「ぷっ⋯⋯」
ツヅリは紅茶のカップを唇に当てたまま、肩を小さく震わせた。
「⋯⋯また?」
貘が怪訝そうに顔を覗き込むと、ツヅリはゆっくりと目を伏せ、咳払いをひとつ。
「“術式!?チラシも無しでどうして?”って、震える声で言ってたじゃないか。手も震えてたよねぇ?」
「あれは本当に怖かったんだよ。想定外だったし」
ツヅリは口元を抑え、何度か堪えた──だが限界だった。
「──っはははははっ! あー、だめだ、思い出したら、やっぱり耐えられないや!」
珍しく――いや、滅多にないほどの声でツヅリが笑った。
紅茶のカップをテーブルに戻し、椅子の背もたれに預けて肩を揺らしながら、楽しそうに。
「もう⋯⋯っ、あんた、あれで決めたつもりだったんだろ?真顔でさ⋯⋯っふふっ⋯⋯!」
「⋯⋯本気を馬鹿にするのは性格が悪すぎるよ。それにツヅリなら皮肉っぽく笑って済ませると思ってた」
「ごめんごめん。でもね⋯⋯」
ツヅリはようやく呼吸を整え、貘の方をじっと見た。
「なんだかんだで、あんた⋯⋯よくやったよ」
ほんの少しの間があって、貘は照れ隠しのように顔をそらした。
「⋯⋯あれ以外やりようがなかっただけだよ」
そのとき、テレビがつけっぱなしになっていたことにふたりはようやく気づく。
画面には、ある男のインタビューが流れていた。
「本日は、“変革の提唱者”としてSNSで話題となっている方にお越しいただきました。では、まずお名前を──」
「私を⋯⋯“人間になりたい生き物”とでも、呼んでください」
七三分けに眼鏡、スーツにネクタイと、世間一般で言う、「優等生」のような出で立ち。
「は⋯⋯はい? えー⋯⋯それは、つまりどういう意味なんでしょうか」
「定義を持たないものは、存在していないのと同じです。私は“人間”という形を望み、模倣し、近づいている。ただ、まだ“なれていない”」
「はぁ⋯⋯しかし、SNSなどではあなたの発言に“排除的”“独善的”との批判も──」
「当然です。“人間”とは曖昧で、優柔不断で、間違えますからね。“間違える自由”という言葉が、いかに怠惰を許容してきたか。私は、その矛盾に切り込んでいるだけです。ですが、あなたの信奉者たちによる“行動”については⋯⋯統計上──“人は9割、行動しない”と出ています。ならば私は“行動する1割”の象徴でなければならない。あなたも、本当は分かっているはずです。世界は“間違えない者”を求めている、と。あなたも、テレビの前の視聴者も──もう一度、自分が“本当に人間かどうか”考えてみるといい。許容という言葉がどれだけ人間を衰退させているか。怠惰の先に人間の未来などありません」
その男は、更に主張を続ける。
「人間は“優しさ”という名の曖昧さに甘えてきました。“間違えてもいい”という前提があるからこそ、進化は止まり、堕落は始まる。私は思うのです。“過ち”は、“正しさ”によって塗り替えられるべきだと。“個性”という言葉が、どれほど愚かで鈍重な思考停止を許してきたか──私はそれを知っている。先日ある青年が言いました。“人には事情がある”、と。では、事情があれば許されるのですか? 怠惰が、暴力が、放置されるべきなのですか?私は“人間の理想”を描いているだけです。誰かの失敗に寛容であることが、人間である証明なのでしょうか? だとしたら──私は人間になりたくはない。ですが、もし“人間”が、正しくあろうと努力する存在であるならば──私は、必ず“なってみせます”。それが、“進化”ですから。私が矢面に立てと言うのなら、喜んで立ちましょう。朝の来ない夜など無いのです。私が太陽となり、世界を照らす。人々よ、今こそ目覚めるのです。人間らしく、いや、人間として生きていくことに誇りを持とうじゃありませんか」
ふたりの緩やかな世界に差し込む雑音。
毛羽立った空気にツヅリがぼそっと呟いた。
「フッ⋯⋯笑えるね」
貘はソファに寝転び、愚痴る。
「ツヅリはそのイメージなんだよなぁ」
「えー、“人間になりたい生き物”さん、ありがとうございました。CMのあとは天気予報です」
その男のインタビューは、不穏な空気を残したまま終わった。
「今の男、人間じゃないね。色が無いよ。無色じゃなくてね」
「あれが人間だったら気持ち悪いなぁ。記憶も不味そうだし」
「⋯⋯もし対峙するときが来たらどうするんだい?」
「そんなの、こっちから願い下げだってば」
貘は嫌そうに舌を出した。
「そうだ。口直しに外に出て甘いもんでも食いに行かないかい?」
ツヅリは珍しく貘を誘った。
「僕は正直そこまでスイーツに興味無いんだよね。まぁ、でもいっか」
貘は起き上がり、背伸びをした。
ふたりは街へ繰り出した。
季節はすでに夏の様相。
そこらじゅうで蝉の鳴き声が響く。
駅の地下広場にあるベンチに、ふたりは腰を下ろしていた。
「⋯⋯ねぇツヅリ、食べ過ぎじゃない?」
「そうかい? この果物がたっぷり入った大福は最高だよ? あんたは食わないのかい?」
ツヅリは頬を膨らませたまま応える。
口の端には、あんこと粉がついていた。
「だから僕はスイーツなんて興味無いんだって」
満足そうな笑顔のツヅリと、しらけ顔の貘。
ふたりの対比が、この日の穏やかな時間を象徴していた。
「ツヅリ、そろそろ帰らな⋯⋯ん?」
行き交う人々の向こうから、幟を掲げた集団がやって来た。
全員が同じTシャツを着て、笑顔を浮かべている。
貘は一瞬で、強烈な嫌悪感を覚えた。
その中の女性が拡声器を持ち、喋り始めた。
「皆様、こんにちは。本日はこの広場で、SNSで話題の“人間になりたい生き物”先生の演説を行います。是非ご静聴ください」
その瞬間──空気が変わった。
場違いなほど明るい笑顔の集団と、無関心に通り過ぎていく人々。
誰も騒がない。
誰も怒らない。
ただ、場の“温度”だけがじりじりと下がっていく。
「⋯⋯なんだい、あれは」
ツヅリが不意に口をつぐんだ。
食べかけの大福を手に持ったまま、視線だけで群れを追う。
「目を凝らして見れば細かい色は人それぞれだけど⋯⋯粗方みんな一緒だね。個性が無いよ」
その集団の色は“均一”。
誰もが笑っているのに、誰一人として“感情”がなかった。
男たちが幟を掲げ、ひとりの人物を囲むように前へ進む。
七三分けに眼鏡、スーツにネクタイの男。
テレビの中にいたあの、“人間になりたい生き物”だった。
彼はゆっくりと手を掲げ、広場の中心へ立った。
「皆様、今日はお忙しい中、よくぞお集まりくださいました」
静かな声。
それなのに、全体がピタリと黙り込む。
「へぇ、面白い」
貘はにやりと微笑む。
「あんた、願い下げだって言ってたじゃないか」
「⋯⋯ここまであからさまにケンカ売られるなんてね。もっと“人間らしい”と思ってたんだけどなぁ」
気がつけば、広場の空気は“静止”していた。
周囲の雑踏さえ、まるでこの一角だけが“切り取られた世界”のように静まり返っている。
「本日、私はただ一つの問いを投げかけます」
「皆さんは──“人間”ですか?」