったことだって。でも──」


遥は、俯いていた顔を、ツヅリのほうに向け、涙ながらに話す。


「最近、また見かけた気がして。⋯⋯怖いんです。記憶って、忘れたつもりでも、何かの拍子に思い出して、痛くなる」


ツヅリは、その言葉をしっかりと受け止めた。


「⋯⋯遥。もし、その記憶を“喰って”もらえたら、どうする?」


「えっ?」


遥は、ゆっくりと息を吸った。


「⋯⋯それができるなら、お願いしたいです」


その声は、恐怖と迷いと、そして微かな希望を孕んでいた。


一日中降っていた雨が止み、少し強い風が吹いた。

すると、遥の足元に、一枚の紙が張り付いた。遥がそれを拾い上げて見てみると、





あなたの記憶、喰います





と、殴り書きのような字で書かれていた。


「あいつ⋯⋯いつからいたんだい」

ツヅリは怪訝な表情で辺りを見回した。


「何だろう、これ?」

遥がなんとなく裏面を見た。





「「目が合いましたね」」





遥の耳元で、そしてチラシから声が聞こえた。その瞬間、辺り一面闇に覆われた。


「えっ、何?真っ暗⋯⋯」


「大丈夫だよ。その記憶を喰う奴のお出ましさ」

ツヅリは呆れた口調で言った。


「どうも、依頼者の方」

貘がニコニコしながらやって来た。


「盗み聞きだなんて感心しないね」

ツヅリは少し怒っているようだ。


「だってさ、そのほうがスムーズに事が進むでしょ?」


貘は遥の正面に立ち、

「初めまして、岸本遥さん。僕は貘って言います」

と、胸に手を当てて挨拶した。


「あっ、どうも⋯⋯」

遥が小さく会釈した。


「お話は聞かせてもらいました。元カレの記憶を喰ってほしいと。全部でいいですね?」


ツヅリが立ち上がり、貘の腕を引っ張る。


「遥、ちょっとごめんね⋯⋯あんたちょっとこっち来なさい」


「ちょっちょっ、何だよ〜今カッコよくやってたのに」


ツヅリは小声で話す。

「全部喰うつもりかい?今回のは⋯⋯ちょっと嫌な予感がするんだよ 」


「嫌な予感?」


「⋯⋯あたしには止められないよ。あんたが決めることさ。でも、“何を残すか”ってのが──本当は大事なんだよ」


「知ってるよ。でも依頼は依頼。僕は“記憶を喰うだけ”。それ以上のことはしないよ。まぁでも、最後にもう一度確認はするよ」


「⋯⋯仕方ないね。じゃあ、あんたの好きにしな」


話を終えたふたりは、元の位置に戻った。


「ごめんね遥、待たせちゃって」


「いえ、大丈夫です」


貘は後ろ手に手を組みながら言った。


「遥さん、もう一度確認します。元カレの記憶、全部喰っていいんですね?」


「⋯⋯はい、全部忘れたいんです」


「あたしも確認させてくれよ。全部ってのは、どこまでのことを言ってるんだい?」


「⋯⋯2年くらい前の出会いから全部。名前も顔も。無かったことにしたいんです」


「⋯⋯そうかい。じゃあ、それでいいよ。遥の選んだことだ」


「じゃあ依頼を遂行するね」


貘は遥の額に右手をかざし、目を瞑った。



「いただきます」



貘は記憶を遡る。




──待ち合わせの改札口。



人混みの中、こっちを見つけて笑った顔。

「お待たせ」より先に言ったのは「今日、会えてよかった」だった。



──雨の日、ビニール傘をふたりで差して歩いた。



肩が濡れないように、そっと傘を傾けてくれたこと。

でもそのせいで、自分の肩がびしょ濡れだったこと、後から気づいてた。



──焼けた鍋の匂い。



初めて料理を作った日の、失敗と大笑い。

「焦げてもいいよ。はるちゃんの味だから」なんて、照れくさいセリフに頬を染めた夜。



──誕生日の夜、駅前の安いレストランで。



サプライズケーキを用意してくれてた。

蝋燭の火を吹き消す前、「来年も一緒にいようね」と笑った声。



──年末、並んで見たイルミネーション。



手を繋ぐと冷たくて、でも指を絡めてきた。「この景色より、はるちゃんの横顔が綺麗だった」──そう言ってくれた。




「若い子の幸せはさっぱりしてるけど甘さが濃い。甘くて僕が幸せ太りしそうだよ」




──スマホを置いたままトイレに行っただけで、戻ると通知が既読になっていた。



「心配だったから見ただけ」そう言う彼の目は、微笑んでいるのに少しも笑っていなかった。



──大学の友達と撮った集合写真。



男が写っていたという理由で、何時間もLINEが鳴り止まなかった。

「お前、俺を試してるの?」怖くて、謝るしかなかった。



──服装に口を出されるようになった。



「そのスカート、他の男が見るだろ」

「それ着るなら、俺の前だけにして」

選ぶ服がどんどん地味になっていった。



──講義のあと、ゼミの先輩と立ち話していただけなのに──



夜中に「見たよ」のメッセージ。

GPSアプリを入れられていたことに、そのとき初めて気づいた。



──別れようとLINEで言った。



すぐ、

「どうして?」

「なんで?」

「俺はこんなに好きなのに」

と返信が来て、すぐブロックした。



──他のSNSをブロックしても、知らないアカウントから「最近元気?」のDM。



文体で気づいた。

あの人だ。

名前を変えて、アカウントを作り直して、何度も、何度も。




「うっ⋯⋯陰湿な味⋯⋯ねっとりして喉越しも最悪⋯⋯でも依頼だから全部喰わないとね⋯⋯」




貘は貘なりに頑張った。

そして、他の記憶に目をやる。


「あれ、元カレここにもいる。ここにも、ここにも。うわ、まだたくさんいるよ⋯⋯全部喰うのは大変だけど、依頼だからね⋯⋯」


貘は元カレの記憶を片っ端から全部喰った。


「ふぅ⋯⋯うまいこと圧縮とか出来たらもうちょっと楽なんだけどなぁ⋯⋯ごちそうさまでした」




貘は目を開け、

「終わりましたよ、どうですか?」

と言い、指を鳴らした。


闇は消え去り、雨が降る公園の東屋の景色が戻った。

遥はふっと我に返り、


「あれ⋯⋯ここでツヅリさんと話してて⋯⋯お兄さん誰ですか?」


ツヅリは小声で言う。


「何であんた消えないのさ⋯⋯」

「今日はね、見届けようと思ってさ」


貘の表情は充実感に満ちていた。

が、ツヅリは無視して被せるように、

「あ、遥ごめんね、こいつはあたしを迎えに来ただけなんだ」


「そうですか⋯⋯何かスッキリした気がします!身体も軽い感じ!」


遥は生き生きとした表情になり、笑みをふたりに向けた。


(僕頑張ったんだけどなぁ〜少しは褒めてくれてもいいのになぁ〜)

貘は少し不貞腐れた。


「私、帰りますね。ツヅリさん、話聞いてくれてありがとうございました!またパンケーキ食べに来てくださいね!」


「うん、またね」


遥は傘を差し、足取り軽く帰って行った。




「ふぅ、終わったね。あたしたちも帰ろうか」


「いや、ちょっと後をつけてみない?」


貘は子供のような、好奇心旺盛な表情でツヅリに言った。


「⋯⋯あんたは本当に悪趣味だね。実験してるわけじゃないんだよ」


「今日の僕はいい仕事したんだ。きっと彼女もこれからいい人生を送れるよ」


ツヅリはため息をひとつついたあと、

「⋯⋯分かったよ。今日だけだからね」


と言い、遥を尾行することになった。




「私、何を悩んでたんだろう?夜の街を怯えて歩いてた気がする⋯⋯」


遥は違和感を覚えながらも、軽快に歩いていた。


「あ、ちょっと食材買って帰ろう」

スーパーに立ち寄り、買い物をして出て来た。


遥は鼻歌交じりに歩く。

その鼻歌は雨音にかき消されていた。


すると、前方に傘を持たずに、フードを被った人の姿が。遥は気にせずすれ違ったとき、





「はるちゃん?」





と、遥を呼んだ。

遥は振り返る。

(あれ、この呼び方⋯⋯)




------




「遥、彼氏から何て呼ばれてるの?」


「恥ずかしいけど⋯⋯はるちゃんって呼ばれてる」


「何それ〜!ノロケじゃん!」


「えへへ⋯⋯」




------




(私、彼氏からはるちゃんって呼ばれてた?彼氏?あれ?)


その瞬間、フードを被った男は、包丁を遥の腹めがけて突き刺した。


雨音が、ひときわ強くなった。


遥は何が起きたのか分からず、傘を落とした。


そして、足元に落ちた買い物袋の中から転がり出たトマトが、ゆっくりと地面に弾けるのを見ていた。


「⋯⋯なんで⋯⋯?」


男は何も答えなかった。

ただ、遥の顔を覗き込み──




「はるちゃん、俺のこと、忘れたの?」




何故、この人が私を知っているのか分からない。

君はどうして泣いてるの?


遥の意識が闇に沈む、そのぎりぎりの瞬間──彼女の口から漏れたのは、ただ一言。




「⋯⋯誰、なの⋯⋯?」




遥は腹に包丁が突き刺さったまま、仰向けに倒れた。



「うわああああああああ!!」


男は発狂し、走ってその場を去った。


------


遥を尾行していた貘とツヅリ。


終始上機嫌な遥を見て、

「いや〜今日は大成功だね。僕はやっぱりセンスあるんだよ」

貘はニコニコしながら言った。


「はいはい、記憶喰いなんてあんた以外に出来やしないんだから、評価なんて出来ないよ」


「だからこそ結果を見届けるのさ」


「⋯⋯まぁ色はかなり澄んでたし、かなり心は軽くなってるね」


ふたりは安堵にも似た表情をしていたその時。


「ねぇ、誰か遥ちゃんを呼び止めたよ?」


貘が目を凝らす。その瞬間。



「えっ」



遥はフードを被った人物に刺された。

男は発狂し、貘とツヅリの横を走って逃げて行った。


「遥!⋯⋯今誰か呼んでくるよ」


「⋯⋯ダメだツヅリ。僕らはこれ以上人間に介入しちゃいけない」


ツヅリは傘を投げた。


「でも⋯⋯でも遥が!」


貘も傘を投げ、ツヅリの両肩を押さえて言う。


「僕らはできる限りのことはやった。結果は人間が受け入れるしかない。そもそもツヅリ、どうして初対面の人間にそんなに肩入れするの?」


「あたしは⋯⋯遥に幸せになって欲しかった⋯⋯でも⋯⋯あたしのせいで⋯⋯」


ツヅリは俯きながら涙を流した。



「⋯⋯帰ろう、ツヅリ」



遥の血が、雨に滲んで、ゆっくりとアスファルトを染めていく。

ツヅリは黙ったまま、ただ肩を震わせていた。


貘は、その隣で空を仰ぐ。

「何か、積み上げたものを攫われた気分だな」




ふたりは並んで歩き出す。

傘の下、誰の声にも応えないまま。



そして、何も知らない人々の中へと──静かに、消えていった。

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