駅から少し外れた、歓楽街の一角にある雑居ビル。
他の建物の電飾のきらびやかさが、一層それを不気味に見せる。
エントランスから、エスカレーターで上の階に上がる。
ビル内の光は蛍光灯のようでいて、妙に白すぎた。
まるで“影を嫌う空間”に誘われているようだった。
「着きました」
“人間になりたい生き物”が振り返ると、その先には──整然と並べられた椅子、モニター、幟。
無機質なホールに、白いTシャツを着た信奉者たちがずらりと立っていた。
彼らは、ふたりの姿を見て、一斉に笑った。
まるでスイッチが入ったような、完璧なタイミングで。
「ようこそ、選ばれし者たちよ」
「ようこそ、選ばれし者たちよ」
「ようこそ、選ばれし者たちよ」
繰り返す。
声も、言葉も、笑顔さえも“同じ”。
その奇妙なハーモニーが、貘の胃の奥を軋ませる。
舞台の上に立つ“人間になりたい生き物”は、両手を広げていた。
「さあ、皆さん。本日も唱和を始めましょう。私たちの誓いを!」
信奉者たちが一斉に右手を胸に当てる。
「間違えないことが人間の証明──」
「感情に流されず、理性で選ぶ──」
「全ては進化のために──」
その“言葉の刃”は、まるで呪文のように、何度も何度も空間を切り裂いていく。
笑顔のまま、誰も瞬きすらしない。
「⋯⋯気持ち悪い」
貘がぼそっと呟くと、ツヅリが堪らず本音を漏らす。
「⋯⋯これが正しい人間?からくり人形の間違いじゃないかい?笑顔のまま、同じ言葉を繰り返すだけ。あんたの言う“間違えない人間”ってのは、自分で選ぶことすら放棄することなのかい?」
「それは聞き捨てなりませんね。それでは、こちらもご覧になりますか?」
“人間になりたい生き物”はその奥にある部屋へとふたりを案内した。
白い部屋。
目隠しと拘束具をつけられた複数名が、無音の中で座らされているのをマジックミラー越しに見る。
やがて、スピーカーから優しい声が流れる。
「あなたは間違えましたね。でも安心してください。間違いは修正できます。“正しくある努力”が、人間には必要なのです」
その声にかぶせるように、次の問いが流れる。
「あなたは“先生”の思想に同意しますか?」
「⋯⋯はい」
「声が小さいですね。心からの言葉でなければ、伝わりませんよ」
バチッ!感電のような刺激が身体を走る。
「があああああ!」
青年は叫ぶが、すぐにまた問われる。
「あなたは“人間”ですか?」
「⋯⋯わ、私は⋯⋯」
「まだ曖昧ですね。“間違える自由”を引きずっている」
再び、電流。
そのたびに、彼らの“答え”は先生の理想に近づいていく。
同じ答えを、何度も、何度も、何度も。
「どうですか?間違いは矯正すれば、正解に近づけることが出来ます。よろしければあなた方も是非体験してみませんか?」
“人間になりたい生き物”は、不敵な笑みでふたりに促す。
すると、貘は、
「⋯⋯もう分かった」
と、呟き、背を向けた。
「ほぉ、思っていたよりも本当に物分かりのいい方なんですね。ご理解頂けたようで」
「⋯⋯僕らに二度と関わるな」
「はぁ?自分からここに出向いておいてそのような戯言を。簡単に出られるとでも?」
その様子を見ていた信奉者たちは、同士を集め、数百名程が笑顔で貘に視線を送る。
「⋯⋯僕がさぁ、こんなこと言うとは思わなかったんだけどさぁ⋯⋯」
貘はゆっくりと、白手袋を外す。
「──ムカつくんだよね」
右手を、まっすぐ天井へ向ける。
その指先から、音もなく闇が広がっていく。
「おい、何だこれは?」
ざわつく信奉者たち。
「あんた⋯⋯その色⋯⋯何する気だい?」
声を震わせたツヅリが、初めて貘の中に見た色は、黒でも灰でもない──“焼け焦げる怒り”のような、漆黒の炎。
フロア一帯が闇に染まる。
その場を満たしていた斉唱の声が、一音ずつノイズに変わり、やがて“沈黙”すらも、喰い尽くされた。
「お前らの“人間”の記憶、喰い殺す」
そこに立つのは、笑わない貘。
その目にはもう、いつもの飄々とした影はなかった。
「⋯⋯暴喰の始まりだ」
そう呟いた瞬間──フロアにいた信奉者たちの“記憶”が逆流する。
家族と笑った食卓。
恋人に向けた告白。
友人たちとの眩しい青春。
小さな後悔や、大きな希望。
それらが“逆再生”のように流れたかと思うと、突然**“断裂”**する。
笑顔は裂け、言葉は潰れ、世界が反転するように“破壊”されていく。
「お前らは正義を振りかざすくせに⋯⋯随分幸せな記憶を持ってるな?」
貘は無作為に記憶を噛みちぎり、引き裂き、踏みにじる。
信奉者たちの精神世界に、大切な人たちの悲鳴がこだまする。
すると、ひとり、またひとりと、信奉者たちは頭を抱え、叫び、のたうち回る。
涙を流し、嘔吐し、白目を剥く。
ツヅリは見えないはずのその記憶の“崩壊”を、目で、そして色で感じていた。
そして、恐怖のあまり、後ずさりをして尻もちをついた。
無数の“色”が──砕け、燃え、潰れ、爆ぜた。
「⋯⋯何をしたらこんなことに⋯⋯理性が無い⋯⋯もう獣だよ⋯⋯」
その場にいた数百名が“生きた死体”となり、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図となった。
言葉にならない呻き声をあげる、その屍を上を歩く、“人間になりたい生き物”。
「ようこそ、こちら側へ──“間違えない怪物”へ」
その男は両手を広げ、続ける。
「あなたには人間を蹂躙したい願望があったようで⋯⋯それは私も同じ」
屍の山の上で、彼は片足をゆっくり持ち上げ、「ふらつく」でも「転ぶ」でもなく、わざと「丁寧に、“踏みつける場所”を選ぶ」ようにして、バランスを取って歩いている。
その一歩ごとに、ぐしゃり、という音と、「うっ」「あっ」と、声にならない音が漏れる。
「選択の重さ」ではなく、「躊躇なき選択」の音。
男は微笑をたたえたまま、貘に告げる。
「あなたは気づいていない。“間違える人間”を否定するということは──“正しさの名のもとに殺す”ことと、何も変わらないんですよ。あなたには“衝動”がある。私は、それを“正義”に変える術を知っている。共に行こう。“人間らしさ”を焼き払い、“選ばれた者”だけが進む未来へ」
“人間になりたい生き物”はあのとき見せた、下品な笑みを浮かべながら手を差し伸べる。
「じゃあ、僕が選んでやるよ」
貘はその手を取り、あらぬ方向に曲げた。
「ぎゃああああああ!」
骨の砕ける音が、静寂を引き裂く。
「うるさいな。今、楽にしてやるよ」
貘の目が細められ、その瞳は真紅に染まっている。
ツヅリには視えないはずの“記憶の世界”が、周囲にじわじわと漏れ出す。
まるで現実と記憶の境界が溶け始めていくように──周囲の色が“膨張”し、歪む。
「これが⋯⋯いつもあいつが見てた世界⋯⋯」
“人間になりたい生き物”の記憶に、貘は侵食する。
その中にはあった。
“選ばれなかった過去”。
“人に否定され続けた記憶”。
“人間になれなかった”という確かな事実。
けれど、その痛みすら──どこか他人事のように、整然と並べられていた。
「今まで僕が見た記憶の中で一番存在価値が無い」
貘はひとつずつ、ちぎっては捨てる。
スライム状のそれは、蒸発するように闇に溶けていく。
「貴様、何をしているのか分かってるのか!私の記憶をゴミのように扱うな!」
“人間になりたい生き物”は自分の記憶の中に、今の自分を形作る。
しかし、その醜態は、もはや人間とは言えない姿だった。
「黙れ」
貘は手であっさり、“人間になりたい生き物”の首を刎ねた。
「うっ⋯⋯?」
その首はそう漏らすと、地面に落ち、少し形が崩れた。
貘はそれを片手で拾い上げる。
「統計上⋯⋯僕に殺されないと思ってる人間は何%いる?」
「そんなもの⋯⋯100%だ!」
「だろうね。だからお前が洗脳した奴らは全員死んだ⋯⋯で、お前は人間じゃないから例外か。もう飽きたから消えろ」
「⋯⋯お前は人間になれない。永遠にな!」
“人間になりたい生き物”が断末魔の叫びを放った瞬間、貘はそれを握り潰した。
全てが終わった。
笑顔も、斉唱の声も、もうどこにもない。
ただ、呻き声と、粉々になった“色”の破片が、空気の中にふわふわと舞っていた。
貘は黙って白手袋をはめ、その場に立ち尽くしていた。
──「暴喰」は静かに収束していた。
しばらくして、背後から小さな足音。
ツヅリだった。
彼女は、一歩ごとに“色”の残滓を踏みしめながら近づき──そして、立ち止まる。
「⋯⋯あんた、何やってんだい?」
声は、乾いていた。
感情の温度がどこかおかしい。
怒っているのか、呆れているのか、それとも──哀しいのか。
貘は振り返らなかった。
ただ、静かに、ぽつりと呟いた。
「僕は、人間じゃない」
その背中に、ツヅリは言葉を投げつける。
「そうだよ⋯⋯あんたは、“人間になりたい生き物”よりも──よっぽど、人間じゃなかったよ」
長い沈黙のあと、貘が少しだけ笑った。
「僕は、今まで一度も⋯⋯間違った選択はしてないよ」
そう言い残して、貘はその場を後にする。
ツヅリはその背中を追わなかった。
──ふたりの歩む道が、はっきりと別れた瞬間だった。
この事件は「カルト集団の集団自決」としてメディアに取り上げられたが、すぐに忘れ去られていった。