あのときが、初めてだったんだ。
人の“感情の色”を見て、仕立てたのは。
それまではね、先生に習った意匠とか、自分なりに考えた模様や配色で仕立ててた。
もちろん、それもちゃんと心を込めてたさ。
でも、あたしは昔から、人の感情が“色”に見える。
音や手触りも、色として感じるんだ。
けれどね、“赤”ってひとつじゃない。
焦りの赤、怒りの赤、愛しさの赤。
似てるようで、全部違う色をしてる。
だけど、その違いを説明する言葉が、ない。
そこで、やっと気づいたんだよ。
だからあたしは、“形”にするんだって。
言葉にならない色を、糸にして、布にする。
先生に拾われたのも、この娘御に出会ったのも、もしかしたら、全部“縫い目”だったのかもしれないね。
私の人生を繋いでくれる、大事な目印さ。
それから半年くらい経ったかね。
着物が完成したんだ。
藩の偉いさんも見たいって言うもんだから、お屋敷まで持って行ったのさ。
表には見事な門番、敷地を歩けば、きっちりと手入れされた庭。
⋯⋯落ち着かないねぇ。
玄関に入ると、娘御がいた。
「ツヅリさん、ようこそいらっしゃいました」
「お嬢ちゃん、そんな座礼なんて堅っ苦しいよ」
「こちらです」
そう言われて長い廊下を歩いた。
庭の池には鯉もいたんだよ。
「父上、失礼いたします」
「入れ」
襖を開けると、いかにもって感じのおっちゃんが座ってたんだ。
「忙しい中、わしの我儘ですまないな。私は久世宗継(くぜ・むねつぐ)と申す。そなたは⋯⋯ツヅリと言ったか」
「そうだよ。以後お見知り置きを」
少し離れて座ってた家臣が怒り出してね。
「貴様、分を弁えろ!殿の前で無礼は許さぬ!」
「やめないか。大事な客人に失礼だ」
「すみません、殿⋯⋯」
って言いながらずっと私を睨んでたね。
「早速だけど、お披露目といこうかね」
あたしは用意されていた衣桁に着物を掛けた。渋墨に淡い藤が混じる──まるで夜明け前の空のような色合い。
けれど、それを見た途端、家臣が顔をしかめ、怒鳴った。
「貴様⋯⋯これは何の冗談だ!? お嬢様に、こんな陰気な布を纏わせるつもりか!? これはまるで──」
「喪服みたいだって言いたいのかい?」
あたしの声は冷えていたけど、芯は熱を帯びていた。
「それで合ってるさ。今までの自分を、弔うための色。見てくれだけ飾って、誰かの言いなりになってた人生を、一度終わらせるための装いさ」
「貴様⋯⋯!」
「祝言が“喜びの席”なら、心から喜べる格好を選ぶべきじゃないのかい?あんたらが“映える”とか“華やかだ”って決めつけて着せてきた色で、お嬢ちゃんは一度も笑わなかった。それが着物を愛してる職人から見て、どれだけ罪深いか⋯⋯あんたら、分かっちゃいない」
家臣の頬が引きつる。
でもあたしは止まらなかった。
「“女はこうあるべき”“娘は家のために”──そんな言葉を着物の襟に縫い込んで、締め付けてきたんだろ?だったらあたしは、それを断ち切る糸を、一本一本、この着物に込めたんだよ」
家臣が柄を握りしめ、今にも立ち上がりそうになったとき──
「そこまでだ」
おっちゃんの声が低く響いた。
その一声に、場の空気が凍る。
「⋯⋯ツヅリ殿の言葉には、耳を傾ける価値がある。家臣とはいえ、客人に向かってその物言いは無粋というものだ」
「殿っ⋯⋯」
「我が娘は、何度も見合いを重ねては破談となった。それを他人のせいにするのではなく、自らの姿を見つめ、想いを形にしたいと願った。その声に応えてくれたツヅリ殿に、礼を言うべきは我らのほうだ」
おっちゃんはゆっくりと、着物に目を向けた。
「よい色だ。静かだが、深くて、強い。紗世、着て見せてみなさい」
「はい、父上」
そういえばこのとき、お嬢ちゃんが「紗世」って名前なのを知ったのさ。
紗世は一旦別の部屋へ着付けしに行った。
家臣たちは渋々、おっちゃんの「下がれ」の一声で部屋を後にした。
ふたりきりで話したいみたいだ。
おっちゃんは湯呑を手に取り、一口すすると、ふうと息を吐いた。
「驚いたぞ。あんな着物を見せられたのは、初めてだ」
あたしは特に姿勢も正さず、いつもどおりの口調で答えた。
「気に入らなかったんなら、そう言ってくれて構わないよ」
「いや⋯⋯気に入った。だが、気に入ったのは着物だけじゃない」
おっちゃんの視線は、あたしのほうに向いていた。
けれど、それは威圧でも侮蔑でもなく──試すような、少しだけ柔らかな光を湛えた眼差しだった。
「我が娘は、ずっと“誰かの色”で塗られてきた。それが“自分の色”を欲したとき、誰が応えるだろうかと、正直、私は半信半疑だった」
あたしは軽く笑った。
「それが、こんな無礼な仕立て屋でねぇ」
おっちゃんも、小さく笑った。
「無礼ではない。真っ直ぐで、潔い。そして、美しいものを作る」
湯呑を置き、おっちゃんは少しだけ身を乗り出した。
「ツヅリ殿、わしはそなたに、もう一つ頼みがある」
「へぇ、どんな?」
「紗世の嫁入りのときも、そなたに仕立ててほしい。⋯⋯父としてではない。一人の“客”として頼む」
あたしは一瞬だけ、胸の奥が熱くなるのを感じた。
けれど、それを顔に出すほどヤワじゃないさ。
「お代は高くつくよ?でも、そのときまで、あたしがこの世にいればね」
「はは、それはわしも同じだ」
ふたりの間に、ふっと、肩の力が抜けるような空気が流れた──敵意でも、上下でもない、ひとときだけの“対等”な会話。
もっと固い人間かと思ってたけど、不器用なだけなんだよ。
このおっちゃんも、あのときの先生みたいな色だったんだ。
しばらくして、襖がすぅっと開いた。
その向こうから、紗世がゆっくりと歩いてきた。
──静かな足取りだったよ。
いつものきらびやかな着物じゃない。
紅も金もない。
光の加減で、裾のあたりにだけ、うっすらと色が差して見える。
まるで夜明け前の空が、少しずつ白んでいくみたいでさ。
私は黙って見てたけど、おっちゃんは、目を細めて頷いてた。
紗世は正座して、静かに頭を下げた。
「父上。⋯⋯これが、ツヅリさんが仕立ててくださった、私の“色”です」
おっちゃんは一言だけ、ゆっくり言った。
「⋯⋯よく、似合っている」
それだけで、十分だったよ。
誰かに着せられるためじゃない、“自分で選んだ色”ってのは、こんなにも静かで、強くて、美しい。
あたしは、心の中でそっと呟いた。
(やっと、“あんた自身”になったね、紗世)
これ以来、噂が広まって、あたしの店は大繁盛してね。
「色視のツヅリ」──なんて、いつの間にかそんな二つ名までつけられちまった。
まったく、仰々しいったらないよ。
でもまあ、着物を求めてくる人は後を絶たなかった。
「自分の色を見つけたい」っていうお客が、ぽつりぽつりと増えていってさ。
あたしも、その人の“中”に潜るみたいに、話を聞いたり、顔を見たりして、ひとつずつ色を拾っていった。
布に映るのは、華やかでも派手でもない、けれどその人だけの“色”。
──あたしはそれを、形にするだけさ。
それからしばらくして、宗継のおっちゃんから頼まれてた着物が仕立て上がった。
今度は家臣が店に取りに来るって話だったんだけどね。
「ツヅリ殿、居られるか?」
「何だい?⋯⋯ってあんた、あたしを斬ろうとした奴じゃないか。今さら討ちにでも来たのかい?」
「い、いや。お嬢様の着物の受け取りと⋯⋯謝罪を」
ばつの悪い顔してさ。
思い出すたびに笑えてくるよ。
「謝罪?もう忘れちまったよ。ほら、これが依頼の着物。おっちゃんと紗世によろしくね。じゃ、元気で」
背を向けたとき──
「待て!最後まで話を聞け!」
「うるさいねぇ。いちいち語気を荒げるなよ。近所迷惑だろ?」
「⋯⋯謝罪の件がもういいなら、俺の依頼を受けてほしい」
「へぇ、着流しでも欲しくなったってか?そこに何枚か吊るしてあるよ、好きに選びな」
「違う。妹が⋯⋯結婚するんだ。着物を仕立ててやりたい。お前に、頼みたい」
「そうかい。他の仕立て屋に頼んだらどうだい?私の先生の店を紹介してやろうか?」
「⋯⋯話を聞いてるか?お前に頼みたいんだ」
「どういう風の吹き回しだい?あんたはあたしを殺したかったんだろ?」
家臣は口を開きかけて、何も言えずに口をつぐんだ。
言い訳も、言葉も、もう用意してなかったんだろうね。
目を伏せたまま、少しの沈黙のあと、ぽつりと呟いた。
「⋯⋯俺は貧しい農家の生まれでな。藩に拾われて、必死でここまできた。妹だけは、こんな暮らしから救いたかったんだ」
⋯⋯誰かと同じだね。
「⋯⋯いつか妹が嫁ぐとき、兄が買った着物だって言えたら、どんなに格好がつくだろうって思った。でもその頃俺には、そんなもん仕立てる腕も金も、心の余裕も無かった。だから俺は成り上がって、やっと殿の側にいられるようになった。だからお前の態度は気に入らなかった。それでも⋯⋯お前が見せた“色”を見たとき、分かった。」
ツヅリは、くっと笑った。
「なにを殊勝な口叩いてんだい。こっちは商売でやってるんだよ」
家臣が顔を上げると、ツヅリはいつもの調子で言った。
「その妹さんの色、ちゃんと見せてくれたら、仕立ててやらないでもないよ。ただし、お代はちゃーんといただくよ?」
家臣は、まるで肩の荷が下りたように、小さく頭を下げた。
「⋯⋯ありがとう」
「で、あんたの名前は?」
「赤羽根 忠右衛門(あかばね ちゅうえもん)だ」
「ふふっ⋯⋯大層な名前だ。じゃあ近々妹さんを連れてきとくれ」
「分かった。恩に着る」
そう言ってそいつは店を出て行った。
着流しの一枚くらい買ってってくれりゃよかったのにね。