後日、忠右衛門が妹と店に来たんだ。
柔らかい雰囲気の優しい子だったね。
忠右衛門のことを「たろにぃ」って呼んでたのには吹き出しそうになったけどね。
あいつ、宗継のおっさんと会ったときみたいに睨みつけてきてさ。
まぁ、心象はしっかり掴めたし、期限までにはしっかり仕立てるつもりだった。
心象から仕立てることが多くなって、予約が数年先まで埋まっちまってね。
嬉しい悲鳴ってやつなんだけど⋯⋯。
この頃から、何だか色がぼやけるようになっちまってさ。
身体が重い日が多くなって、作業があまり進まなくなったんだよ。
──それでも、誰にも言わなかった。
不思議なもんだね、仕立て屋ってのは、いつも誰かの“特別な日”に寄り添ってる。
だから、自分の“終わり”を見せるのは、なんだか申し訳なくてさ。
あたしは最後まで針を持ってた。
何だかふわっとしてさ、床に倒れちまった。
目の前が、ゆっくりと滲んでいく。
焦げ茶、緋色、淡黄、薄墨。
縫い上げた布たちの“色”が、まるで花びらみたいに舞って──。
⋯⋯あぁ、まだ⋯⋯忠右衛門の妹の⋯⋯着⋯⋯物⋯⋯
ツヅリは若くして死んだ。
死因は分からず、先生を始め、女将さん、妹弟、宗継、忠右衛門、町民が喪に服した。
その中でも、紗世には悲痛な知らせだった。
「えっ⋯⋯ツヅリさんが⋯⋯亡くなった⋯⋯?」
紗世は、もぬけの殻のようにその場にへたり込んだ。
着物の裾をぎゅっと掴んだまま、何かを呟こうとして、けれど、言葉にはならず──ただ、大粒の涙が頬をつたった。
その目に映っていたのは、“自分の色”を見つけさせてくれた、たった一人の仕立て屋の姿だった。
数日後、紗世はある場所を目指し歩いていた。
向かった先は、人里離れた山あいに佇む、古びた神社。
そこに祀られているのは──織物の神「ツヅリノオオミ」と、夢喰いの神獣「貘(バク)」。
この地に伝わる古い神話がある。
織物の神「ツヅリノオオミ」。
人の記憶と感情を“糸”に変え、運命の布を織る神。
彼女は長らく、人間の生の記録を織り続けていたが、やがて、ただ「織る」だけでは飽き足らず、“人の感情を、心から知りたい”と願うようになった。
夢喰いの神獣「貘(バク)」。
人の夢を糧に生きる獣だったが、長い時を経て夢に飽き、今度は──“人の核心(記憶)”を喰らいたいと渇望するようになった。
ふたりは契約を交わした。
ツヅリは「記憶を感じる術」を。
貘は「心に忍び込む術」を。
互いに力を授け合い、新たな存在となった。
──その行いは、神々の間では“禁忌”とされた。
ふたりは罰せられ、神の座を追われ、人間界に堕とされた。
そして、新たな定めが下される──
《貘が記憶を喰らわねば、ふたりは存在し続けられぬ》という“呪い”のような運命が。
それでもなお、人間界に現れたふたりは、ある地に降り立つ。
その地こそが、この神社のある場所だった。
人々は、ふたりの力に縋った。
ツヅリノオオミは、失われた記憶や、もう戻らない日々の色を“織り”として見せてくれた。
懐かしさに泣き、想い出に縋る者が列を成した。
貘は、消したい記憶──痛み、罪、後悔を喰らってくれた。
苦しみから逃れたい者たちが、跪き、願いを託した。
──だが、それは人の心を少しずつ壊していった。
懐かしさに囚われて今を見失う者。
記憶を喰われ、後悔すらも忘れた者。
やがて、この地に“過去しか見ない”者が溢れ出した。
時の賢者たちは決断する。
ふたりを封じ、この“記憶と夢の交差点”を閉ざすことを。
こうして建てられたのが、織物の神と夢喰いの神を祀る、この神社だった。
封印と共に、ひとつの戒めが刻まれる。
「封じてなお、祈るなかれ。祈りは、また封を解く鍵となる」
だが、時代と共にその言葉は風化し、神社は、ただの“忘れられた社”となっていった。
紗世は社の前に立ち、深く頭を垂れる。
「織物の神様、ツヅリさんが⋯⋯いつかまた、仕立て屋さんとしていられますように⋯⋯」
その声は、かすれながらも静かに響いた。
それから紗世は、夫と共にこの地に住み、雨の日も風の日も、毎日のように神社へ足を運び、祈りを捧げ続けた。
彼女は、悔いていた。
「私が⋯⋯心象で着物を作らせたせいで、ツヅリさんの命を、削ってしまった」
その想いは、やがて祈りへと変わっていく。
「私なりの⋯⋯罪滅し。一生を賭けて祈ります──」
紗世はその言葉の通り、亡くなるまで毎日神社へ祈った。
晩年は何故毎日神社へ祈るのか忘れてしまったが、習慣として続けていた。
「私の大切な人⋯⋯思い出せないけど、⋯⋯でも、忘れたくないのかもしれないねぇ」
そう言って笑った紗世の声は、どこか温かく、そして、どこか寂しかった。
そして──その祈りは、“封”を、解いた。
現代。
「ここは⋯⋯何処だい?」
ツヅリが目を覚ますと、真っ白な空間に物が点在している。
「見たことない物ばかりだね⋯⋯」
ツヅリはキッチンやテレビ、ソファなど、その場にあるものに触れて回る。
「一体何なんだい⋯⋯確か忠右衛門の妹の着物を仕立ててて⋯⋯」
すると、ドアが開いた。
「やぁ、起きた?」
着流しに白手袋の、髪がボサボサの若い男。
「⋯⋯あんた誰だい?」
ツヅリは睨みつけ、警戒する。
「僕?ん〜、貘、って言うらしいよ」
男は、毛羽立った着流しの裾を丁寧に整えながら、ふわりとソファに腰を下ろす。
その動きには無駄がなく、けれどどこか、“人間のそれ”とは違う、ズレた静けさがあった。
「ばく⋯⋯?“らしい”って何だい?」
「僕もちょっと前に目覚めてさ。そういう名前なんだって記憶にあるんだ」
「変な奴だね⋯⋯」
「君は⋯⋯ツヅリって言うのか」
ツヅリはじり、と一歩後ろに下がる。
「⋯⋯何で知ってるんだい」
「これもね、記憶にあるんだ」
「あたしはあんたのこと知らないよ」
「僕は知ってるよ。えーっと、縫い物が得意」
ツヅリの顔がピクリと動いた。その“中身”に、誰にも話していない部分をなぞられる気持ち悪さ──吐き気すら覚える、無遠慮な侵入。
「⋯⋯気持ち悪い奴だね⋯⋯」
目を細めたその瞬間、ツヅリの表情が変わる。
「えっ?色が⋯⋯無い」
彼女が見た“男”の内側には、何もなかった。
光も、熱も、影さえも──ただ、空っぽの“何か”がこちらを見ている。
「色?人の中に色が見えるの?凄いね。僕のこと人間だと思った?」
ツヅリは息を呑み、まぶたの奥にちらつく違和感を押し殺すように言った。
「⋯⋯人間じゃない、ってわけかい?」
「うん。たぶんね。正確には⋯⋯“人だったこともある”のかもしれないけど」
「気味の悪いこと言うね」
「僕はね、記憶を喰えるんだよ」
その言葉と同時に、部屋の空気が変わった。
ツヅリの肌を撫でる風が一瞬止まり、窓の外の景色が、音を失ったように静まりかえった。
「記憶を⋯⋯喰う?」
「うん。人の記憶に入ってパクっとね」
貘は、手のひらをぱくりと開いて口のように動かす。
軽い冗談のつもりかもしれない。
だがその仕草が、異様に現実味を持って見えたのはなぜだろう。
「ますます人間じゃないね⋯⋯」
「まぁ、とりあえず、僕は君と一緒にいないといけないみたいだから、これからよろしくね」
「訳が分からない⋯⋯」
ツヅリは頭を抱えながら、おもむろにカーテンを開けた。
「⋯⋯何だいこれは?石の塊みたいなのが沢山⋯⋯中に人がいる⋯⋯建物かい?」
窓の向こうには、ずらりと並ぶコンクリートのビル群。
まるで天を突こうとしているような高さの建物たちが、風もなく、ただ黙ってそこにあった。
「うん、そうだよ」
隣から聞こえる声に、ツヅリは振り向かない。ただ、目の前の“世界”に見入ったまま、心の整理をしようとしていた。
「今って享保⋯⋯」
「え?令和だよ」
「⋯⋯れいわ?」
唇がその響きを繰り返すが、意味は分からない。まるで異国の言葉のように、頭の上を通り過ぎていく。
「享保ってことは⋯⋯今から300年くらい前かな」
「300年⋯⋯300年後に来ちまったってことかい?」
木造の長屋も、縁側も、行き交う駕籠も──なにひとつ、そこには無かった。
代わりに広がるのは、鉄とガラスの街、知らない音、知らない風景。
それでも、胸の奥では、何かが静かに“納得”していた。
「まぁ、来たっていうか、蘇った、かな」
ツヅリはしばらく黙ったまま、窓の外を眺めていた。
目の前の風景はあまりにも現実離れしていて、ただ“言葉”だけが、彼女の中で遅れてこだまする。
「⋯⋯蘇った、ねぇ」
「うん。でも、僕がここにいるのは“どうやって”とか、“何のために”とか、よく分かってないんだよね」
「分かってないのに笑ってられるって、たいしたもんさ」
ツヅリはため息をつき、背を窓に預ける。
「これからどうしたらいいのさ⋯⋯」
「縫い物でもやれば?そこに裁縫箱あるし」
「これは⋯⋯どうしてここに⋯⋯」
その裁縫箱は、生前ツヅリが使っていたものだった。
「それはね、たぶん祈ってくれた人からの贈り物なんじゃないかな」
ツヅリは目を見開いた。
「⋯⋯誰が、そんな⋯⋯」
「君は、もう忘れてしまったかもしれないけど──とても大切に思われていたんだよ」
「そうかい。あたしは恵まれたんだね⋯⋯」
ツヅリは、ほんの少しの間、沈黙の中に佇んだ。
その静けさに背中を押されるように、そっと裁縫箱の蓋を開けた。
柔らかな布の手触り。
糸巻きの木肌は少し黒ずんでいて、手の温もりが染みついているようだった。
針山には、昔の自分の癖がそのまま残っていた。
角が少し潰れ、よく使う位置だけが柔らかい。──時を越えて、あの頃の“自分”がここにいた。
「⋯⋯紗世って人、覚えてる?」
貘の問いかけに、ツヅリはふと手を止める。
「紗世⋯⋯藩の偉いさんのお嬢ちゃん」
「その人だよ、祈ってくれてたの。自分のせいで君が死んだって、悔いて、悔いて──毎朝手を合わせてさ、“また仕立て屋としていられますように”ってね」
ツヅリの指が、ふるりと震えた。
「紗世⋯⋯ごめんね⋯⋯あたしが死んじまったせいで、そんなことを⋯⋯」
気づけばツヅリは、裁縫箱を胸に抱えていた。それはまるで、誰かの気持ちごと、抱きしめるように。
「⋯⋯でも、そのおかげで君はここにいる」
貘は窓辺に立ち、やわらかな光を受けながらそう言った。
「これからどうする?」
ツヅリはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「⋯⋯あたし、誰かを幸せにしたくて、縫ってたんだと思う。誰かの笑顔が、見たくてさ⋯⋯」
彼女の目の奥に、灯がともる。
それは、長い眠りから目覚めた魂が、もう一度歩き出すための光。
「だから、また一からやるよ」
「おっ、やる気が出てきたね」
貘は軽く笑い、指で部屋の鍵をくるくると回してみせた。
「じゃあ、現代に慣れるように、ちょっと外出てみようか。人も、風も、街も、縫い物の素材になるかもしれないよ」
ツヅリはひとつ頷いて、裁縫箱をそっと撫でる。
「そうだね。貰った命を、無駄にはしないさ」
部屋のドアが開き、外の光が差し込む。
ビルの影が長く伸びる午後、遠くで救急車のサイレンが一度だけ鳴いた。
だがその音も、風に溶けて、静けさの中に吸い込まれていった。
ツヅリはその一歩を、確かに踏み出した。