曇天。
空は落ちてきそうなくらい近く、湿気が喉の奥にまとわりつく。
駅前のロータリー。
そこに置かれた古びたベンチに、貘が一人、座っていた。
両肘を背もたれにかけ、ぐでっと伸びた姿勢。
「うーん⋯⋯つまらない」
通行人の流れをぼんやりと目で追いながら、貘は独り言を呟く。
「笑ってる人、怒ってる人、疲れてる人⋯⋯うん、いつも通り。こういうときってなーんにも起こらないんだよなぁ」
目を細めながらも、どこか暇を楽しんでいるような口調。
「でも最近、何となく区別がつけられる気がするんだよなー⋯⋯ん?」
ふと視線を横に向けた瞬間──
カツ、カツ、と、アスファルトを叩く音が聞こえてきた。
細身の女性。
白杖を手にしながら、貘の座るベンチのすぐ前まで来る。
女性は一度、杖の先でベンチの脚をコツンと確かめると、
「失礼するわね。⋯⋯ここ、空いてるかしら?」
と、貘に話しかけた。
「え、あ⋯⋯はい、まぁ」
貘は少し面喰ったように返事をする。
「天気のせいかしら。今日はなんだか、空気が重いわね」
そう女性が言いながら、ベンチに座った。
貘はちゃんと座り直して、
「そうですね〜」
と、合わせるだけだった。
「あなた、人じゃないのね」
女性はそう言って、まっすぐ前を向いたまま、柔らかく微笑んだ。
貘は一瞬固まった。
普通の人間ですら分からないのに。
「⋯⋯どうしてそう思います?」
貘はじっと、彼女の横顔を見つめた。
その瞳は揺れず、何も映していないはずなのに──なぜか、自分を見透かされているような気がした。
「空気がね、あなたには無いの。人が形作る空気が」
「⋯⋯空気?」
女性は微笑んだまま、
「ごめんなさい、分かりづらいわね。見ての通り、私は目が見えない。生まれたときからね。だから、視覚以外の感覚に頼るしか無いの。そうしたら、五感と言われるもの以外の感覚が身についたの」
「例えば、『何かを隠してる人の呼吸』。『孤独な人の沈黙』。それから、『生きてるのに生きていない空気』」
貘は言葉を返さなかった。
その“空気”が、まさに自分自身を指しているから。
女性はわずかに首を巡らせる。
「だからね、すぐ分かったの。あぁ、人じゃない、って」
「⋯⋯僕に興味があるんですか」
「そうね。端から見れば人と人が話してる。でも、片方は本当は人じゃない。この場で分かってるのは私だけ。面白いわよね?」
その言葉に、貘は目を細めた。
「⋯⋯あなた、本当に見えてないんですか?」
女性は、白杖を軽く握り直す。
「もちろん。だから白杖を持ってるのよ⋯⋯でも、実際はこれが無くてもある程度の生活が出来るわ。白杖はね、私の盾みたいなもの」
「盾?」
「ええ。“目が見えない人”として扱われるための道具よ。これを持っていれば、周囲は勝手に私を“守られるべき存在”だと思ってくれる」
「でもね──私の中には、守られてきた記憶なんて、ほとんど無いの」
女性は空を仰ぐように、ほんの少し顔を上げた。
「哀れみ、拒絶、侮蔑、無関心。目が見えなくても、それらがどんな色をしていたか、ずっと感じてきたわ」
「⋯⋯見えないって怖いですか?」
貘が恐る恐る聞くと、女性はかすかに微笑んだ。
「ねぇ、あなたは“風”が見える?」
「⋯⋯見えません」
「でも感じるでしょう?冷たさや、優しさ。時には暴力のような強さも。私にとって“世界”は、そんな風に触れるようなものなの」
「だけどね、それでも──“誰かの目”は、鋭く刺さるのよ。見えないのに、ちゃんと痛い」
貘は、見えない世界の想像がつかなかった。目を瞑るだけでは辿り着けない。
闇よりも深いのか、それとも何か見えるのか。
「⋯⋯ねぇあなた、視界以外にも見えるものはある?」
その問いかけは、まるで空気を裂くようだった。
貘は、背筋に冷たい何かが這い上がるのを感じた。
目の前の女性が、ただの“見えない人”ではないと──もっと本質的な何かを、こちらより深く、静かに“視て”いるのではないかと、そんな錯覚すら覚えた。
彼女の声には、確信があった。
それが笑っていても、貘の本能は警鐘を鳴らしている。
(──目が見えないのに、なぜこんなにも「見透かされている」と感じるんだ?)
そう、まるで“術式の内側”に、自分が入り込まれているかのような──。
「僕がそれを見れるとしたら⋯⋯どうしたいですか?」
貘の声は、いつになく低く、迷いを含んでいた。
女性はその言葉を聞いて、少しだけ口元を緩めた。
「一度体験してみない?私の世界を」
「ははっ⋯⋯ちょっと急過ぎるかな〜。心の準備が⋯⋯ねぇ」
貘は戯けてみせるが、内心恐怖すら感じていた。
「あらそう?じゃあまた今度かしらね。私は今週末、この時間にここにいるわ。そのときに見てもらおうかしら」
「う、うん。考えておくね〜。あ、一応名乗っておくね。僕は貘。あなたは?」
「私はユカリよ」
「ユカリさんね⋯⋯じゃあ、僕ちょっと行くところあるので⋯⋯また⋯⋯」
貘はそそくさと立ち上がり、一礼した。
「はい、またね。」
ユカリは軽く手を振り、
「⋯⋯きっと、あなたの為になるわ」
と、呟いた。
──背中にひやりとした風が通り抜ける。
貘はその言葉に返事をしなかった。
出来なかった。
あの言葉は、明るく微笑んで放たれたのに、まるで“契約”のような重みを持っていたから。
(あの人⋯⋯なんだ? 本当に“人間”なのか?)
歩きながらも、頭の中で警鐘が鳴りやまない。術式は展開していない。記憶も喰っていない。けれど──
(あの人、僕の内側に触れようとしてきた)
思わず手袋の下で手が汗ばんだ。
視えないくせに、いや、視えないからこそ、あんなにも鋭く、深く。
貘はアジトへの道を早足で歩き出した。
──その足音を、遠くベンチに残るユカリが、そっと耳で追っていた。
表情は変えず、白杖を静かに握りしめながら。
(待ってるわ。食べてくれるのを)
貘は誰かに追われていたかのように、アジトのドアを開け、勢いよく閉めた。
息が上がり、動悸が治まらない。
「どうしたんだい?警察にでも追われたかい?」
ツヅリはこれでも一応心配している。
「ツヅリ⋯⋯駅前でヤバい女に会ったんだ⋯⋯」
「もしかして美人局かい?あんたも馬鹿だねぇ」
ツヅリは笑いながら紅茶を淹れた。
「違うんだ。目が見えないんだけど⋯⋯なんか全部“見えてる”みたいな女でさ⋯⋯」
貘はソファに倒れこむように座り、白い手袋を外して額の汗をぬぐった。
ツヅリはカップを置く音も優雅に、カチャリと響かせる。
「“僕が人じゃない”ってすぐに見抜いてさ。あれはもう、なんか⋯⋯“触られた”感じなんだよ。中身に」
「触られたねぇ。ま、確かに珍しい感触ではあるか」
ツヅリは紅茶の湯気越しに、やや真面目な視線を送る。
「名前は?」
「ユカリって名乗ってた。今週末、また会いに来いってさ」
「行くのかい?」
貘はしばらく黙ってから、かすかに笑って言った。
「⋯⋯行くしかない気がする。僕が何者か、ちょっと分かる気がするんだ」
「ふぅん。じゃあ、あたしも一緒に行ってやるよ。何かあったら、助けられるようにね」
貘はツヅリの言葉に、いつもと少し違う、頼もしさを感じた。
──曇天はまだ続いていたが、週末は、晴れるような気がしていた。
週末。空はまだ曇ったままだったが、雨は降っていない。
貘とツヅリは駅前のベンチへと向かう。
「なぁあんた、緊張してるのかい?らしくないねぇ」
ツヅリはいつものように茶化す。
「今までの人間とは訳が違うからね。下手したらどうなるか分からないよ」
「⋯⋯どうなるか分からない、ねぇ」
ツヅリはその言葉を繰り返しながら、ちらりと横目で貘を見る。
「あんたはこのあと、何があっても後悔しないって言い切れるかい?」
「どうだろうね⋯⋯」
貘はそれ以上何も言えなかった。
ふたりは駅前のベンチに着いた。
ロータリーは平日のような騒がしさはなく、人の流れもまばらだ。
そして──カツ、カツ、と、白杖の音が、曇天の下に静かに響いた。
「⋯⋯来た」
貘の声に、ツヅリも静かに視線を向ける。
ユカリはふたりに向かって、まっすぐに歩いてくる。
目が見えないはずなのに、その足取りは迷いが無く、まるで“そこにふたりがいる”と、確信しているようだった。
「⋯⋯ちゃんと来てくれて嬉しいわ。あなたも、そしてそちらの方も」
「初めまして、あたしはツヅリ。こいつが世話になったみたいで」
ツヅリは深く一礼した。
ユカリはその気配にかすかに笑う。
「ご丁寧にありがとう。⋯⋯ねえ、貘くん。今日は“来ただけ”じゃないんでしょう?」
「⋯⋯ええ、見せてもらいに来ました。“あなたの世界”を」
ユカリはこの前と同様に、杖の先でベンチの脚をコツンと確かめる。
そして、ベンチに座った。貘とツヅリもその隣に座る。
(鮮やかな色も澱みもある。普通の人間とほぼ変わらないね。ただ⋯⋯このうねりは何だろうね⋯⋯)
「貘くん、ちょっと握手してくださる?」
ユカリは手を差し出した。
「はぁ⋯⋯」
貘も手袋を外し、手を差し出す。
手と手が触れた瞬間。
周囲が一面闇に包まれる。
「術式!?チラシも無しでどうして?」
貘は目の前の出来事に動揺を隠せない。
それは真っ暗ではない。
黒一色ではない。
けれど、色も、形も、音も、うねりのように静かに揺れていた。
「⋯⋯ようこそ、こちら側へ」
ユカリの声が反響する。
「⋯⋯これが見えない世界⋯⋯記憶の形が無い⋯⋯」
「ねぇ、貘くんには、“記憶”ってどう見えているの?」
「⋯⋯いつもは、映像だよ。音と映像と、感情が合わさって流れてくる。だけどこれは──全然違う」
「でしょう?でもね、それでも私は、ちゃんと記憶してきたの。」
「ねぇ、貘くん。私の記憶を食べて」
ユカリの声は静かで、まっすぐだった。
それは懇願でも命令でもない。
ただ、ずっと胸の奥にしまっていた願いを、やっと口にできた人の声だった。
「哀れみ、拒絶、侮蔑、無関心。それでも私は、“人間”として、そこにいていいと⋯⋯誰かに、認めてほしかったの」
貘はうねりを手で掻き分ける。
すると、霞のような塊が震えていた。
その中から音が聞こえた。
‐‐‐‐‐‐
カツ、カツ、という音。杖で探りながら歩いているようだ。
「痛っ!」
「あっ、すみません」
「⋯⋯チッ!こんなとこ歩いてんじゃねぇよ」
(⋯⋯私は歩いちゃいけないのかな)
電車の中。
ただ席に座っているだけなのに。
「ねぇ、あの人目が変だよ」
「見えないんでしょ、可哀想に」
「真っ暗で怖くないのかな?」
(⋯⋯私だって好きでこうなった訳じゃない)
「私、あなたが好きです。よかったら⋯⋯」
「ごめん。俺には荷が重いよ」
(⋯⋯私は人を好きになっちゃいけないんだ)
「可哀想」
「邪魔だ」
「うろちょろするな」
「身分を弁えろ」
四方八方から心無い言葉が響く。
彼女が受けてきたのは、“目が見えないこと”じゃない。“誰にも肯定されなかったこと”──
「ねぇ貘くん。私が“人間”だって、あなたの手で証明してほしいの」
──その声が、心に刺さる。
「自信が無いのは初めてだよ」
貘は闇雲に辺りを掴む。
感触は無いが、口に運ぶ。
もちろん味は無い。
ただ、喉を通る感覚はある。
棘の塊を飲み込んでいるような、痛みにも似た感覚。
「うっ⋯⋯酷すぎる。これ以上のものは⋯⋯もう、喰いたくない」
いつものような余裕は無い。
ただがむしゃらにもがき、掴み、喰う。
「がはっ!⋯⋯くっ⋯⋯」
貘は血を吐いた。
「はぁ、はぁ⋯⋯僕は、何を喰ってるんだろうね」
──そんな問いが、喉の奥に残ったままだった。
それでもただ、記憶を、喰う。
それだけが自分の存在の証明。
そして、ユカリの存在の証明も。
どれだけ喰い続けただろうか。
貘は立つことすらままならなくなった。
まだ少しだけ心無い言葉が聞こえる。
「⋯⋯全部喰わなきゃ⋯⋯」
虚ろな目で、口から血を流しながら、暗いうねりに手を伸ばす。
「⋯⋯貘くん。もういいの」
貘の耳元でユカリの声がする。
「⋯⋯まだ終わってない⋯⋯」
「ううん、貘くんのおかげで、私は私でいていいって⋯⋯ごめんなさい。こんなボロボロになるまで⋯⋯」
「⋯⋯人使いが荒いよ。まったく」
貘は薄ら笑いを浮かべたが、何かが満たされたような気がした。
一面の闇は消え、駅前の景色が戻った。
貘は気を失い、身体をユカリに預けた。
「⋯⋯ふたりとも大丈夫かい?」
傍にいたツヅリは心配そうに気遣う。
「私は⋯⋯この世界にいていいって⋯⋯貘くんが認めてくれたの⋯⋯」
ユカリは貘を抱きしめた。
「⋯⋯そうかい。こいつがねぇ。柄にも無いことして」
「⋯⋯ツヅリさん。貘くんはとても不器用なのね」
「あぁ、どうしようもない奴さ」
ツヅリは軽く笑った。
「⋯⋯貘くんが起きるまでこうしていていいかしら?」
「好きにするといいさ。後で私が笑ってやるよ」
3人が座るベンチが日差しを受ける。
思っていた通り、空は晴れていた。