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第8話 暴喰(中編)

その声は、たしかに“演説”でありながら、どこか“宣告”にも似ていた。


「ケンカってどういうことだい?」


「あいつは⋯⋯簡単に言えば、この広場を自分の空間にしてる。その空間にいる人間に対して、演説⋯⋯いや、洗脳して駒を増やしてるんだろうね」


“人間になりたい生き物”は、周囲に訴えかけるように話し出した。


「この問いに対して、皆さんはほぼ100%、はいと答えるでしょう。どうして?と更に問えば、それぞれの理由を話すでしょう。人間から生まれたから。意思があるから。心があるから。笑うから、泣くから、誰かを愛したことがあるから。──それらは確かに、人間を形作る“要素”です。ですが、私からすればそれらは、ただの“習性”に過ぎません」


男は淡々と、まるで科学的事実を語るかのように言葉を重ねた。


「心を持つ動物も、言語に近い音を発する生物も存在します。では、その“違い”はどこにあるのでしょうか?」


「──答えは、“選択”です」


「正しさと過ちの境界を見極め、未来を“選び取ろうとする意志”。それこそが、“人間”の本質です。ですが、残念なことに。ほとんどの“自称・人間”は、その選択を放棄して生きています。社会や家族に流され、都合の良い言葉に甘え、自らの意思を見失っている。ある研究によれば──“人間は1日に平均で約3万5千の判断を行う”とされています。しかしそのうち、“自発的な選択”は、わずか3%に満たない。つまり97%は──無意識のうちに、他人に、社会に、流されている」


男の声が、ゆっくりと観衆の皮膚を撫でるように響く。


「アメリカの研究機関が発表した統計によると──“自己判断で責任を取れる人間”は、全体のわずか8%。残りの92%は、何か問題が起きたとき、“自分以外”の要因を探します。天気、体調、上司、政治⋯⋯では、私は問います。“そんな存在”を、果たして“人間”と呼べるのでしょうか?」


「──私は、違うと思います」


「責任とは、“選択”の結果であり、“人間”の証です。私は──“自分で選ぶ人間”を、肯定したい。そして“選ばない者”を──否定します」


「皆さん、“個性”とは何ですか? “自由”とは? “尊重”とは?それらは──“間違える権利”を正当化するための言葉に過ぎません」


「統計上、“自分の意見がある”と答えた人間の8割以上が、5人以上の前では発言をためらいます。“自分のままでいたい”と言いながら、“他人の視線”に怯える──それが“人間”の実態なのです」


「──皮肉な話だとは思いませんか?」


「ならば私が問う。“本当の人間”とは誰なのか?」


「弱さを肯定し、過ちを美化し、努力を“つらいこと”と呼び続けてきたあなたたちに、“人間”を名乗る資格はありますか?私は、進化します。“人間になりたい生き物”ではなく、“人間そのもの”になるために──そのために、怠惰を切り捨てましょう。愚鈍を見逃さず、無知を許さず、そして、“行動しない者”を──許さない。今、この広場にいるあなた方が、立ち上がれないのなら──あなた方はもう“人間”ではない。私はあなた方を、模倣すらしない。⋯⋯そして、存在を、否定する」


息を整えたあと、低い声で言い放った。





「私は“間違えない人間”に、なりたい」






信奉者たちは涙を流しながら万雷の拍手をした。

その空間に取り込まれた人々も、その演説に心酔しているようだった。


ツヅリは、口の中の甘みと共に、わずかに眉をひそめる。


「⋯⋯これに感動する要素なんてあったかい?帰って縫い物してるほうが有意義だったよ」


貘は十数メートル先にいる、“人間になりたい生き物”を睨みつける。


「へぇ、“間違えない人間”、ねぇ」


吐き捨てるような声。

視線に気づいたのか、その男はにやりと、勝ち誇ったような、下品な笑みを浮かべた。


そのとき、

「すみません!」


前列から声が上がった。

ひとりの青年が、おずおずと手を挙げていた。地味なシャツに、猫背の姿勢。

声の震えから、慣れない発言だと分かる。


「僕、すごく共感しました!あの⋯⋯その、僕も昔から、自分が人間らしくないって思ってて⋯⋯だから、その⋯⋯“正しくあろう”とする姿勢に感動して⋯⋯」


言葉は拙く、けれど真摯だった。


人間になりたい生き物は、にこやかに彼に視線を向けた。

そして、柔らかな声で答えた。


「ありがとう。とても純粋な言葉だ」


青年は目を見開き、少しだけほっとした表情を浮かべる。


だが──


「⋯⋯しかし、君は“人間”ではない」


「え⋯⋯?」


「君の発言は、自我ではなく“同調”から生まれたものだ。“みんなが拍手していたから”、だから言った。“誰かの言葉が強かったから”、だから信じた。“正しさ”を、自分で掴み取ったのではない」


「そ、それは⋯⋯ちが⋯⋯」


「違わない。君の声は震えていた。つまり、“間違えるかもしれない”という怯えがあった。君は“選択”ではなく、“服従”をしただけだ。それは、“人間になりたい”という意志ではない。“誰かに決めてほしい”という、受け身の本能だ」


青年の表情から血の気が引く。


「君のような存在が一番厄介だ。“共感”という言葉で思考を停止し、“感動”という感情で自分を許す。“分かる気がする”で、何も理解しようとしない。──“怠惰の形”だ」


「──帰りなさい。人の形をしただけの者よ」


青年は、その圧力に押しつぶされそうになった。


だが“人間になりたい生き物”は、何事もなかったように再び笑顔を浮かべた。


「それとも⋯⋯私が矯正してあげても構わないが?」


青年の周りを、笑顔の信奉者たちが囲む。


「あなたは、先生に選ばれたの」

「あぁ、なんて羨ましい⋯⋯」

「さぁ、私たちと共に人間のあるべき姿へと進もう」

「今からでも変われるわ」


「えっ⋯⋯ちょっと⋯⋯やめろ!離せ!」


青年はもがくも、四方から腕や肩を掴まれ、何処かへ連れて行かれた。


「さて⋯⋯まだ人間になりたい方がいるなら大歓迎ですよ?」


すると、群衆から次々と手が挙がり、自分の意志でそれに向かう人々。


“人間になりたい生き物”は笑顔でその様子を眺めていた。

その笑顔が、「正しさは感染する」そう言っているようで。

貘は、歯を食いしばった。


「⋯⋯おや、何やら浮かない顔の方がいらっしゃいますね」


“人間になりたい生き物”は、ゆっくりとこちらに顔を向け、近づいて来る。


「まさか、あなたも──人間になりたいと?」馬鹿にしたような口調で貘に話しかける。


「そもそも人間になんかなりたくないけど、お前の目指す人間にはもっとなりたくないね」

貘はずっと睨みつけたまま。


「ほぉ……では、あなたは“何”なのですか?」


「さぁね。知らないよ。分かっててもお前には言わない」


──静寂が、周囲を包んだ。


「⋯⋯知らない?答えを持たずに否定する。それはただの反発、思考停止です」


“人間になりたい生き物”は、なおも笑顔を崩さない。


「あなたのような存在こそ失敗作です。無知を認めず、感情のままに動き、自分が何者かも説明できない。そんな曖昧な存在を──私は“否定”します」


周囲にいた信奉者たちが、一斉に貘の方へ視線を向ける。

笑顔のまま、無言で圧をかける彼らは、すでに“人間”ではない“何か”だった。


ツヅリは、貘の横で立ち上がり、ゆっくりと言う。


「そのへんにしときな。あんたの“正しさ”は、あたしらには通用しないよ」


“人間になりたい生き物”はツヅリを一瞥し、目を細めた。


「あなたも、その曖昧な存在に肩入れするのですね。理解不能です」


そして、再び貘を見た。


「さあ、どうするのですか?“あなた”という存在は──いまここで、証明できるのですか?」


貘は立ち上がり、

「じゃあ分からせてよ。お前の言う人間を」


「⋯⋯いいでしょう。思っていたよりも聞き分けのいい方だ。私たちの本拠地へご案内しましょう。きっと、あなたは素晴らしい人間になれますよ」


すると、ツヅリは貘の腕を掴み、

「あんた本気で言ってんのかい?」


貘はしばらく何も言わなかった。

掴まれた腕を見て、ゆっくりツヅリに視線を向ける。


「⋯⋯分かってる。けど、あいつの“中身”を見ないと、次には進めない気がするんだよ」


その言葉に、ツヅリの表情がわずかに曇る。


「たとえ罠だとしても、僕が踏み込まなきゃいけない。“間違えない人間”ってやつの実態をさ──記憶でも、色でもない、何かがある気がする」


ツヅリはほんの一瞬、迷うように口をつぐんだが、やがて小さく息を吐いた。


「ったく、どうしようもない奴さ。⋯⋯あたしも行くよ」


貘はそれに小さく頷き、“人間になりたい生き物”のほうへ歩み出す。


その背に向けて、ツヅリはふっと笑って呟く。


「あんたにしちゃあ、頭に血が上ってるじゃないか」


──そして。


貘とツヅリは、“人間になりたい生き物”とともに、その“中枢”へと足を踏み入れる。



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