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第9話 あの日(後編)

後日、忠右衛門が妹と店に来たんだ。

柔らかい雰囲気の優しい子だったね。

忠右衛門のことを「たろにぃ」って呼んでたのには吹き出しそうになったけどね。


あいつ、宗継のおっさんと会ったときみたいに睨みつけてきてさ。

まぁ、心象はしっかり掴めたし、期限までにはしっかり仕立てるつもりだった。


心象から仕立てることが多くなって、予約が数年先まで埋まっちまってね。

嬉しい悲鳴ってやつなんだけど⋯⋯。


この頃から、何だか色がぼやけるようになっちまってさ。

身体が重い日が多くなって、作業があまり進まなくなったんだよ。


──それでも、誰にも言わなかった。

不思議なもんだね、仕立て屋ってのは、いつも誰かの“特別な日”に寄り添ってる。

だから、自分の“終わり”を見せるのは、なんだか申し訳なくてさ。



あたしは最後まで針を持ってた。


何だかふわっとしてさ、床に倒れちまった。


目の前が、ゆっくりと滲んでいく。


焦げ茶、緋色、淡黄、薄墨。


縫い上げた布たちの“色”が、まるで花びらみたいに舞って──。


⋯⋯あぁ、まだ⋯⋯忠右衛門の妹の⋯⋯着⋯⋯物⋯⋯





ツヅリは若くして死んだ。

死因は分からず、先生を始め、女将さん、妹弟、宗継、忠右衛門、町民が喪に服した。


その中でも、紗世には悲痛な知らせだった。


「えっ⋯⋯ツヅリさんが⋯⋯亡くなった⋯⋯?」


紗世は、もぬけの殻のようにその場にへたり込んだ。

着物の裾をぎゅっと掴んだまま、何かを呟こうとして、けれど、言葉にはならず──ただ、大粒の涙が頬をつたった。


その目に映っていたのは、“自分の色”を見つけさせてくれた、たった一人の仕立て屋の姿だった。



数日後、紗世はある場所を目指し歩いていた。

向かった先は、人里離れた山あいに佇む、古びた神社。


そこに祀られているのは──織物の神「ツヅリノオオミ」と、夢喰いの神獣「貘(バク)」。




この地に伝わる古い神話がある。


織物の神「ツヅリノオオミ」。

人の記憶と感情を“糸”に変え、運命の布を織る神。

彼女は長らく、人間の生の記録を織り続けていたが、やがて、ただ「織る」だけでは飽き足らず、“人の感情を、心から知りたい”と願うようになった。


夢喰いの神獣「貘(バク)」。

人の夢を糧に生きる獣だったが、長い時を経て夢に飽き、今度は──“人の核心(記憶)”を喰らいたいと渇望するようになった。



ふたりは契約を交わした。

ツヅリは「記憶を感じる術」を。

貘は「心に忍び込む術」を。

互いに力を授け合い、新たな存在となった。


──その行いは、神々の間では“禁忌”とされた。


ふたりは罰せられ、神の座を追われ、人間界に堕とされた。

そして、新たな定めが下される──


《貘が記憶を喰らわねば、ふたりは存在し続けられぬ》という“呪い”のような運命が。


それでもなお、人間界に現れたふたりは、ある地に降り立つ。

その地こそが、この神社のある場所だった。


人々は、ふたりの力に縋った。


ツヅリノオオミは、失われた記憶や、もう戻らない日々の色を“織り”として見せてくれた。

懐かしさに泣き、想い出に縋る者が列を成した。


貘は、消したい記憶──痛み、罪、後悔を喰らってくれた。

苦しみから逃れたい者たちが、跪き、願いを託した。


──だが、それは人の心を少しずつ壊していった。


懐かしさに囚われて今を見失う者。

記憶を喰われ、後悔すらも忘れた者。


やがて、この地に“過去しか見ない”者が溢れ出した。


時の賢者たちは決断する。

ふたりを封じ、この“記憶と夢の交差点”を閉ざすことを。


こうして建てられたのが、織物の神と夢喰いの神を祀る、この神社だった。


封印と共に、ひとつの戒めが刻まれる。


「封じてなお、祈るなかれ。祈りは、また封を解く鍵となる」


だが、時代と共にその言葉は風化し、神社は、ただの“忘れられた社”となっていった。




紗世は社の前に立ち、深く頭を垂れる。


「織物の神様、ツヅリさんが⋯⋯いつかまた、仕立て屋さんとしていられますように⋯⋯」


その声は、かすれながらも静かに響いた。


それから紗世は、夫と共にこの地に住み、雨の日も風の日も、毎日のように神社へ足を運び、祈りを捧げ続けた。


彼女は、悔いていた。


「私が⋯⋯心象で着物を作らせたせいで、ツヅリさんの命を、削ってしまった」


その想いは、やがて祈りへと変わっていく。


「私なりの⋯⋯罪滅し。一生を賭けて祈ります──」


紗世はその言葉の通り、亡くなるまで毎日神社へ祈った。

晩年は何故毎日神社へ祈るのか忘れてしまったが、習慣として続けていた。


「私の大切な人⋯⋯思い出せないけど、⋯⋯でも、忘れたくないのかもしれないねぇ」


そう言って笑った紗世の声は、どこか温かく、そして、どこか寂しかった。





そして──その祈りは、“封”を、解いた。






現代。


「ここは⋯⋯何処だい?」


ツヅリが目を覚ますと、真っ白な空間に物が点在している。


「見たことない物ばかりだね⋯⋯」


ツヅリはキッチンやテレビ、ソファなど、その場にあるものに触れて回る。


「一体何なんだい⋯⋯確か忠右衛門の妹の着物を仕立ててて⋯⋯」


すると、ドアが開いた。

「やぁ、起きた?」


着流しに白手袋の、髪がボサボサの若い男。


「⋯⋯あんた誰だい?」

ツヅリは睨みつけ、警戒する。


「僕?ん〜、貘、って言うらしいよ」

男は、毛羽立った着流しの裾を丁寧に整えながら、ふわりとソファに腰を下ろす。


その動きには無駄がなく、けれどどこか、“人間のそれ”とは違う、ズレた静けさがあった。


「ばく⋯⋯?“らしい”って何だい?」


「僕もちょっと前に目覚めてさ。そういう名前なんだって記憶にあるんだ」


「変な奴だね⋯⋯」


「君は⋯⋯ツヅリって言うのか」


ツヅリはじり、と一歩後ろに下がる。


「⋯⋯何で知ってるんだい」


「これもね、記憶にあるんだ」


「あたしはあんたのこと知らないよ」


「僕は知ってるよ。えーっと、縫い物が得意」


ツヅリの顔がピクリと動いた。その“中身”に、誰にも話していない部分をなぞられる気持ち悪さ──吐き気すら覚える、無遠慮な侵入。


「⋯⋯気持ち悪い奴だね⋯⋯」


目を細めたその瞬間、ツヅリの表情が変わる。


「えっ?色が⋯⋯無い」


彼女が見た“男”の内側には、何もなかった。

光も、熱も、影さえも──ただ、空っぽの“何か”がこちらを見ている。


「色?人の中に色が見えるの?凄いね。僕のこと人間だと思った?」


ツヅリは息を呑み、まぶたの奥にちらつく違和感を押し殺すように言った。


「⋯⋯人間じゃない、ってわけかい?」


「うん。たぶんね。正確には⋯⋯“人だったこともある”のかもしれないけど」


「気味の悪いこと言うね」


「僕はね、記憶を喰えるんだよ」


その言葉と同時に、部屋の空気が変わった。

ツヅリの肌を撫でる風が一瞬止まり、窓の外の景色が、音を失ったように静まりかえった。


「記憶を⋯⋯喰う?」


「うん。人の記憶に入ってパクっとね」


貘は、手のひらをぱくりと開いて口のように動かす。

軽い冗談のつもりかもしれない。

だがその仕草が、異様に現実味を持って見えたのはなぜだろう。


「ますます人間じゃないね⋯⋯」


「まぁ、とりあえず、僕は君と一緒にいないといけないみたいだから、これからよろしくね」


「訳が分からない⋯⋯」


ツヅリは頭を抱えながら、おもむろにカーテンを開けた。


「⋯⋯何だいこれは?石の塊みたいなのが沢山⋯⋯中に人がいる⋯⋯建物かい?」


窓の向こうには、ずらりと並ぶコンクリートのビル群。

まるで天を突こうとしているような高さの建物たちが、風もなく、ただ黙ってそこにあった。


「うん、そうだよ」


隣から聞こえる声に、ツヅリは振り向かない。ただ、目の前の“世界”に見入ったまま、心の整理をしようとしていた。


「今って享保⋯⋯」

「え?令和だよ」

「⋯⋯れいわ?」


唇がその響きを繰り返すが、意味は分からない。まるで異国の言葉のように、頭の上を通り過ぎていく。


「享保ってことは⋯⋯今から300年くらい前かな」


「300年⋯⋯300年後に来ちまったってことかい?」


木造の長屋も、縁側も、行き交う駕籠も──なにひとつ、そこには無かった。

代わりに広がるのは、鉄とガラスの街、知らない音、知らない風景。


それでも、胸の奥では、何かが静かに“納得”していた。


「まぁ、来たっていうか、蘇った、かな」 


ツヅリはしばらく黙ったまま、窓の外を眺めていた。

目の前の風景はあまりにも現実離れしていて、ただ“言葉”だけが、彼女の中で遅れてこだまする。


「⋯⋯蘇った、ねぇ」


「うん。でも、僕がここにいるのは“どうやって”とか、“何のために”とか、よく分かってないんだよね」


「分かってないのに笑ってられるって、たいしたもんさ」


ツヅリはため息をつき、背を窓に預ける。


「これからどうしたらいいのさ⋯⋯」


「縫い物でもやれば?そこに裁縫箱あるし」


「これは⋯⋯どうしてここに⋯⋯」


その裁縫箱は、生前ツヅリが使っていたものだった。


「それはね、たぶん祈ってくれた人からの贈り物なんじゃないかな」


ツヅリは目を見開いた。


「⋯⋯誰が、そんな⋯⋯」


「君は、もう忘れてしまったかもしれないけど──とても大切に思われていたんだよ」


「そうかい。あたしは恵まれたんだね⋯⋯」


ツヅリは、ほんの少しの間、沈黙の中に佇んだ。

その静けさに背中を押されるように、そっと裁縫箱の蓋を開けた。


柔らかな布の手触り。

糸巻きの木肌は少し黒ずんでいて、手の温もりが染みついているようだった。

針山には、昔の自分の癖がそのまま残っていた。

角が少し潰れ、よく使う位置だけが柔らかい。──時を越えて、あの頃の“自分”がここにいた。


「⋯⋯紗世って人、覚えてる?」


貘の問いかけに、ツヅリはふと手を止める。


「紗世⋯⋯藩の偉いさんのお嬢ちゃん」


「その人だよ、祈ってくれてたの。自分のせいで君が死んだって、悔いて、悔いて──毎朝手を合わせてさ、“また仕立て屋としていられますように”ってね」


ツヅリの指が、ふるりと震えた。


「紗世⋯⋯ごめんね⋯⋯あたしが死んじまったせいで、そんなことを⋯⋯」


気づけばツヅリは、裁縫箱を胸に抱えていた。それはまるで、誰かの気持ちごと、抱きしめるように。


「⋯⋯でも、そのおかげで君はここにいる」


貘は窓辺に立ち、やわらかな光を受けながらそう言った。


「これからどうする?」


ツヅリはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。


「⋯⋯あたし、誰かを幸せにしたくて、縫ってたんだと思う。誰かの笑顔が、見たくてさ⋯⋯」


彼女の目の奥に、灯がともる。

それは、長い眠りから目覚めた魂が、もう一度歩き出すための光。


「だから、また一からやるよ」


「おっ、やる気が出てきたね」


貘は軽く笑い、指で部屋の鍵をくるくると回してみせた。


「じゃあ、現代に慣れるように、ちょっと外出てみようか。人も、風も、街も、縫い物の素材になるかもしれないよ」


ツヅリはひとつ頷いて、裁縫箱をそっと撫でる。


「そうだね。貰った命を、無駄にはしないさ」


部屋のドアが開き、外の光が差し込む。

ビルの影が長く伸びる午後、遠くで救急車のサイレンが一度だけ鳴いた。

だがその音も、風に溶けて、静けさの中に吸い込まれていった。




ツヅリはその一歩を、確かに踏み出した。

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