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第7話 光の射す方へ

曇天。


空は落ちてきそうなくらい近く、湿気が喉の奥にまとわりつく。


駅前のロータリー。

そこに置かれた古びたベンチに、貘が一人、座っていた。

両肘を背もたれにかけ、ぐでっと伸びた姿勢。



「うーん⋯⋯つまらない」



通行人の流れをぼんやりと目で追いながら、貘は独り言を呟く。


「笑ってる人、怒ってる人、疲れてる人⋯⋯うん、いつも通り。こういうときってなーんにも起こらないんだよなぁ」


目を細めながらも、どこか暇を楽しんでいるような口調。


「でも最近、何となく区別がつけられる気がするんだよなー⋯⋯ん?」

ふと視線を横に向けた瞬間──


カツ、カツ、と、アスファルトを叩く音が聞こえてきた。


細身の女性。

白杖を手にしながら、貘の座るベンチのすぐ前まで来る。


女性は一度、杖の先でベンチの脚をコツンと確かめると、

「失礼するわね。⋯⋯ここ、空いてるかしら?」


と、貘に話しかけた。


「え、あ⋯⋯はい、まぁ」

貘は少し面喰ったように返事をする。


「天気のせいかしら。今日はなんだか、空気が重いわね」

そう女性が言いながら、ベンチに座った。


貘はちゃんと座り直して、

「そうですね〜」

と、合わせるだけだった。



「あなた、人じゃないのね」 



女性はそう言って、まっすぐ前を向いたまま、柔らかく微笑んだ。


貘は一瞬固まった。

普通の人間ですら分からないのに。


「⋯⋯どうしてそう思います?」


貘はじっと、彼女の横顔を見つめた。

その瞳は揺れず、何も映していないはずなのに──なぜか、自分を見透かされているような気がした。


「空気がね、あなたには無いの。人が形作る空気が」


「⋯⋯空気?」


女性は微笑んだまま、

「ごめんなさい、分かりづらいわね。見ての通り、私は目が見えない。生まれたときからね。だから、視覚以外の感覚に頼るしか無いの。そうしたら、五感と言われるもの以外の感覚が身についたの」


「例えば、『何かを隠してる人の呼吸』。『孤独な人の沈黙』。それから、『生きてるのに生きていない空気』」


貘は言葉を返さなかった。

その“空気”が、まさに自分自身を指しているから。


女性はわずかに首を巡らせる。

「だからね、すぐ分かったの。あぁ、人じゃない、って」


「⋯⋯僕に興味があるんですか」


「そうね。端から見れば人と人が話してる。でも、片方は本当は人じゃない。この場で分かってるのは私だけ。面白いわよね?」


その言葉に、貘は目を細めた。


「⋯⋯あなた、本当に見えてないんですか?」


女性は、白杖を軽く握り直す。


「もちろん。だから白杖を持ってるのよ⋯⋯でも、実際はこれが無くてもある程度の生活が出来るわ。白杖はね、私の盾みたいなもの」


「盾?」


「ええ。“目が見えない人”として扱われるための道具よ。これを持っていれば、周囲は勝手に私を“守られるべき存在”だと思ってくれる」


「でもね──私の中には、守られてきた記憶なんて、ほとんど無いの」


女性は空を仰ぐように、ほんの少し顔を上げた。


「哀れみ、拒絶、侮蔑、無関心。目が見えなくても、それらがどんな色をしていたか、ずっと感じてきたわ」


「⋯⋯見えないって怖いですか?」


貘が恐る恐る聞くと、女性はかすかに微笑んだ。


「ねぇ、あなたは“風”が見える?」


「⋯⋯見えません」


「でも感じるでしょう?冷たさや、優しさ。時には暴力のような強さも。私にとって“世界”は、そんな風に触れるようなものなの」


「だけどね、それでも──“誰かの目”は、鋭く刺さるのよ。見えないのに、ちゃんと痛い」


貘は、見えない世界の想像がつかなかった。目を瞑るだけでは辿り着けない。

闇よりも深いのか、それとも何か見えるのか。


「⋯⋯ねぇあなた、視界以外にも見えるものはある?」


その問いかけは、まるで空気を裂くようだった。


貘は、背筋に冷たい何かが這い上がるのを感じた。

目の前の女性が、ただの“見えない人”ではないと──もっと本質的な何かを、こちらより深く、静かに“視て”いるのではないかと、そんな錯覚すら覚えた。


彼女の声には、確信があった。

それが笑っていても、貘の本能は警鐘を鳴らしている。


(──目が見えないのに、なぜこんなにも「見透かされている」と感じるんだ?)


そう、まるで“術式の内側”に、自分が入り込まれているかのような──。


「僕がそれを見れるとしたら⋯⋯どうしたいですか?」


貘の声は、いつになく低く、迷いを含んでいた。


女性はその言葉を聞いて、少しだけ口元を緩めた。


「一度体験してみない?私の世界を」


「ははっ⋯⋯ちょっと急過ぎるかな〜。心の準備が⋯⋯ねぇ」


貘は戯けてみせるが、内心恐怖すら感じていた。


「あらそう?じゃあまた今度かしらね。私は今週末、この時間にここにいるわ。そのときに見てもらおうかしら」


「う、うん。考えておくね〜。あ、一応名乗っておくね。僕は貘。あなたは?」


「私はユカリよ」


「ユカリさんね⋯⋯じゃあ、僕ちょっと行くところあるので⋯⋯また⋯⋯」


貘はそそくさと立ち上がり、一礼した。


「はい、またね。」

ユカリは軽く手を振り、


「⋯⋯きっと、あなたの為になるわ」

と、呟いた。


──背中にひやりとした風が通り抜ける。


貘はその言葉に返事をしなかった。

出来なかった。

あの言葉は、明るく微笑んで放たれたのに、まるで“契約”のような重みを持っていたから。


(あの人⋯⋯なんだ? 本当に“人間”なのか?)

歩きながらも、頭の中で警鐘が鳴りやまない。術式は展開していない。記憶も喰っていない。けれど──


(あの人、僕の内側に触れようとしてきた)


思わず手袋の下で手が汗ばんだ。

視えないくせに、いや、視えないからこそ、あんなにも鋭く、深く。


貘はアジトへの道を早足で歩き出した。


──その足音を、遠くベンチに残るユカリが、そっと耳で追っていた。

表情は変えず、白杖を静かに握りしめながら。


(待ってるわ。食べてくれるのを)





貘は誰かに追われていたかのように、アジトのドアを開け、勢いよく閉めた。

息が上がり、動悸が治まらない。


「どうしたんだい?警察にでも追われたかい?」

ツヅリはこれでも一応心配している。


「ツヅリ⋯⋯駅前でヤバい女に会ったんだ⋯⋯」


「もしかして美人局かい?あんたも馬鹿だねぇ」

ツヅリは笑いながら紅茶を淹れた。


「違うんだ。目が見えないんだけど⋯⋯なんか全部“見えてる”みたいな女でさ⋯⋯」


貘はソファに倒れこむように座り、白い手袋を外して額の汗をぬぐった。

ツヅリはカップを置く音も優雅に、カチャリと響かせる。


「“僕が人じゃない”ってすぐに見抜いてさ。あれはもう、なんか⋯⋯“触られた”感じなんだよ。中身に」


「触られたねぇ。ま、確かに珍しい感触ではあるか」


ツヅリは紅茶の湯気越しに、やや真面目な視線を送る。


「名前は?」


「ユカリって名乗ってた。今週末、また会いに来いってさ」


「行くのかい?」


貘はしばらく黙ってから、かすかに笑って言った。


「⋯⋯行くしかない気がする。僕が何者か、ちょっと分かる気がするんだ」


「ふぅん。じゃあ、あたしも一緒に行ってやるよ。何かあったら、助けられるようにね」


貘はツヅリの言葉に、いつもと少し違う、頼もしさを感じた。


──曇天はまだ続いていたが、週末は、晴れるような気がしていた。





週末。空はまだ曇ったままだったが、雨は降っていない。

貘とツヅリは駅前のベンチへと向かう。


「なぁあんた、緊張してるのかい?らしくないねぇ」

ツヅリはいつものように茶化す。


「今までの人間とは訳が違うからね。下手したらどうなるか分からないよ」


「⋯⋯どうなるか分からない、ねぇ」

ツヅリはその言葉を繰り返しながら、ちらりと横目で貘を見る。


「あんたはこのあと、何があっても後悔しないって言い切れるかい?」


「どうだろうね⋯⋯」

貘はそれ以上何も言えなかった。


ふたりは駅前のベンチに着いた。

ロータリーは平日のような騒がしさはなく、人の流れもまばらだ。

そして──カツ、カツ、と、白杖の音が、曇天の下に静かに響いた。


「⋯⋯来た」


貘の声に、ツヅリも静かに視線を向ける。

ユカリはふたりに向かって、まっすぐに歩いてくる。

目が見えないはずなのに、その足取りは迷いが無く、まるで“そこにふたりがいる”と、確信しているようだった。


「⋯⋯ちゃんと来てくれて嬉しいわ。あなたも、そしてそちらの方も」


「初めまして、あたしはツヅリ。こいつが世話になったみたいで」


ツヅリは深く一礼した。

ユカリはその気配にかすかに笑う。


「ご丁寧にありがとう。⋯⋯ねえ、貘くん。今日は“来ただけ”じゃないんでしょう?」


「⋯⋯ええ、見せてもらいに来ました。“あなたの世界”を」


ユカリはこの前と同様に、杖の先でベンチの脚をコツンと確かめる。

そして、ベンチに座った。貘とツヅリもその隣に座る。


(鮮やかな色も澱みもある。普通の人間とほぼ変わらないね。ただ⋯⋯このうねりは何だろうね⋯⋯)


「貘くん、ちょっと握手してくださる?」

ユカリは手を差し出した。


「はぁ⋯⋯」

貘も手袋を外し、手を差し出す。




手と手が触れた瞬間。



周囲が一面闇に包まれる。





「術式!?チラシも無しでどうして?」

貘は目の前の出来事に動揺を隠せない。


それは真っ暗ではない。

黒一色ではない。

けれど、色も、形も、音も、うねりのように静かに揺れていた。


「⋯⋯ようこそ、こちら側へ」


ユカリの声が反響する。


「⋯⋯これが見えない世界⋯⋯記憶の形が無い⋯⋯」


「ねぇ、貘くんには、“記憶”ってどう見えているの?」


「⋯⋯いつもは、映像だよ。音と映像と、感情が合わさって流れてくる。だけどこれは──全然違う」


「でしょう?でもね、それでも私は、ちゃんと記憶してきたの。」


「ねぇ、貘くん。私の記憶を食べて」


ユカリの声は静かで、まっすぐだった。

それは懇願でも命令でもない。

ただ、ずっと胸の奥にしまっていた願いを、やっと口にできた人の声だった。


「哀れみ、拒絶、侮蔑、無関心。それでも私は、“人間”として、そこにいていいと⋯⋯誰かに、認めてほしかったの」


貘はうねりを手で掻き分ける。

すると、霞のような塊が震えていた。

その中から音が聞こえた。


‐‐‐‐‐‐


カツ、カツ、という音。杖で探りながら歩いているようだ。


「痛っ!」


「あっ、すみません」


「⋯⋯チッ!こんなとこ歩いてんじゃねぇよ」


(⋯⋯私は歩いちゃいけないのかな)




電車の中。

ただ席に座っているだけなのに。


「ねぇ、あの人目が変だよ」


「見えないんでしょ、可哀想に」


「真っ暗で怖くないのかな?」


(⋯⋯私だって好きでこうなった訳じゃない)





「私、あなたが好きです。よかったら⋯⋯」


「ごめん。俺には荷が重いよ」


(⋯⋯私は人を好きになっちゃいけないんだ)




「可哀想」

「邪魔だ」

「うろちょろするな」

「身分を弁えろ」




四方八方から心無い言葉が響く。

彼女が受けてきたのは、“目が見えないこと”じゃない。“誰にも肯定されなかったこと”──


「ねぇ貘くん。私が“人間”だって、あなたの手で証明してほしいの」


──その声が、心に刺さる。


「自信が無いのは初めてだよ」


貘は闇雲に辺りを掴む。

感触は無いが、口に運ぶ。

もちろん味は無い。

ただ、喉を通る感覚はある。

棘の塊を飲み込んでいるような、痛みにも似た感覚。


「うっ⋯⋯酷すぎる。これ以上のものは⋯⋯もう、喰いたくない」


いつものような余裕は無い。

ただがむしゃらにもがき、掴み、喰う。


「がはっ!⋯⋯くっ⋯⋯」

貘は血を吐いた。


「はぁ、はぁ⋯⋯僕は、何を喰ってるんだろうね」


──そんな問いが、喉の奥に残ったままだった。

それでもただ、記憶を、喰う。

それだけが自分の存在の証明。

そして、ユカリの存在の証明も。


どれだけ喰い続けただろうか。

貘は立つことすらままならなくなった。

まだ少しだけ心無い言葉が聞こえる。


「⋯⋯全部喰わなきゃ⋯⋯」


虚ろな目で、口から血を流しながら、暗いうねりに手を伸ばす。


「⋯⋯貘くん。もういいの」


貘の耳元でユカリの声がする。


「⋯⋯まだ終わってない⋯⋯」


「ううん、貘くんのおかげで、私は私でいていいって⋯⋯ごめんなさい。こんなボロボロになるまで⋯⋯」


「⋯⋯人使いが荒いよ。まったく」


貘は薄ら笑いを浮かべたが、何かが満たされたような気がした。



一面の闇は消え、駅前の景色が戻った。


貘は気を失い、身体をユカリに預けた。


「⋯⋯ふたりとも大丈夫かい?」

傍にいたツヅリは心配そうに気遣う。


「私は⋯⋯この世界にいていいって⋯⋯貘くんが認めてくれたの⋯⋯」

ユカリは貘を抱きしめた。


「⋯⋯そうかい。こいつがねぇ。柄にも無いことして」


「⋯⋯ツヅリさん。貘くんはとても不器用なのね」


「あぁ、どうしようもない奴さ」

ツヅリは軽く笑った。


「⋯⋯貘くんが起きるまでこうしていていいかしら?」


「好きにするといいさ。後で私が笑ってやるよ」




3人が座るベンチが日差しを受ける。

思っていた通り、空は晴れていた。

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