目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話 暴喰(後編)

駅から少し外れた、歓楽街の一角にある雑居ビル。

他の建物の電飾のきらびやかさが、一層それを不気味に見せる。


エントランスから、エスカレーターで上の階に上がる。

ビル内の光は蛍光灯のようでいて、妙に白すぎた。

まるで“影を嫌う空間”に誘われているようだった。


「着きました」


“人間になりたい生き物”が振り返ると、その先には──整然と並べられた椅子、モニター、幟。

無機質なホールに、白いTシャツを着た信奉者たちがずらりと立っていた。


彼らは、ふたりの姿を見て、一斉に笑った。

まるでスイッチが入ったような、完璧なタイミングで。


「ようこそ、選ばれし者たちよ」

「ようこそ、選ばれし者たちよ」

「ようこそ、選ばれし者たちよ」


繰り返す。

声も、言葉も、笑顔さえも“同じ”。

その奇妙なハーモニーが、貘の胃の奥を軋ませる。


舞台の上に立つ“人間になりたい生き物”は、両手を広げていた。


「さあ、皆さん。本日も唱和を始めましょう。私たちの誓いを!」


信奉者たちが一斉に右手を胸に当てる。


「間違えないことが人間の証明──」

「感情に流されず、理性で選ぶ──」

「全ては進化のために──」


その“言葉の刃”は、まるで呪文のように、何度も何度も空間を切り裂いていく。

笑顔のまま、誰も瞬きすらしない。


「⋯⋯気持ち悪い」


貘がぼそっと呟くと、ツヅリが堪らず本音を漏らす。


「⋯⋯これが正しい人間?からくり人形の間違いじゃないかい?笑顔のまま、同じ言葉を繰り返すだけ。あんたの言う“間違えない人間”ってのは、自分で選ぶことすら放棄することなのかい?」


「それは聞き捨てなりませんね。それでは、こちらもご覧になりますか?」


“人間になりたい生き物”はその奥にある部屋へとふたりを案内した。


白い部屋。

目隠しと拘束具をつけられた複数名が、無音の中で座らされているのをマジックミラー越しに見る。

やがて、スピーカーから優しい声が流れる。


「あなたは間違えましたね。でも安心してください。間違いは修正できます。“正しくある努力”が、人間には必要なのです」


その声にかぶせるように、次の問いが流れる。


「あなたは“先生”の思想に同意しますか?」


「⋯⋯はい」


「声が小さいですね。心からの言葉でなければ、伝わりませんよ」


バチッ!感電のような刺激が身体を走る。

「があああああ!」

青年は叫ぶが、すぐにまた問われる。


「あなたは“人間”ですか?」


「⋯⋯わ、私は⋯⋯」


「まだ曖昧ですね。“間違える自由”を引きずっている」


再び、電流。

そのたびに、彼らの“答え”は先生の理想に近づいていく。

同じ答えを、何度も、何度も、何度も。


「どうですか?間違いは矯正すれば、正解に近づけることが出来ます。よろしければあなた方も是非体験してみませんか?」


“人間になりたい生き物”は、不敵な笑みでふたりに促す。


すると、貘は、

「⋯⋯もう分かった」

と、呟き、背を向けた。


「ほぉ、思っていたよりも本当に物分かりのいい方なんですね。ご理解頂けたようで」


「⋯⋯僕らに二度と関わるな」


「はぁ?自分からここに出向いておいてそのような戯言を。簡単に出られるとでも?」


その様子を見ていた信奉者たちは、同士を集め、数百名程が笑顔で貘に視線を送る。






「⋯⋯僕がさぁ、こんなこと言うとは思わなかったんだけどさぁ⋯⋯」


貘はゆっくりと、白手袋を外す。


「──ムカつくんだよね」






右手を、まっすぐ天井へ向ける。


その指先から、音もなく闇が広がっていく。


「おい、何だこれは?」


ざわつく信奉者たち。


「あんた⋯⋯その色⋯⋯何する気だい?」


声を震わせたツヅリが、初めて貘の中に見た色は、黒でも灰でもない──“焼け焦げる怒り”のような、漆黒の炎。


フロア一帯が闇に染まる。

その場を満たしていた斉唱の声が、一音ずつノイズに変わり、やがて“沈黙”すらも、喰い尽くされた。




「お前らの“人間”の記憶、喰い殺す」




そこに立つのは、笑わない貘。

その目にはもう、いつもの飄々とした影はなかった。





「⋯⋯暴喰の始まりだ」






そう呟いた瞬間──フロアにいた信奉者たちの“記憶”が逆流する。


家族と笑った食卓。

恋人に向けた告白。

友人たちとの眩しい青春。

小さな後悔や、大きな希望。


それらが“逆再生”のように流れたかと思うと、突然**“断裂”**する。


笑顔は裂け、言葉は潰れ、世界が反転するように“破壊”されていく。


「お前らは正義を振りかざすくせに⋯⋯随分幸せな記憶を持ってるな?」


貘は無作為に記憶を噛みちぎり、引き裂き、踏みにじる。


信奉者たちの精神世界に、大切な人たちの悲鳴がこだまする。


すると、ひとり、またひとりと、信奉者たちは頭を抱え、叫び、のたうち回る。


涙を流し、嘔吐し、白目を剥く。


ツヅリは見えないはずのその記憶の“崩壊”を、目で、そして色で感じていた。

そして、恐怖のあまり、後ずさりをして尻もちをついた。


無数の“色”が──砕け、燃え、潰れ、爆ぜた。


「⋯⋯何をしたらこんなことに⋯⋯理性が無い⋯⋯もう獣だよ⋯⋯」


その場にいた数百名が“生きた死体”となり、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図となった。


言葉にならない呻き声をあげる、その屍を上を歩く、“人間になりたい生き物”。


「ようこそ、こちら側へ──“間違えない怪物”へ」

その男は両手を広げ、続ける。


「あなたには人間を蹂躙したい願望があったようで⋯⋯それは私も同じ」


屍の山の上で、彼は片足をゆっくり持ち上げ、「ふらつく」でも「転ぶ」でもなく、わざと「丁寧に、“踏みつける場所”を選ぶ」ようにして、バランスを取って歩いている。


その一歩ごとに、ぐしゃり、という音と、「うっ」「あっ」と、声にならない音が漏れる。

「選択の重さ」ではなく、「躊躇なき選択」の音。


男は微笑をたたえたまま、貘に告げる。


「あなたは気づいていない。“間違える人間”を否定するということは──“正しさの名のもとに殺す”ことと、何も変わらないんですよ。あなたには“衝動”がある。私は、それを“正義”に変える術を知っている。共に行こう。“人間らしさ”を焼き払い、“選ばれた者”だけが進む未来へ」


“人間になりたい生き物”はあのとき見せた、下品な笑みを浮かべながら手を差し伸べる。


「じゃあ、僕が選んでやるよ」


貘はその手を取り、あらぬ方向に曲げた。


「ぎゃああああああ!」

骨の砕ける音が、静寂を引き裂く。


「うるさいな。今、楽にしてやるよ」


貘の目が細められ、その瞳は真紅に染まっている。


ツヅリには視えないはずの“記憶の世界”が、周囲にじわじわと漏れ出す。


まるで現実と記憶の境界が溶け始めていくように──周囲の色が“膨張”し、歪む。


「これが⋯⋯いつもあいつが見てた世界⋯⋯」


“人間になりたい生き物”の記憶に、貘は侵食する。


その中にはあった。


“選ばれなかった過去”。

“人に否定され続けた記憶”。

“人間になれなかった”という確かな事実。


けれど、その痛みすら──どこか他人事のように、整然と並べられていた。



「今まで僕が見た記憶の中で一番存在価値が無い」



貘はひとつずつ、ちぎっては捨てる。

スライム状のそれは、蒸発するように闇に溶けていく。


「貴様、何をしているのか分かってるのか!私の記憶をゴミのように扱うな!」


“人間になりたい生き物”は自分の記憶の中に、今の自分を形作る。

しかし、その醜態は、もはや人間とは言えない姿だった。


「黙れ」


貘は手であっさり、“人間になりたい生き物”の首を刎ねた。


「うっ⋯⋯?」


その首はそう漏らすと、地面に落ち、少し形が崩れた。


貘はそれを片手で拾い上げる。


「統計上⋯⋯僕に殺されないと思ってる人間は何%いる?」


「そんなもの⋯⋯100%だ!」


「だろうね。だからお前が洗脳した奴らは全員死んだ⋯⋯で、お前は人間じゃないから例外か。もう飽きたから消えろ」



「⋯⋯お前は人間になれない。永遠にな!」



“人間になりたい生き物”が断末魔の叫びを放った瞬間、貘はそれを握り潰した。


全てが終わった。


笑顔も、斉唱の声も、もうどこにもない。

ただ、呻き声と、粉々になった“色”の破片が、空気の中にふわふわと舞っていた。


貘は黙って白手袋をはめ、その場に立ち尽くしていた。


──「暴喰」は静かに収束していた。


しばらくして、背後から小さな足音。

ツヅリだった。


彼女は、一歩ごとに“色”の残滓を踏みしめながら近づき──そして、立ち止まる。


「⋯⋯あんた、何やってんだい?」


声は、乾いていた。

感情の温度がどこかおかしい。

怒っているのか、呆れているのか、それとも──哀しいのか。


貘は振り返らなかった。

ただ、静かに、ぽつりと呟いた。



「僕は、人間じゃない」



その背中に、ツヅリは言葉を投げつける。


「そうだよ⋯⋯あんたは、“人間になりたい生き物”よりも──よっぽど、人間じゃなかったよ」


長い沈黙のあと、貘が少しだけ笑った。



「僕は、今まで一度も⋯⋯間違った選択はしてないよ」



そう言い残して、貘はその場を後にする。


ツヅリはその背中を追わなかった。


──ふたりの歩む道が、はっきりと別れた瞬間だった。




この事件は「カルト集団の集団自決」としてメディアに取り上げられたが、すぐに忘れ去られていった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?