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第9話 あの日(前編)

あたしはツヅリって言うんだ。

江戸の町で仕立て屋やっててね。

反物やら着物やら⋯⋯毎日のように針持ったり機織りしたりしてたんだ。


生まれは、まぁ酷いもんさ。

貧しい農家でね、毎日食べるのがやっと。

親父は放蕩してほとんど家に帰らないし、母親は私が小さい頃に死んじまった。

だから、母親の記憶なんて、ほとんど残ってないんだよ。


唯一、覚えてるのは──


「ちづ、また口についてるよ。ほら⋯⋯」


そう言って、布で拭いてくれたときのこと。

たったそれだけさ。

でも、それだけがずっと心に残ってる。


え?ちづって誰かって?

あたしの本当の名前さ。

幼名ってやつ。

もう忘れちまったけどね。


「ツヅリ」って名前は、先生がつけてくれたんだ。


たまたま道端で出会ったんだよ。

ボロ着て弟と妹を連れて歩いてたら、向こうからあのおっちゃんが来てさ。


(⋯⋯あのおっちゃん、何かあったかい色してる)


「お嬢ちゃん、俺の顔に何かついてるか?」


「いや、いい色。あったかい色だなって」


「ハハハ、いきなり何だい?面白い子だ。じゃあ、あいつは?」

おっちゃんはすれ違った男を指差す。


「あれは⋯⋯きったない色」


「ハハハハハハ!!⋯⋯ふぅ、腹が捩れるわ!!お嬢ちゃんは人の色が見えるのか。そうかいそうかい。あぁそうだ、よかったら、ウチで仕立て屋手伝ってみないか?」


「仕立て屋?縫い物なんてやったことないし、小さい妹弟もいるし⋯⋯」


「それならみんな連れておいで。近所に空き家もある。住めばいいさ」


「でも、父ちゃんがなんて言うか⋯⋯」


「親父さんには、俺が手切れ金渡すよ。それでいいだろ?」


⋯⋯そう言って、後日本当に先生は家まで来て、金を渡してくれたんだ。

親父は二つ返事で「好きにしろ」ってなもんさ。

それで、あたしと妹弟はすぐに家を出た。


そりゃあ、不安もあったよ。

でも、屑親からやっと解放されたって思ったし、何より──自分の手で、妹弟を食わせてやれるって思えたとき、少しだけ、未来に希望を持てたんだ。


あの時の先生の言葉と、背中と、温かい色。

あれが、あたしの原点さ。


先生や妹弟たちと家を出て、道すがら先生は言ったんだ。


「なぁお嬢ちゃん、今日から「ツヅリ」って名乗りな」


「「つづり」⋯⋯?」


「あぁ、漢字で「縫う」って書いて「ツヅリ」だ。仕立て屋っぽい名前だろ?お嬢ちゃん可愛いから名前負けしないぞ」


「漢字は分からないけど⋯⋯何か好き」


「そうだろ?俺は三日三晩ずっと考えてたんだ。まぁ、それでお客さんちょっと待たせたんだけどな」



先生はね、言い方は悪いけど人誑しなんだ。

いつも笑ってて、冗談ばっか言ってて、口も軽い。

でも不思議と、誰も怒らないし、むしろ皆が寄ってくる。


それに、ちゃんと“見る”んだよね、人のこと。私が色を見てるみたいに、先生は「心のどこに穴が空いてるか」を、見抜くのがうまい。


それでいて、「その穴を埋めてやろう」とか一言も言わないんだ。

ただ、一緒に笑う。

困ったら助ける。

怒らない。

見捨てない。


⋯⋯だから、みんな惚れちゃうんだ。

性別とか関係なく。


でもさ、女将さんには頭が上がらなくてね。

先生、あんだけ口達者なのに、女将さんの前では借りてきた猫みたいになってたよ。


「俺が拾った子だから責任持つ」って言ってたけど。

実際、家のこともお金の管理も、ほとんど女将さんが仕切ってたんだ。


たぶん、あの仕立て屋は先生だけじゃ成り立たなかったんだよね。

女将さんがいたから、先生も好き勝手に振る舞えた。

⋯⋯今になって思うけど、いい夫婦だったなって、しみじみ思うよ。


でもさ、女将さんと初めて会った日、すごく怒ってたんだよ。

先生が家まで来て、勝手に手切れ金渡して、私らをそのまま連れて帰ったもんだからさ。


仕立て屋の暖簾をくぐった瞬間、

「あんた、勝手に何してんだい!」って。


先生が返す刀で、

「いやぁ、ちょっと拾いもんで」


なんて言うもんだから、女将さん、顔真っ赤にして怒鳴ってさ。


「拾った?子どもは猫か犬か!? こっちは人数で飯作ってんだよ!」って。


怖かったよ、ほんとに。

でもね、不思議と嫌じゃなかったんだ。

⋯⋯“家に帰った”って、初めて思えた瞬間だったかもしれないね。


それからあたしは縫い物の修行さ。

早く一人前になりたくてね。

毎日毎日針を持ち、機を織り。


でも、先生はいつも笑ってた。

「ツヅリ、腕がいいなぁ」

「その縫い方、俺もやってみるか」

「ツヅリ、基礎は大事だけど、そこから先はお前の世界だ。自由にやりな」 



あたしはね、寺子屋で勉強したかったんだ。

でも、あの貧しい環境じゃ無理だった。


先生に拾われてからしばらくして、

「ツヅリ、寺子屋に行って勉強するか?両立してもいいんだぞ?」

って言われた。


あたしは悩んだよ。

もちろんそれも出来ただろうさ。

でも、妹弟を食わせてやる、早く一人前になりたいって決めたんだ。

寄り道してる暇は無いってね。


「⋯⋯先生、あたし、早く一人前になるから、たくさん教えてほしい」


「そうか。ツヅリがそう言うなら、俺も無理強いはしないさ。後悔しないか?」


「うん、今、あたし、幸せ」


「⋯⋯ありがとうな。俺もこんな出来た弟子持てて幸せだ」


ってなもんで、ふたりで笑いあったのさ。

⋯⋯でもさ。

時々、ふと想像するのさ。


“普通の家”に生まれて、“普通に”寺子屋に通って、“普通に”着物を着て笑う、そんな自分。


⋯⋯そんな“もしも”が、ちょっとだけ羨ましくなることがあるんだ。


でもね、それでも私は──あのとき、先生のところに来られてよかったって、本当に思ってるんだ。





十数年が経ち、妹も弟も、それぞれに家庭を持ち、「姉ちゃん、もう自分のことだけ考えていいよ」なんて、一丁前な口を利くようになった。


ある日ふと、先生はぽつりとこう言ったんだ。


「ツヅリ、もうお前に教えることはねぇ。むしろ、俺の腕とは比べ物にならないくらいの技がある。あとは自由にやるといい」


その言葉を聞いたとき、胸の奥がきゅっとなった。

あたしは思わず聞き返した。


「⋯⋯ここを出て行けって言うのかい?」


「まぁ、そういうことだ。こんなとこで針持って終わる人生じゃねぇ。お前はもっと色を出せる。そして、人に愛される人になるんだ。」


「でも⋯⋯あたしは先生や女将さんに、何も返せてない⋯⋯」


すると、先生はほんの少し、いつもより優しい目で笑った。


「何言ってんだ。十分過ぎるほど返してもらったさ。あのとき、本当にツヅリを拾ってよかったと思ってる。一度きりの人生だ、大風呂敷広げたっていいじゃねぇか」


⋯⋯自信なんて、正直なかった。


「自信がないんだよ⋯⋯」


けれど──


「大丈夫だ、もし失敗したら、戻って来い。まぁ、お前が失敗することはまず無いだろうけどな!」


そのとき、背後から女将さんの声がした。


「そうさツヅリ、あんたは私たちの家族なんだからさ」


あたしは涙をこらえながら、ふたりの顔を見つめた。


「先生⋯⋯女将さん⋯⋯あたし、やってみる。江戸に名を轟かす仕立て屋になってやるさ」


「その意気だツヅリ!当たって砕けろだ!」


「何言ってんだいあんた!縁起でもない!⋯⋯ツヅリ、あんたならきっと、江戸一の仕立て屋になれるさ」


──たぶん、あの瞬間が、本当の意味で「ツヅリ」として独り立ちした日だったんだと思う。





あたしは店を出した。

正直、自信なんてなかったし、不安でいっぱいだった。


でもね、先生の店の常連さんたちが、何人も顔を出してくれてさ。

「ツヅリちゃんがやってるなら安心だ」って、いろんな人に私を紹介してくれたんだ。


そのおかげで、少しずつ常連さんが増えていって、気づけば店も軌道に乗ってた。




数年後のある日さ。

店に、ちょっと見慣れない一行がやってきたのさ。

藩の偉いさんの娘御と、その付き添いの使用人ってとこだね。


入ってくるなり、その使用人がぴしっと背筋伸ばしてこう言ったのさ。


「江戸で秀逸な着物を仕立てる女性がいると聞いて参りました。貴女が⋯⋯ツヅリ殿で?」


“殿”だなんて、こそばゆいったらないよ。笑っちまいそうになったけど、あの目は真剣だった。


「うん、あたしがツヅリだよ。自由にやらせてもらってるだけさ。それで、ご依頼は?」


娘御は、最初ちょっと口を噤んでたけど、やがて、ぽつりとこう言ったのさ。


「⋯⋯お見合い用の着物を、仕立ててほしいんです」


「へぇ、それはまた大事な晴れ着だね。色とか柄とか、何かご希望は?」


そう聞いたら、娘御はゆっくり首を振って、真っ直ぐ私を見て言ったんだ。


「“私の心象で”。形も色も⋯⋯あなたが“私を見て”決めてください」


⋯⋯なんていうかね、その目がすごく寂しそうでさ。

きっと、ずっと誰かの言うとおりに生きてきたんだろうさ。

でも、この子なりに、最後の一歩を“自分で決めたい”って思ってんだ。


だから、あたしは微笑んで、こう返したのさ。


「そうかい。それならちょいと、お話でも聞かせてもらおうか。お嬢ちゃんの“一番大事な色”、一緒に探してみようじゃないか」


娘御は、ぽつりぽつりと語り出した。


「今まで⋯⋯何度もお見合いをしてきたんです。けれど、どれも破談に終わりました」


声は静かだけれど、その奥に滲む疲れが、あたしにははっきり見えた。


「へぇ。お嬢ちゃん可愛いのにねぇ」


「⋯⋯ありがとうございます。いつも、きらびやかな着物を用意されて。紅も濃く、金糸で飾られて⋯⋯でも、それを着ていると、なんだか“着せられてる”って感じがして」


娘御は、視線を伏せて、少しだけ笑った。


「まるで、今の自分そのものみたいで。誰かに決められた道を、ただ歩かされてるだけ。そう思えて、気分も乗らないんです」


私はその言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。


「⋯⋯それは、着物のせいじゃないね。たぶん、それを“選ばせてくれなかった”誰かのせいだよ」


娘御は、はっとしたように顔を上げた。


「でも、お嬢ちゃんはここに来た。そして、“私を見て作ってください”って言った。それだけで十分さ。お嬢ちゃんが“自分の色”を見つけようとしてるってことだ」


そう言って、私は娘御を見つめた。


「⋯⋯ツヅリさん?どうしました?」


「うん、分かった。心象は掴んだよ。あとは針に託すだけさ」


「えっ?まだ糸も色も選んでないのに⋯⋯」


「心配無いよ。大船に乗ったつもりで待ってな」

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