東屋の屋根に、雨の音が優しく響いていた。
周囲のベンチや遊具は濡れていて、誰の姿もない。
ツヅリはひとり、その小さな空間で傘を閉じ、静かに腰を下ろしていた。
濡れた空気が布の匂いを連れてくる。
肩にかけた鞄の中の除湿剤が、なんだか妙に重たく感じた。
(あの子来てくれるかね。押しつけがましかったかもね)
ツヅリは少し先走ってしまったかもと思った。でも、あの色は確かに、誰かに助けてほしいという願いが込められていた。
するとそこに、カツ、カツ、と濡れた足音が近づく。
「あの〜、お姉さん、来ちゃいました⋯⋯」
カフェの店員がやって来た。
「来てくれたんだね、ありがとう。さぁ、ここに座って」
店員は傘を閉じ、ツヅリの隣に座った。
「まずは自己紹介だね。あたしはツヅリっていうんだ。よろしくね」
「私は岸本遥です。よろしくお願いします」
「早速本題なんだけど、遥は人間関係に悩んでるんだろ?どんな感じなんだい?」
遥はしばらく口を開けなかった。
雨音だけが周囲を包む。
やがて、膝の上で握っていた自分の指を見つめながら、ぽつりと──
「⋯⋯元カレのことで、ちょっと」
「もとかれ⋯⋯?」
ツヅリは言葉の意味が分からなかった。
「元彼氏ってことです。半年くらい前に別れたんですけど⋯⋯」
その先の言葉が続かない。
ツヅリは余計な言葉を挟まず、ただ、待った。
──そして、遥はぽつりぽつりと語り出す。
「付き合ってたときは、優しい人だったんです。ちゃんと話も聞いてくれるし、褒めてくれるし⋯⋯最初は、本当に幸せだって思ってて⋯⋯」
「でも、だんだん“束縛”が増えていって。何時に帰るか、誰といたか、服装、スマホの中身⋯⋯全部知りたがって、確認してくるようになって⋯⋯」
「何かあると“ごめんね、心配だから”って笑って言うんです。でも、私にはもう、それが“愛情”じゃないって分かってた」
「⋯⋯別れを切り出すの、すごく怖くて⋯⋯でも、勇気を出して伝えました。LINEで一方的にですけど⋯⋯そしてすぐブロックしました」
「でも、そのあとこんなことがあって⋯⋯」
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──夜道。自宅の近く。街灯の下。
暗い道。
歩いていた遥が、急に足を止める。
背後から、誰かがついてくる気配──
振り向くと、数メートル先に、元カレが立っていた。
無言で、スマホの画面を見せてくる。そこには、遥が男友達と歩いている写真が──
「はるちゃん、どうして俺に隠してたの?俺以外に男いたから別れたの?」
遥は何も言わずに走って逃げた。
幸い、男は追って来なかった。
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「⋯⋯それ以来、駅前で見かけるようになって。自宅の最寄りでも。警察にも相談したけど、証拠がないから、って⋯⋯」
「私⋯⋯“忘れた”と思ってたんです。もう終わったことだって。でも──」
遥は、俯いていた顔を、ツヅリのほうに向け、涙ながらに話す。
「最近、また見かけた気がして。⋯⋯怖いんです。記憶って、忘れたつもりでも、何かの拍子に思い出して、痛くなる」
ツヅリは、その言葉をしっかりと受け止めた。
「⋯⋯遥。もし、その記憶を“喰って”もらえたら、どうする?」
「えっ?」
遥は、ゆっくりと息を吸った。
「⋯⋯それができるなら、お願いしたいです」
その声は、恐怖と迷いと、そして微かな希望を孕んでいた。
一日中降っていた雨が止み、少し強い風が吹いた。
すると、遥の足元に、一枚の紙が張り付いた。遥がそれを拾い上げて見てみると、
あなたの記憶、喰います
と、殴り書きのような字で書かれていた。
「あいつ⋯⋯いつからいたんだい」
ツヅリは怪訝な表情で辺りを見回した。
「何だろう、これ?」
遥がなんとなく裏面を見た。
「「目が合いましたね」」
遥の耳元で、そしてチラシから声が聞こえた。その瞬間、辺り一面闇に覆われた。
「えっ、何?真っ暗⋯⋯」
「大丈夫だよ。その記憶を喰う奴のお出ましさ」
ツヅリは呆れた口調で言った。
「どうも、依頼者の方」
貘がニコニコしながらやって来た。
「盗み聞きだなんて感心しないね」
ツヅリは少し怒っているようだ。
「だってさ、そのほうがスムーズに事が進むでしょ?」
貘は遥の正面に立ち、
「初めまして、岸本遥さん。僕は貘って言います」
と、胸に手を当てて挨拶した。
「あっ、どうも⋯⋯」
遥が小さく会釈した。
「お話は聞かせてもらいました。元カレの記憶を喰ってほしいと。全部でいいですね?」
ツヅリが立ち上がり、貘の腕を引っ張る。
「遥、ちょっとごめんね⋯⋯あんたちょっとこっち来なさい」
「ちょっちょっ、何だよ〜今カッコよくやってたのに」
ツヅリは小声で話す。
「全部喰うつもりかい?今回のは⋯⋯ちょっと嫌な予感がするんだよ 」
「嫌な予感?」
「⋯⋯あたしには止められないよ。あんたが決めることさ。でも、“何を残すか”ってのが──本当は大事なんだよ」
「知ってるよ。でも依頼は依頼。僕は“記憶を喰うだけ”。それ以上のことはしないよ。まぁでも、最後にもう一度確認はするよ」
「⋯⋯仕方ないね。じゃあ、あんたの好きにしな」
話を終えたふたりは、元の位置に戻った。
「ごめんね遥、待たせちゃって」
「いえ、大丈夫です」
貘は後ろ手に手を組みながら言った。
「遥さん、もう一度確認します。元カレの記憶、全部喰っていいんですね?」
「⋯⋯はい、全部忘れたいんです」
「あたしも確認させてくれよ。全部ってのは、どこまでのことを言ってるんだい?」
「⋯⋯2年くらい前の出会いから全部。名前も顔も。無かったことにしたいんです」
「⋯⋯そうかい。じゃあ、それでいいよ。遥の選んだことだ」
「じゃあ依頼を遂行するね」
貘は遥の額に右手をかざし、目を瞑った。
「いただきます」
貘は記憶を遡る。
──待ち合わせの改札口。
人混みの中、こっちを見つけて笑った顔。
「お待たせ」より先に言ったのは「今日、会えてよかった」だった。
──雨の日、ビニール傘をふたりで差して歩いた。
肩が濡れないように、そっと傘を傾けてくれたこと。
でもそのせいで、自分の肩がびしょ濡れだったこと、後から気づいてた。
──焼けた鍋の匂い。
初めて料理を作った日の、失敗と大笑い。
「焦げてもいいよ。はるちゃんの味だから」なんて、照れくさいセリフに頬を染めた夜。
──誕生日の夜、駅前の安いレストランで。
サプライズケーキを用意してくれてた。
蝋燭の火を吹き消す前、「来年も一緒にいようね」と笑った声。
──年末、並んで見たイルミネーション。
手を繋ぐと冷たくて、でも指を絡めてきた。「この景色より、はるちゃんの横顔が綺麗だった」──そう言ってくれた。
「若い子の幸せはさっぱりしてるけど甘さが濃い。甘くて僕が幸せ太りしそうだよ」
──スマホを置いたままトイレに行っただけで、戻ると通知が既読になっていた。
「心配だったから見ただけ」そう言う彼の目は、微笑んでいるのに少しも笑っていなかった。
──大学の友達と撮った集合写真。
男が写っていたという理由で、何時間もLINEが鳴り止まなかった。
「お前、俺を試してるの?」怖くて、謝るしかなかった。
──服装に口を出されるようになった。
「そのスカート、他の男が見るだろ」
「それ着るなら、俺の前だけにして」
選ぶ服がどんどん地味になっていった。
──講義のあと、ゼミの先輩と立ち話していただけなのに──
夜中に「見たよ」のメッセージ。
GPSアプリを入れられていたことに、そのとき初めて気づいた。
──別れようとLINEで言った。
すぐ、
「どうして?」
「なんで?」
「俺はこんなに好きなのに」
と返信が来て、すぐブロックした。
──他のSNSをブロックしても、知らないアカウントから「最近元気?」のDM。
文体で気づいた。
あの人だ。
名前を変えて、アカウントを作り直して、何度も、何度も。
「うっ⋯⋯陰湿な味⋯⋯ねっとりして喉越しも最悪⋯⋯でも依頼だから全部喰わないとね⋯⋯」
貘は貘なりに頑張った。
そして、他の記憶に目をやる。
「あれ、元カレここにもいる。ここにも、ここにも。うわ、まだたくさんいるよ⋯⋯全部喰うのは大変だけど、依頼だからね⋯⋯」
貘は元カレの記憶を片っ端から全部喰った。
「ふぅ⋯⋯うまいこと圧縮とか出来たらもうちょっと楽なんだけどなぁ⋯⋯ごちそうさまでした」
貘は目を開け、
「終わりましたよ、どうですか?」
と言い、指を鳴らした。
闇は消え去り、雨が降る公園の東屋の景色が戻った。
遥はふっと我に返り、
「あれ⋯⋯ここでツヅリさんと話してて⋯⋯お兄さん誰ですか?」
ツヅリは小声で言う。
「何であんた消えないのさ⋯⋯」
「今日はね、見届けようと思ってさ」
貘の表情は充実感に満ちていた。
が、ツヅリは無視して被せるように、
「あ、遥ごめんね、こいつはあたしを迎えに来ただけなんだ」
「そうですか⋯⋯何かスッキリした気がします!身体も軽い感じ!」
遥は生き生きとした表情になり、笑みをふたりに向けた。
(僕頑張ったんだけどなぁ〜少しは褒めてくれてもいいのになぁ〜)
貘は少し不貞腐れた。
「私、帰りますね。ツヅリさん、話聞いてくれてありがとうございました!またパンケーキ食べに来てくださいね!」
「うん、またね」
遥は傘を差し、足取り軽く帰って行った。
「ふぅ、終わったね。あたしたちも帰ろうか」
「いや、ちょっと後をつけてみない?」
貘は子供のような、好奇心旺盛な表情でツヅリに言った。
「⋯⋯あんたは本当に悪趣味だね。実験してるわけじゃないんだよ」
「今日の僕はいい仕事したんだ。きっと彼女もこれからいい人生を送れるよ」
ツヅリはため息をひとつついたあと、
「⋯⋯分かったよ。今日だけだからね」
と言い、遥を尾行することになった。
「私、何を悩んでたんだろう?夜の街を怯えて歩いてた気がする⋯⋯」
遥は違和感を覚えながらも、軽快に歩いていた。
「あ、ちょっと食材買って帰ろう」
スーパーに立ち寄り、買い物をして出て来た。
遥は鼻歌交じりに歩く。
その鼻歌は雨音にかき消されていた。
すると、前方に傘を持たずに、フードを被った人の姿が。遥は気にせずすれ違ったとき、
「はるちゃん?」
と、遥を呼んだ。
遥は振り返る。
(あれ、この呼び方⋯⋯)
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「遥、彼氏から何て呼ばれてるの?」
「恥ずかしいけど⋯⋯はるちゃんって呼ばれてる」
「何それ〜!ノロケじゃん!」
「えへへ⋯⋯」
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(私、彼氏からはるちゃんって呼ばれてた?彼氏?あれ?)
その瞬間、フードを被った男は、包丁を遥の腹めがけて突き刺した。
雨音が、ひときわ強くなった。
遥は何が起きたのか分からず、傘を落とした。
そして、足元に落ちた買い物袋の中から転がり出たトマトが、ゆっくりと地面に弾けるのを見ていた。
「⋯⋯なんで⋯⋯?」
男は何も答えなかった。
ただ、遥の顔を覗き込み──
「はるちゃん、俺のこと、忘れたの?」
何故、この人が私を知っているのか分からない。
君はどうして泣いてるの?
遥の意識が闇に沈む、そのぎりぎりの瞬間──彼女の口から漏れたのは、ただ一言。
「⋯⋯誰、なの⋯⋯?」
遥は腹に包丁が突き刺さったまま、仰向けに倒れた。
「うわああああああああ!!」
男は発狂し、走ってその場を去った。
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遥を尾行していた貘とツヅリ。
終始上機嫌な遥を見て、
「いや〜今日は大成功だね。僕はやっぱりセンスあるんだよ」
貘はニコニコしながら言った。
「はいはい、記憶喰いなんてあんた以外に出来やしないんだから、評価なんて出来ないよ」
「だからこそ結果を見届けるのさ」
「⋯⋯まぁ色はかなり澄んでたし、かなり心は軽くなってるね」
ふたりは安堵にも似た表情をしていたその時。
「ねぇ、誰か遥ちゃんを呼び止めたよ?」
貘が目を凝らす。その瞬間。
「えっ」
遥はフードを被った人物に刺された。
男は発狂し、貘とツヅリの横を走って逃げて行った。
「遥!⋯⋯今誰か呼んでくるよ」
「⋯⋯ダメだツヅリ。僕らはこれ以上人間に介入しちゃいけない」
ツヅリは傘を投げた。
「でも⋯⋯でも遥が!」
貘も傘を投げ、ツヅリの両肩を押さえて言う。
「僕らはできる限りのことはやった。結果は人間が受け入れるしかない。そもそもツヅリ、どうして初対面の人間にそんなに肩入れするの?」
「あたしは⋯⋯遥に幸せになって欲しかった⋯⋯でも⋯⋯あたしのせいで⋯⋯」
ツヅリは俯きながら涙を流した。
「⋯⋯帰ろう、ツヅリ」
遥の血が、雨に滲んで、ゆっくりとアスファルトを染めていく。
ツヅリは黙ったまま、ただ肩を震わせていた。
貘は、その隣で空を仰ぐ。
「何か、積み上げたものを攫われた気分だな」
ふたりは並んで歩き出す。
傘の下、誰の声にも応えないまま。
そして、何も知らない人々の中へと──静かに、消えていった。