古びた扉の向こう、埃とフィルムの匂いが混じったような空気が迎えてくる。
照明は抑えられ、スクリーンはまだそこにあった。
ふたりは年季の入った座席に座った。
「⋯⋯いい空間ですね。静かで」
「ありがとうございます」
老人は小さく微笑んだ。
「この映画館は、私がまだ若い⋯⋯あなたくらいの歳の頃に、一念発起して建てました。赤字のほうが多く、“道楽に身売りした男”だと馬鹿にされたものです」
「それでも、ここにはたくさんの“物語”が流れていきました。誰かの思い出になって、誰かの涙になって」
「でも、それは永遠では無い。人は必ず死ぬ。そうなると、記憶はそこで終わる」
貘は静かに聞いていたが、ふっと鼻で笑った。
「記憶なんて、今はどこにでも残せるでしょ。動画、写真、SNS⋯⋯好きなだけ」
「そうですね、確かに」
老人は頷きながらも、少し寂しそうに言葉を継いだ。
「人間というのは欲深い。先に無が待ち受けてもなお、欲するものです。いや、だからこそ、焼き付けたいのかもしれません」
「⋯⋯私は、ここを開館したとき、親しい人達を招待し、貸切で上映会をしました。そのときの映画が忘れられなくてね」
(うん⋯⋯嫌な予感がするね)
貘は目を泳がせた。
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「どの記憶を喰いますか?」
「映画の記憶を喰ってください!あの衝撃をまた味わいたくて⋯⋯」
「はぁ⋯⋯またか」
(何人同じ依頼してくるんだよ〜)
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「もし出来るなら、その映画の記憶を消して、もう一度観たい。それをこの映画館の最後の上映会にしたい」
老人は苦笑いしながら、
「まぁ、そんなこと無理なのは承知してますがね」
貘は投げかける。
「おじいさん、そうやって言う人たくさんいるけど、そんなに映画はいいものなの?」
「あぁ、映画は“人生”なんですよ」
老人は感慨深い様子だった。
「人生、ねぇ⋯⋯」
貘は席を立ち、出口へと向かう途中で立ち止まる。
「⋯⋯おじいさん、それは“依頼”ということでいいですか?」
「⋯⋯依頼?いや、ただの願いだよ。でも願いってやつは、叶わないと分かってても、口にしてしまうもんでね」
「⋯⋯よく周りを見てください。おじいさんの想いが強ければ、願いは叶いますよ。では、僕はこれで」
貘は傘を持ち、外に出た。
雨は止んでいた。
ツヅリは帰り道に迷っていた。
「弱ったねぇ。道を覚えたつもりだったけど」あてもなく歩いていると、
「あれ、ツヅリ?何してるの?」
貘がたまたま通りかかった。
「⋯⋯まったく、どうしてこういうときだけ都合よく現れるんだい?」
少し呆れたように笑って、でも声はどこか安心していた。
「それより聞いてよツヅリ〜」
貘は最近の依頼の質の低さ、先程あった映画館の老人の話をした。
「フッ⋯⋯それは笑えるねぇ。記憶喰いなんて化物の所業だからね。⋯⋯でもあんた、その老人の依頼は受けな」
「⋯⋯あれは本気だったね。仕掛けはして来たよ。あとはそれに気づくかだけだね」
「あたしもついて行ってやるから、やりなよ」
「まぁ正直やらなくてもいいかなって思うけど、やることになるだろうからね〜」
ふたりはヒカリ座に向かった。
貘が出て行ったあとも、老人は映画館の座席に座っていた。
(後悔が無いと言えば嘘になる。でも、ヒカリ座は私の一部。最後を思い出と一緒に過ごそう)
老人はあのときの映画のフィルムを取り出し、映写機にセットした。
照明が暗くなり、スクリーンに映像が映し出される。
そのとき、老人はスクリーンの端に何かがついているのに気づいた。
座席のある階に降り、それを見た。
その紙には、
あなたの記憶、喰います
と、殴り書きで書いてあった。
「夢が⋯⋯叶うのか?」
老人はそれを剥がし、縋る気持ちで裏面を見た。
「「目が合いましたね」」
耳元とチラシから聞こえる声。
その瞬間、辺りは一面闇に包まれた。
「おじいさん。願い、叶えに来ました」
貘は老人の額に右手を翳し、目を瞑る。
「君はさっきの若者⋯⋯」
「確認します。この映画館が開館した日、親しい人達を集めて貸切で観た、映画の記憶。これを喰えばいいですね?」
「⋯⋯あぁ、頼む」
「分かりました。いただきます」
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賑やかな館内。
町内の商店の人達、友人、彼女。
皆が上映を心待ちにしている。
若き日の老人が、スクリーンの前に立つ。
「皆様、お忙しい中、お集まり頂きありがとうございます。こうしてヒカリ座を開館出来たのは、皆様のおかげです。改めて御礼申し上げます」
「おい正(ただし)!固いぞ!」
「早く映画観せろ!」
皆が笑顔で野次を飛ばす。
「分かったよ⋯⋯それでは、ごゆっくりご鑑賞下さい」
照明が落ち、スクリーンに映像が映し出される。
今でいう恋愛映画のような内容。
「うお〜この女優美人だなぁ〜」
「うるせぇ!静かにしろ!」
時々こんな会話も聞こえる中、正も座席に座って映画を観ている。
右隣から小声で、
「正さん、おめでとう。私も嬉しい」
と、声をかけたのは、昌代。
「ありがとう、昌代」
ふたりは座席の下で手を握り合い、それは上映終了まで続いた。
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「作り物って味しないし、喰ってる感覚もないんだけど⋯⋯これは見た目が違うんだよなぁ。ピカピカっていうか⋯⋯」
貘はそれを喰い終えた。
「ごちそうさまでした」
指を鳴らすと闇は消え、館内の景色が戻った。
「ここは⋯⋯私は何を⋯⋯」
「やぁおじいさん、最後の上映会するんでしょ?僕らも後ろのほうで観てもいいかな?」
「さっきの若者⋯⋯あぁ、そうだった。老人の戯言を聞いてくれたからね、観て行ってください。で、お隣は?」
「あたしはツヅリだよ。こいつが世話になったね。ふたりでちゃんと見届けさせてもらうよ」
「ほぉ、着物がよく似合う美人だ。お似合いのふたりだね」
正は柔らかい笑顔を見せた。
「そ、そうかい?こいつはガキ過ぎて困ってるくらいだよ」
「ツヅリ、この場は僕を立てるべきだよ?」
「は?」
「文句ある?」
ふたりは睨み合う。
正が間に入り、
「まぁまぁ。ケンカするほど仲が良い。よし、上映の準備をして来るか⋯⋯待てよ、何の映画だった?みんなで観たあの映画⋯⋯」
貘は知ってるような口で、
「今、映写機に入ってるフィルムそのまま流せば大丈夫だよ」
「そうですか⋯⋯分かりました」
照明が暗くなり、スクリーンに映像が映し出される。
正は座席に戻り、映画を観る。
(こんなに古い映画をどうして最後に⋯⋯しか
も恋愛映画なんて⋯⋯)
「⋯⋯正さん。⋯⋯正さん?」
隣には若き日の昌代がいた。
「昌代⋯⋯どうして?」
「何言ってるの?あなたが上映会するって言ったのよ?ねぇみんな?」
周りには友人や商店の人達が、あの頃のままそこにいた。
「正!随分老け込んだな!」
「でも正ってすぐ分かるな」
「俺達もたくさん映画観させてもらったな」
「無くなるのは寂しいけどな⋯⋯」
「正、お疲れさん!ありがとうな!」
正は自然と涙が溢れた。
昌代は正の手を取り、
「私は映画が大好きなあなたがずっと好きでした。もちろんヒカリ座も。もっとあなたの妻として一緒にいたかった」
「昌代⋯⋯昌代⋯⋯」
正は嗚咽を漏らした。
「昌代⋯⋯私ももう少しでそっちに行くから。そのときは⋯⋯ふたりでヒカリ座をやろう⋯⋯」
昌代は目を細めて、
「はい、よろしくお願いします」
と、優しく言った。
映画が終わり、正は袖で涙を拭いた。
周りを見回してみたが、誰もいなかった。
若者とツヅリの姿も無かった。
「⋯⋯若者、ありがとう。最後に相応しい上映会だった」
正はただ、満足そうに、スクリーンを見つめた。
「もうさぁ、結局便利使いだったんじゃないの?」
貘は自分の仕事に満足していないようだ。
「少なくとも、あたしが知ってる中では一番の仕事したんじゃないかい?いい色の滲み方が凄かったよ」
「いいよねツヅリは。そういう変化が分かってさ」
「記憶を喰ったあとだって変化してるだろ?あんたは気分屋過ぎるんだよ」
貘は背伸びをしながら、
「あーあ、正解ってあるのかな〜」
と、投げやりになった。
「それが分かりゃあたしらだってこんな苦労しないよ。人間ってのは複雑だよ」
「じゃあさ、僕らの苦労を映画にしない?タイトルは⋯⋯ズバリ!『貘とツヅリ』!」
「⋯⋯内容が全く分からないつまらない題名だね。それよりもどうしてあたしが後なのさ。『ツヅリと貘』だろ?」
「つまらないっていう割には自分を先にしろって⋯⋯けっこう乗り気じゃん」
「あんたがどうでもいいこと言ってくるからだろ!」
「どうでもいいって何だよ!」
この罵り合いはアジトに着くまでずっと続いた。
初夏の夕陽を浴びながら。