夜。
静かなアジト。
貘はソファに寝そべり、天井をぼんやりと見つめている。
ツヅリは、あれ以来帰ってこない。
雑居ビルで別れて以来、一度も。
つけっぱなしのテレビが、場違いな活気をもたらしていた。
「ヒーローインタビューです!勝ち越しの決勝ホームランを打った堂島選手です、ナイスバッティングでした!」
「ありがとうございます!」
観てもいないのに、耳は勝手に言葉を拾っていく。
貘はぽつりと呟いた。
「⋯⋯堂島さん、凄いなぁ」
どこか、他人行儀だった。
彼の記憶を喰ったはずの自分が、まるで“知らない人の成功”を見ているみたいだった。
あのときは、自信があった。
「記憶なんて喰えば終わり」と思ってた。
「僕のシナリオ通り」とさえ、嘯いていた。
でも今──
何が正しいのか。
何が間違いなのか。
その問いは、空気に浮かんでは、消える。
何度も何度も。
翌朝。
中途半端に閉められたカーテンの隙間から陽が差し込む。
貘は、このところほとんど眠れていない。
出口の無い迷路をずっと彷徨っている。
こんなとき、ツヅリなら部屋から出て来て、「朝から辛気臭いねぇ。茶でも飲むかい?」なんて、言ってくれるんだろうと思った。
そのとき、急激な眠気が貘を襲う。
ソファに身を預けた途端、まぶたが重くなる。
身体にずしりと重さを感じ、気を失うように落ちた。
静けさが、深い穴のように彼を引きずり込んでいった。
⋯⋯シュゥ、という風のようなノイズ。
「──記憶を喰わなくて、いいの?」
音だけ。
誰の声かも、分からない。
だが、聞き覚えがある気がした。
「喰わなきゃ、消えるよ。君も、ツヅリも」
貘は反論しようとした。
でも、言葉が出ない。
口を開いたはずなのに、何も伝わらない。
「君たち、これから、どうする?」
貘ははっとして目が覚める。
長い時間眠っていたような感覚が残っているが、それほど経っていなかった。
「喰わなきゃ、消える。僕も、ツヅリも」
貘はすくっと立ち上がり、そのまま外へ飛び出した。
へばりつくような暑さの中、貘はどこを目指す訳でもなく歩いていた。
すると、一羽の烏が近くに寄って来た。
「⋯⋯八咫烏?」
貘は立ち止まり、額の汗をぬぐった。
それはじっと彼を見据えている。
「キンキ!キンキ!」
「キンキ⋯⋯何のこと?」
思わず問い返したが、返事などあるはずもない。
「それとも、ついてこいってこと?」
貘は烏を見つめ返した。
まるで“待っていた”ような、そんな目をしていた。
次の瞬間、烏はバサリと羽を広げ、──そして飛んだ。
高くは飛ばない。すぐ前の通りへと、低空で滑るように進んでいく。
貘は迷わず、その後を追った。
荘厳な神社。
真っ白な陽光が境内の玉砂利を照らし、木々の緑がまぶしく揺れている。
蝉の鳴き声が遠くで響き、どこか“現実”の匂いが強い。
貘は、鳥居をくぐり、足を踏み入れた。
その足取りは重く、けれど止まることはなか
った。
神前に立つのは──和装の女の子。
昼の陽光を受けながらも、その姿だけはどこか“影”のように見えた。
「待っていたぞ、貘」
その声は、光の中にいるのに、冷たくて澄んでいた。
「⋯⋯誰?」
「我は天津大神(アマツオオミ)。神々の秩序と均衡を司り、 そのすべてを監視し、調和を以て統べるものなり」
「天津大神⋯⋯」
「貴様らは神の禁忌を侵した。そして、それにより人界へ放逐したのは他でもないこの我だ。貴様ら“記憶喰い”は、それを以て猶予とされていたが⋯⋯」
「貴様らの行いによって、人間たちに封じられ、大人しくなったはずだった。だが──強力な祈りがその封を破り、再び人界に姿を現している」
貘は眉をひそめる。
「神の禁忌⋯⋯?」
天津大神は返答せず、続ける。
「貴様は、記憶を喰らうことで、千の魂を沈黙させた。だが今回は“喰う”では済まなかった。貴様は“暴喰”を起こし、“記憶を殺した”のだ」
蝉の鳴き声が、急に遠くなる。
光は変わらず射しているのに、そこだけが異空間のようだった。
「喰った記憶に、咎はない。だが、壊した記憶に救いはない。貴様がしたのは、“存在の全否定”──貘、あれは貴様が許された範囲を超えた、“断罪”だった」
「だが、“人間になりたい生き物”という亜人に関しては目を瞑ろう。奴は人間の歪んだ思念体だ。どうなろうと関係は無い」
沈黙。
貘はゆっくりと目を細める。
「⋯⋯なら、なぜ見逃した。ユカリさんの時は──」
天津大神の瞳が、わずかに揺れた。
「ユカリ⋯⋯?あぁ、あの亜人は⋯⋯“命を願った”。貴様に、“生きていていい”と言われた記憶を、宝石のように抱えている⋯⋯それが解せぬ」
貘の顔に、かすかな影が差す。
「ユカリさんが⋯⋯亜人?」
「あの亜人は、我が誂えし器。人の世における観察の目として置かれし者──こちら側からの術式の展開も想定内だった」
貘は目を見開く。声は出なかった。
あの苦しみは、悲しみは、すべて仕組まれていた?
けれど、それでも──
「⋯⋯じゃあ、あれも全部⋯⋯最初から“予定通り”だったってこと?」
天津大神は答えない。
その無言が、何よりも重たく響いた。
貘は唇を噛みしめ、目を伏せる。
思い出すのは、あのときのユカリの声。
「私は、この世界にいていいって⋯⋯貘くんが認めてくれたの⋯⋯」
涙を流しながら、彼に縋りついたあの姿が、あの震える指先が、今もはっきりと残っている。
「⋯⋯だったらさ」
静かに、だが、はっきりと声が出た。
「最後に選んだのは、あの人だ。神でも、お前でもない。“自分”として、僕に想いを託してきた」
貘は顔を上げる。目には怒りも悲しみもなく、ただ、揺るぎない光があった。
「神がなんだ。器がなんだ。あの人が、僕に『生きていていい?』って訴えた。それが“記憶”じゃないなら──何が“命”だよ」
天津大神が、静かに右手を上げる。
光がゆらぎ、神社の影がわずかに濃くなる。
「⋯⋯これは“神”の怒りではない。貴様が“記憶を喰う者”として生きるのであれば、越えてはならぬ一線だ」
そして、貘の足元に、万華鏡のように煌めく“記憶の刻印”が浮かぶ。
それはゆっくりと、彼の身体に這い上がるように広がっていく。
「次に同じことをすれば──“貴様自身”が世界から忘れ去られる」
沈黙。
風の音すら止まったかのような空間。
貘は、手袋に視線を落とし──呟いた。
「⋯⋯僕は間違えた?」
天津大神は答えない。
代わりに、ひとつの“問い”だけを投げかける。
「貴様が最後に見た“色”──それは、怒りか、救いか」
その問いに、貘は答えなかった。
ただ──
「まだ、僕の中にユカリさんの“ありがとう”が残ってる。それが“間違い”じゃないなら、僕は⋯⋯次は、喰うだけにするよ。約束はしないけど」
天津大神は、ただ陽の下に、影のように佇んでいた。
そして、貘は踵を返し、神社を後にした。
その背中を見て、天津大神はわずかに目を伏せた。
「貴様は選んだ。その行為は、神の理から逸れている⋯⋯だが、それを咎める言葉が、今の我にはない」
生温い風が、境内を駆け抜けていった。
ツヅリは貘と離れたあと、行くあても無く彷徨っていた。
目は虚ろ、猫背のような体勢でとぼとぼ歩く。
仄暗い道をしばらく歩くと、何時ぞやの鯛焼き屋が見えてきた。
店は閉店していたが、窓から少し明かりが漏れている。
ツヅリが前を通りかかると、
「おぉ、女神⋯⋯じゃなかった、姉ちゃん!久しぶりだな!」
店主が明るく声をかけた。
ツヅリは無理に笑いながら、
「おやっさん久しぶり⋯⋯次は迷わないで来るって約束したのにね⋯⋯」
店主はツヅリの様子に何かを察したのか、表情を少しだけ和らげて言った。
「何があったか知らねぇけど、余りの鯛焼きもあるから、中でちょっと休んでくか?」
「⋯⋯甘えちゃうよ」
ツヅリは、わずかに口元をほころばせた。
店の裏口から通されたのは、小さな板の間の座敷。
時代に取り残されたようなちゃぶ台と、ちょっとくたびれた座布団。
店主は慣れた手つきで急須を用意しながら、ぽつりと言う。
「⋯⋯人ってさ、居場所がないときほど、甘いもんが沁みるんだよな」
ツヅリは静かに頷いた。
「⋯⋯冷めても鯛焼きは美味いねぇ」
この調子でも、口の端にあんこはついていた。
「何があったんだ?まぁ、話せる範囲でいいんだけど」
湯呑みをふたつ、ちゃぶ台に置く。
「まぁ⋯⋯何ていうか⋯⋯意見の食い違い⋯⋯違うなぁ⋯⋯」
ツヅリは目を伏せながら、けれど鯛焼きの端をしっかり噛みしめた。
店主は無理に続きを促すでもなく、自分の湯呑みに口をつけた。
「──あたしが、怖がったのさ」
ぽつりと、ツヅリが呟いた。
「信じるのも、頼るのも、任せるのも。あいつを、“色のないまま”にしておくのが、一番安全なんじゃないかって」
「でも、それってさ──」
言いかけて、唇を噛んだ。
「それって、結局は“縫わない”ってことだったんだ。自分の中で、仕立てることを諦めたんだよ。あいつのことも、自分のことも」
店主は何も言わなかった。
ただ、「そうか」とだけ呟いて、あたたかいお茶をもう一口すする。
すると、突然ツヅリの頭がフラっと揺れる。
「おい、姉ちゃん大丈夫か?」
店主は咄嗟にツヅリの頭を左腕で抱える。
「おやっさん、ごめんよ⋯⋯何かいきなり⋯⋯眠⋯⋯く」
ツヅリはそのまま眠ってしまった。
「疲れてたんだろ。しょうがねぇな」
店主はそのまましばらくツヅリを抱えていた。
暗い視界。
けれど、その中で確かに“うねる”ものがある。煙のようで、海流のようで、けれどどこか“糸”にも似た、ねじれた渦が、音もなく空間を満たしていた。
不意に、その中心から声が響く。
「ツヅリ⋯⋯」
誰かが、彼女を呼んだ。
「⋯⋯誰だい?あたしを呼ぶのは」
ツヅリは身を起こすが、足元も天井も定かでない。視界はぼやけ、境界は歪んでいた。
だが、音だけはくっきりと耳に届く。
「わらわはツヅリノオオミ。人の記憶と感情を“糸”に変え、運命の布を織る神じゃ」
「⋯⋯ツヅリノオオミ?何の用だい?」
「随分とよそよそしいのう。わらわは貴様と同体じゃ」
「⋯⋯同体?」
「貴様は、自分が現代にいる理由──知っておろう?」
「紗世が⋯⋯一生を賭けて祈ってくれたから⋯⋯」
「そうじゃ。その娘が祈りを捧げた神社。そこに封印されていたのが、わらわと貘じゃ」
暗闇の奥で、“なにか”が瞬いた。
それは星のようで、眼のようで、記憶の断片のようにも見えた。
「祈りは封を解いた。そして、祈りの対象は貴様じゃ。わらわと貴様が糸で紡がれた⋯⋯それが“今”じゃ」
「⋯⋯どうして今更出て来たんだい?」
「ふふっ⋯⋯貴様らの仲違いが面白くてのう」
ツヅリの眉が、ぴくりと動いた。腹の底がじわりと熱くなる。
「⋯⋯人の不幸を笑おうってのかい?」
「不幸?違うのう。貴様らが勝手にやったことであろう?」
「違う!あれは⋯⋯あいつが勝手に──」
「⋯⋯逃げるのか?自分に責任が無いとでも言いたそうじゃのう」
“糸”が揺れた。
空間に奔る、断ち切られたままの赤い糸たち。
どれも中途半端な縫い目で止まり、ほどけかけ、迷っていた。
「貴様が縫うのをやめたのじゃ。怖かったのじゃろう? “喰う”という行為が」
「⋯⋯っ」
「縫うべき布を前にして、貴様は針を置いた。己の恐れで、あやつを見捨てた」
ツヅリは言葉を返せなかった。
心の奥底を、古い指でほじくられたようだった。
「それが、“織る者”の罪じゃ」
声は、あくまで柔らかい。
けれどその奥には、神にも似ぬ“人間臭さ”が宿っていた。
「わらわは、ただ“見ておった”だけじゃ。だが──もうすぐ、貴様は“消える”。」
「⋯⋯消える?」
ツヅリの声がわずかに震える。
けれど返ってきた声は、どこまでも冷ややかだった。
「貘が“記憶喰い”をせねば、貴様の存在は“ほどける”のじゃ。それもまた、定められた布目。“織り損なわれた運命”の──成れの果てよ」
静けさが落ちる。
渦を巻く糸の音だけが、視界に浮かんでいた。
「──勿論、“主”が消えれば、貘もまた消える」
その言葉に、ツヅリの背筋がわずかに震えた。
「そして、貘は貴様の記憶は喰えん。永久機関になってしまうからのう」
「貴様らもまた、“同体”なのじゃ。織り合わせた糸は、離れられぬ。その理からは逃れられぬ」
間を置いて──ツヅリノオオミは言った。
「それでもなお、逃げるつもりか?」
ツヅリは、俯いたまま唇を噛んだ。
それでも、ぽつりと呟くように言った。
「⋯⋯そうしたら、あんたも⋯⋯」
「ふふ、心配してくれるのか? 優しいのう」
わずかに笑う気配があった。
だが、その声は澄んでいて、どこか冷たい。
「──わらわは、消えようとも構わぬ。元より、わらわに“実体”など存在せぬ。かつて人であった魂を媒体とし、ただ貴様に宿っただけの幻じゃ」
「幻⋯⋯」
「そうじゃ。祈りが糸を紡ぎ、記憶が“色”を与えた──ただそれだけのこと。ゆえに、わらわが消えようと、世界は何も変わらぬ」
「⋯⋯そんなのって、あるかい」
「あるとも。そして、貴様らふたりにとっての“現実”は──いずれ選ばねばならぬのじゃ」
「⋯⋯選ぶって何をだい?」
「縫うか、ほつれるか、じゃのう」
ツヅリの視界は突然、沢山の反物や布、糸で覆われ、“その世界”を閉じた。
ツヅリが目を覚ますと、布団に寝ていた。
窓に強い日差しが降り注ぎ、蝉の声が響く。
枕元に、一本の赤い糸が落ちていた。
引っかかっただけかもしれない。
けれど、それを指でそっとつまんだ瞬間、
「縫うか、ほつれるか⋯⋯」
ツヅリはそう呟き、板の間を出た。
鯛焼き屋にいた店主は、
「おっ、姉ちゃん。何か分かったみてぇだな」腕を組みながら少し微笑んだ。
「あぁ、でも、死活問題さ」
ツヅリは苦笑いで返す。
「そうか。ほら、餞別だ。持って行きな」
店主は鯛焼きを袋に詰めてツヅリに渡した。
「おやっさん、ありがとう。⋯⋯側にいるってだけでも、違うもんなんだね」
店主は何も言わず、頷いた。
「じゃあね、次こそは“迷わずに”顔を出すからね」
ツヅリは鯛焼きを抱え、去っていった。
貘は天津大神と話した後、アジトへの帰路についていた。すると、
「ツヅリ⋯⋯」
「あんた⋯⋯」
また偶然会ったふたりは、ほんの一瞬の間を挟んで、声を揃えた。
「ちょっと話が」
「ちょっと話が」
一拍の沈黙。
どちらも少しだけ照れたように視線を外す。
「⋯⋯あんたから話しなよ」
「立ち話もなんだから、アジトに戻ろう」
ふたりはアジトに向かった。
その間、お互い一言も話さなかった。
歩幅は、まだ少しだけ違っていた。
けれど、ふたりはそれでいいと思った。