あの日以来、ふたりはあまり話さなくなった。
挨拶の声だけが空中で浮いては、どこにも届かずに消える。
かつては静かで心地よかったアジトの空気が、今は少しだけ重い。
貘は、何事もなかったように外へ出ては、帰ってきてソファに転がる。
けれど、以前みたいに出来事を語ることはない。
語られないぶん、何を“喰った”のかも分からない。
ツヅリは、ずっとアジトにこもっていた。
布に向かって針を持つ──そのはずが、縫い目はどこかぎこちなく、糸は途中で何度も絡まる。
ため息と一緒に、ほどいた糸が机の上に溜まっていく。
「⋯⋯何やってんだろうね、あたし」
独り言が、やけに大きく響いた。
針を止めて、少しだけ目を伏せる。
まるで“色”が見えない世界にいるようだった。
それは、遥の最後の顔が、ずっと目に焼きついていたからか。
それとも、あの時、貘を引き止められなかった自分への怒りか。
もしくは、なぜ“何も変えられなかった”のか、答えが出ないままの痛みか。
全部だった。
そしてたぶん、貘も同じように、“どこにも置き場所のない何か”を、抱えたままでいる。
でも、まだ言葉にできない。
だからふたりは、何も言わずにすれ違う。
ただ、それだけの日々を重ねていた。
「はぁ⋯⋯心も身体も腐っちまいそうだね」ツヅリは紅茶を淹れた。
すると、ふと、あの屈託のない笑顔を思い出した。
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数週間前。
ピアノの発表会の日。
ツヅリは会場を事前に聞いていたが、場所は分からなかった。
地図を片手に、何人もの通行人に道を聞きながら、なんとか会場に辿り着いた。
到着したとき、ちょうどヒナがステージに上がるところだった。
白地に花柄のワンピース。
ライトを浴びて、淡く色を変えていく。
鍵盤に向かうヒナの背中は小さいのに、揺らがなかった。
──ちゃんと前を向いてる。
ツヅリは、そう思った。
演奏が始まる。一音目で、空気が澄んだ。
(いい色だね)
ステージのヒナを見つめながら、ツヅリはふと、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
発表が終わったあと、ロビーでヒナと再会した。
「つづりお姉ちゃん、来てくれたんだ!」
ヒナは嬉しそうに笑った。
「ああ。間に合ってよかったよ。⋯⋯すごく、綺麗だった」
ツヅリは素直に言葉を返した。
「えへへ。今日はね、ピアノじゃなくて“つづりお姉ちゃんに見てもらう”って思って弾いたんだ」
「そうかい。そりゃあ、良い色になるわけだ」
ヒナは、少し照れたあと、はにかんだ顔で言った。
「今度ね、学校の発表会があるの。ヒナ、今度は伴奏するんだ!つづりお姉ちゃん、また来てくれる?」
「あぁ、いいよ」
ヒナの服が、ふわっと淡いオレンジに染まった気がした。
その後、ツヅリ、ヒナ、祖母の3人で、道案内のために小学生へ向かった。
「ここで発表会あるからね、つづりお姉ちゃんちゃんと覚えておいてね?」
「ツヅリちゃん、地図だとここにあるからね」
祖母は小学校の場所に丸をつけた。
「ありがとう。何とか自力で来てみせるよ」
「じゃあ私たちはこれで。またね、ツヅリちゃん」
「つづりお姉ちゃん、学校で待ってるから!」
ヒナは大きく手を振った。
ツヅリも手を振ったあと、その場を離れた。
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「そうだった。今日はヒナの発表会がある。約束だからね⋯⋯」
ツヅリは顔を両手で叩き、
「⋯⋯ヒナにちょっと甘やかしてもらおうかね」
と、自虐交じりに笑った。
ツヅリは玄関で傘を手に取り、アジトを出た。
「雨、少しは上がってくれるといいんだけどねぇ」
そう呟いて、静かにドアを開けた。
数時間後──。
学校の体育館はすでに多くの保護者で埋まっていた。
パイプ椅子、淡い照明、そして少し緊張感のある空気。
ツヅリは空いていた最後列にそっと腰を下ろす。
「ふぅ⋯⋯何とかたどり着けたよ。この街の人達はいい人ばかりだね」
苦笑いを浮かべながら、ゆっくり視線を前へ送る。
舞台袖でスタンバイしていた制服姿のヒナが、伴奏用のピアノの前で観衆に向けて一礼し、顔を上げたそのとき。
(お姉ちゃん)
明らかに口がそう動いた。
そして、笑顔をこちらに向けた。
ツヅリは何故か胸を貫かれるような感覚を覚えた。
身体がジンと熱くなった。
澱みが、揮発して消えていく。
(⋯⋯こんなにもあたしを見てくれるなんて、ずるいねぇ。甘やかすなんてもんじゃないよ、ヒナ⋯⋯)
ヒナはピアノに手をかけた瞬間、その表情が変わった。
静かな会場に、柔らかな旋律が広がった。
ゆっくり、丁寧に。
けれど芯の通ったその音は、聞いている誰の心にも届いていた。
ツヅリは目を細めて見つめる。
(⋯⋯頑張ったんだね。よく、ここまで辿り着いたもんだよ)
ワンピースとは違う、制服姿のヒナ。
けれど彼女の周囲には、あの日と同じようなあたたかな色が漂っていた。
──前を向いている。
ツヅリはまた、そう思った。
演奏が終わり、会場から大きな拍手が起こる。その中で、ツヅリは小さく拍手を送りながら、そっと息をついた。
「情けないね。あたしは」
体育館の空気が緩んだ頃。
ツヅリは静かに立ち上がり、廊下を歩いていた。
すると、
「つづりお姉ちゃん!」
制服姿のヒナが、走ってきた。
顔は緊張から解放されて、ほんのり汗ばんでいる。
「ヒナ、ありがとうね」
ツヅリは突然両膝をつき、ヒナを抱きしめた。
「⋯⋯つづりお姉ちゃん?ヒナ汗かいてるからベタベタだよ?」
「いいんだ。ヒナは救ってくれたんだ」
「何のこと?」
「ううん。⋯⋯ちょっと、今のあたしには眩しすぎるくらいの話さ」
「???」
ツヅリはヒナの頭をやさしく撫でたあと、少しだけ顔を離し、真っ直ぐ目を見た。
「ヒナの音はちゃんと届いたよ。⋯⋯胸の奥までね」
「ほんと?」
「ああ。ピアノも随分上達したね」
「つづりお姉ちゃんが来てくれたからいっぱい頑張ったよ!」
「もちろん、それも沢山伝わったよ」
ふたりは笑顔で見つめ合った。
「⋯⋯そろそろあたしは帰ろうかね」
ツヅリは立ち上がった。
「ヒナも教室に戻らないといけないから⋯⋯つづりお姉ちゃん、また会えるよね?」
ヒナはツヅリの両手を取る。
「ああ、必ず会えるよ」
ツヅリは柔らかい笑顔で答え、ふたりは玄関前まで歩いた。
「今度会うときはつづりお姉ちゃんとどこか行きたいなぁ」
「そうかい?じゃあ沢山考えといてくれよ」
「うん!」
「⋯⋯じゃあね、ヒナ。またね」
「うん、またね!」
ヒナはずっと手を振り、ツヅリを見送った。
ツヅリは傘を持ち、ひとつ小さく深呼吸をした。
「さて⋯⋯帰ってまた少しだけ、針を持ってみようかね」
そして、もう一度、歩き出した。
外は久しぶりに太陽が輝いていた。
ツヅリが小学校へ向かっていた頃。
貘は傘を差し、街をふらふら歩いていた。
「はぁ。定期的にチラシを剥がす人がいるから記憶は喰ってるけど、内容がしょうもなさ過ぎるんだよなぁ⋯⋯」
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「どの記憶を喰いますか?」
「学生の頃の黒歴史を喰ってくれ!」
「⋯⋯分かりました」
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「どの記憶を喰いますか?」
「先生をママって呼んじゃって、恥ずかしいのでそれを⋯⋯」
「⋯⋯分かりましたよ」
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「どの記憶を喰いますか?」
「会社のプレゼンで、ファイルを間違って開いて、卑猥な映像を流してしまった記憶を⋯⋯」
「⋯⋯はい」
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「⋯⋯どの記憶喰えばいいの?」
「最後の一個だったフィギュアが目の前で買われていって⋯⋯悔しい⋯⋯」
「あーはいはい」
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「⋯⋯でも、記憶を喰ったところで、周りの人間はまだ覚えてるんだよね。自分の中だけ無かったことにして、スッキリしても⋯⋯それで何か変わるのかな」
貘は空を見上げた。
「人間って、深いようで浅い。⋯⋯でも、それが“生きる”ってことか」
自分なりの答えが見えそうになってきたとき、ふと、路地の突き当たりにある小さな映画館が気になった。
「ヒカリ座」と書かれた古い看板。
「現在の上映作品」と書かれた掲示板には何も無い。
入口には張り紙があった。
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《閉館のお知らせ》
長らくご愛顧いただきました「ヒカリ座」は、本年6月30日をもちまして閉館いたします。
昭和の時代より約60年、多くの皆さまと映画を通じて時間を共にできたこと、心より感謝申し上げます。
残された時間も、スクリーンの灯を絶やさず、最後まで上映を続けます。
どうか、最後の一幕まで見届けていただけますように。
ヒカリ座館主
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貘はしばらく見つめたまま、ふぅ⋯⋯と短く息を吐いた。
「なるほどね。“終わった映画館”か」
小さな文字の中に、時間の重みが確かに詰まっていた。
そこに、
「若者よ、どうしました?」
一人の老人が、傘を差し貘に話かけた。
「申し訳ないが、もう映画館は閉館しましてな⋯⋯」
「あぁ、ちょっと気になって見てただけですから⋯⋯」
貘はそう言いながら、その場を立ち去ろうとしたが、
「よろしければ、中を見て行きますか?」
老人は鍵を取り出し、入口を開けた。
貘は迷ったように立ち止まったが、
「⋯⋯まぁ、雨宿りくらいにはなるかな」
と、気だるげな声で返しながら、老人の後について中へと足を踏み入れた。