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第6話 Re: (前編)

あの日以来、ふたりはあまり話さなくなった。


挨拶の声だけが空中で浮いては、どこにも届かずに消える。


かつては静かで心地よかったアジトの空気が、今は少しだけ重い。


貘は、何事もなかったように外へ出ては、帰ってきてソファに転がる。


けれど、以前みたいに出来事を語ることはない。


語られないぶん、何を“喰った”のかも分からない。


ツヅリは、ずっとアジトにこもっていた。


布に向かって針を持つ──そのはずが、縫い目はどこかぎこちなく、糸は途中で何度も絡まる。


ため息と一緒に、ほどいた糸が机の上に溜まっていく。


「⋯⋯何やってんだろうね、あたし」

独り言が、やけに大きく響いた。


針を止めて、少しだけ目を伏せる。

まるで“色”が見えない世界にいるようだった。


それは、遥の最後の顔が、ずっと目に焼きついていたからか。


それとも、あの時、貘を引き止められなかった自分への怒りか。


もしくは、なぜ“何も変えられなかった”のか、答えが出ないままの痛みか。


全部だった。


そしてたぶん、貘も同じように、“どこにも置き場所のない何か”を、抱えたままでいる。


でも、まだ言葉にできない。


だからふたりは、何も言わずにすれ違う。

ただ、それだけの日々を重ねていた。


「はぁ⋯⋯心も身体も腐っちまいそうだね」ツヅリは紅茶を淹れた。


すると、ふと、あの屈託のない笑顔を思い出した。




--------




数週間前。

ピアノの発表会の日。


ツヅリは会場を事前に聞いていたが、場所は分からなかった。


地図を片手に、何人もの通行人に道を聞きながら、なんとか会場に辿り着いた。


到着したとき、ちょうどヒナがステージに上がるところだった。


白地に花柄のワンピース。

ライトを浴びて、淡く色を変えていく。


鍵盤に向かうヒナの背中は小さいのに、揺らがなかった。


──ちゃんと前を向いてる。

ツヅリは、そう思った。


演奏が始まる。一音目で、空気が澄んだ。


(いい色だね)


ステージのヒナを見つめながら、ツヅリはふと、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。




発表が終わったあと、ロビーでヒナと再会した。


「つづりお姉ちゃん、来てくれたんだ!」

ヒナは嬉しそうに笑った。


「ああ。間に合ってよかったよ。⋯⋯すごく、綺麗だった」

ツヅリは素直に言葉を返した。


「えへへ。今日はね、ピアノじゃなくて“つづりお姉ちゃんに見てもらう”って思って弾いたんだ」


「そうかい。そりゃあ、良い色になるわけだ」


ヒナは、少し照れたあと、はにかんだ顔で言った。


「今度ね、学校の発表会があるの。ヒナ、今度は伴奏するんだ!つづりお姉ちゃん、また来てくれる?」


「あぁ、いいよ」


ヒナの服が、ふわっと淡いオレンジに染まった気がした。



その後、ツヅリ、ヒナ、祖母の3人で、道案内のために小学生へ向かった。


「ここで発表会あるからね、つづりお姉ちゃんちゃんと覚えておいてね?」


「ツヅリちゃん、地図だとここにあるからね」


祖母は小学校の場所に丸をつけた。


「ありがとう。何とか自力で来てみせるよ」


「じゃあ私たちはこれで。またね、ツヅリちゃん」


「つづりお姉ちゃん、学校で待ってるから!」


ヒナは大きく手を振った。

ツヅリも手を振ったあと、その場を離れた。




-------




「そうだった。今日はヒナの発表会がある。約束だからね⋯⋯」


ツヅリは顔を両手で叩き、


「⋯⋯ヒナにちょっと甘やかしてもらおうかね」

と、自虐交じりに笑った。


ツヅリは玄関で傘を手に取り、アジトを出た。


「雨、少しは上がってくれるといいんだけどねぇ」


そう呟いて、静かにドアを開けた。




数時間後──。




学校の体育館はすでに多くの保護者で埋まっていた。

パイプ椅子、淡い照明、そして少し緊張感のある空気。

ツヅリは空いていた最後列にそっと腰を下ろす。


「ふぅ⋯⋯何とかたどり着けたよ。この街の人達はいい人ばかりだね」


苦笑いを浮かべながら、ゆっくり視線を前へ送る。


舞台袖でスタンバイしていた制服姿のヒナが、伴奏用のピアノの前で観衆に向けて一礼し、顔を上げたそのとき。




(お姉ちゃん)




明らかに口がそう動いた。

そして、笑顔をこちらに向けた。


ツヅリは何故か胸を貫かれるような感覚を覚えた。

身体がジンと熱くなった。

澱みが、揮発して消えていく。


(⋯⋯こんなにもあたしを見てくれるなんて、ずるいねぇ。甘やかすなんてもんじゃないよ、ヒナ⋯⋯)


ヒナはピアノに手をかけた瞬間、その表情が変わった。


静かな会場に、柔らかな旋律が広がった。

ゆっくり、丁寧に。


けれど芯の通ったその音は、聞いている誰の心にも届いていた。


ツヅリは目を細めて見つめる。

(⋯⋯頑張ったんだね。よく、ここまで辿り着いたもんだよ)


ワンピースとは違う、制服姿のヒナ。

けれど彼女の周囲には、あの日と同じようなあたたかな色が漂っていた。


──前を向いている。

ツヅリはまた、そう思った。



演奏が終わり、会場から大きな拍手が起こる。その中で、ツヅリは小さく拍手を送りながら、そっと息をついた。


「情けないね。あたしは」 





体育館の空気が緩んだ頃。

ツヅリは静かに立ち上がり、廊下を歩いていた。


すると、


「つづりお姉ちゃん!」

制服姿のヒナが、走ってきた。


顔は緊張から解放されて、ほんのり汗ばんでいる。


「ヒナ、ありがとうね」

ツヅリは突然両膝をつき、ヒナを抱きしめた。


「⋯⋯つづりお姉ちゃん?ヒナ汗かいてるからベタベタだよ?」


「いいんだ。ヒナは救ってくれたんだ」


「何のこと?」


「ううん。⋯⋯ちょっと、今のあたしには眩しすぎるくらいの話さ」


「???」


ツヅリはヒナの頭をやさしく撫でたあと、少しだけ顔を離し、真っ直ぐ目を見た。


「ヒナの音はちゃんと届いたよ。⋯⋯胸の奥までね」


「ほんと?」


「ああ。ピアノも随分上達したね」


「つづりお姉ちゃんが来てくれたからいっぱい頑張ったよ!」


「もちろん、それも沢山伝わったよ」


ふたりは笑顔で見つめ合った。


「⋯⋯そろそろあたしは帰ろうかね」

ツヅリは立ち上がった。


「ヒナも教室に戻らないといけないから⋯⋯つづりお姉ちゃん、また会えるよね?」


ヒナはツヅリの両手を取る。

「ああ、必ず会えるよ」


ツヅリは柔らかい笑顔で答え、ふたりは玄関前まで歩いた。


「今度会うときはつづりお姉ちゃんとどこか行きたいなぁ」


「そうかい?じゃあ沢山考えといてくれよ」


「うん!」


「⋯⋯じゃあね、ヒナ。またね」


「うん、またね!」


ヒナはずっと手を振り、ツヅリを見送った。



ツヅリは傘を持ち、ひとつ小さく深呼吸をした。


「さて⋯⋯帰ってまた少しだけ、針を持ってみようかね」


そして、もう一度、歩き出した。

外は久しぶりに太陽が輝いていた。





ツヅリが小学校へ向かっていた頃。

貘は傘を差し、街をふらふら歩いていた。


「はぁ。定期的にチラシを剥がす人がいるから記憶は喰ってるけど、内容がしょうもなさ過ぎるんだよなぁ⋯⋯」


------


「どの記憶を喰いますか?」

「学生の頃の黒歴史を喰ってくれ!」

「⋯⋯分かりました」


-------


「どの記憶を喰いますか?」

「先生をママって呼んじゃって、恥ずかしいのでそれを⋯⋯」

「⋯⋯分かりましたよ」


-------


「どの記憶を喰いますか?」

「会社のプレゼンで、ファイルを間違って開いて、卑猥な映像を流してしまった記憶を⋯⋯」

「⋯⋯はい」


--------


「⋯⋯どの記憶喰えばいいの?」

「最後の一個だったフィギュアが目の前で買われていって⋯⋯悔しい⋯⋯」

「あーはいはい」


--------


「⋯⋯でも、記憶を喰ったところで、周りの人間はまだ覚えてるんだよね。自分の中だけ無かったことにして、スッキリしても⋯⋯それで何か変わるのかな」


貘は空を見上げた。

「人間って、深いようで浅い。⋯⋯でも、それが“生きる”ってことか」


自分なりの答えが見えそうになってきたとき、ふと、路地の突き当たりにある小さな映画館が気になった。


「ヒカリ座」と書かれた古い看板。


「現在の上映作品」と書かれた掲示板には何も無い。


入口には張り紙があった。


---


《閉館のお知らせ》


長らくご愛顧いただきました「ヒカリ座」は、本年6月30日をもちまして閉館いたします。


昭和の時代より約60年、多くの皆さまと映画を通じて時間を共にできたこと、心より感謝申し上げます。


残された時間も、スクリーンの灯を絶やさず、最後まで上映を続けます。


どうか、最後の一幕まで見届けていただけますように。


ヒカリ座館主


---


貘はしばらく見つめたまま、ふぅ⋯⋯と短く息を吐いた。


「なるほどね。“終わった映画館”か」


小さな文字の中に、時間の重みが確かに詰まっていた。


そこに、

「若者よ、どうしました?」

一人の老人が、傘を差し貘に話かけた。


「申し訳ないが、もう映画館は閉館しましてな⋯⋯」


「あぁ、ちょっと気になって見てただけですから⋯⋯」


貘はそう言いながら、その場を立ち去ろうとしたが、


「よろしければ、中を見て行きますか?」

老人は鍵を取り出し、入口を開けた。


貘は迷ったように立ち止まったが、


「⋯⋯まぁ、雨宿りくらいにはなるかな」


と、気だるげな声で返しながら、老人の後について中へと足を踏み入れた。



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