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第10話 縫うか、ほつれるか

夜。

静かなアジト。

貘はソファに寝そべり、天井をぼんやりと見つめている。


ツヅリは、あれ以来帰ってこない。

雑居ビルで別れて以来、一度も。


つけっぱなしのテレビが、場違いな活気をもたらしていた。


「ヒーローインタビューです!勝ち越しの決勝ホームランを打った堂島選手です、ナイスバッティングでした!」


「ありがとうございます!」


観てもいないのに、耳は勝手に言葉を拾っていく。

貘はぽつりと呟いた。


「⋯⋯堂島さん、凄いなぁ」


どこか、他人行儀だった。

彼の記憶を喰ったはずの自分が、まるで“知らない人の成功”を見ているみたいだった。


あのときは、自信があった。

「記憶なんて喰えば終わり」と思ってた。

「僕のシナリオ通り」とさえ、嘯いていた。


でも今──


何が正しいのか。

何が間違いなのか。

その問いは、空気に浮かんでは、消える。

何度も何度も。





翌朝。


中途半端に閉められたカーテンの隙間から陽が差し込む。


貘は、このところほとんど眠れていない。

出口の無い迷路をずっと彷徨っている。


こんなとき、ツヅリなら部屋から出て来て、「朝から辛気臭いねぇ。茶でも飲むかい?」なんて、言ってくれるんだろうと思った。




そのとき、急激な眠気が貘を襲う。

ソファに身を預けた途端、まぶたが重くなる。


身体にずしりと重さを感じ、気を失うように落ちた。

静けさが、深い穴のように彼を引きずり込んでいった。





⋯⋯シュゥ、という風のようなノイズ。


「──記憶を喰わなくて、いいの?」


音だけ。

誰の声かも、分からない。

だが、聞き覚えがある気がした。


「喰わなきゃ、消えるよ。君も、ツヅリも」


貘は反論しようとした。

でも、言葉が出ない。

口を開いたはずなのに、何も伝わらない。


「君たち、これから、どうする?」




貘ははっとして目が覚める。

長い時間眠っていたような感覚が残っているが、それほど経っていなかった。


「喰わなきゃ、消える。僕も、ツヅリも」


貘はすくっと立ち上がり、そのまま外へ飛び出した。





へばりつくような暑さの中、貘はどこを目指す訳でもなく歩いていた。

すると、一羽の烏が近くに寄って来た。


「⋯⋯八咫烏?」


貘は立ち止まり、額の汗をぬぐった。

それはじっと彼を見据えている。


「キンキ!キンキ!」


「キンキ⋯⋯何のこと?」


思わず問い返したが、返事などあるはずもない。


「それとも、ついてこいってこと?」


貘は烏を見つめ返した。

まるで“待っていた”ような、そんな目をしていた。


次の瞬間、烏はバサリと羽を広げ、──そして飛んだ。


高くは飛ばない。すぐ前の通りへと、低空で滑るように進んでいく。


貘は迷わず、その後を追った。





荘厳な神社。

真っ白な陽光が境内の玉砂利を照らし、木々の緑がまぶしく揺れている。

蝉の鳴き声が遠くで響き、どこか“現実”の匂いが強い。


貘は、鳥居をくぐり、足を踏み入れた。

その足取りは重く、けれど止まることはなか

った。




神前に立つのは──和装の女の子。





昼の陽光を受けながらも、その姿だけはどこか“影”のように見えた。




「待っていたぞ、貘」




その声は、光の中にいるのに、冷たくて澄んでいた。


「⋯⋯誰?」


「我は天津大神(アマツオオミ)。神々の秩序と均衡を司り、 そのすべてを監視し、調和を以て統べるものなり」


「天津大神⋯⋯」


「貴様らは神の禁忌を侵した。そして、それにより人界へ放逐したのは他でもないこの我だ。貴様ら“記憶喰い”は、それを以て猶予とされていたが⋯⋯」


「貴様らの行いによって、人間たちに封じられ、大人しくなったはずだった。だが──強力な祈りがその封を破り、再び人界に姿を現している」


貘は眉をひそめる。

「神の禁忌⋯⋯?」


天津大神は返答せず、続ける。


「貴様は、記憶を喰らうことで、千の魂を沈黙させた。だが今回は“喰う”では済まなかった。貴様は“暴喰”を起こし、“記憶を殺した”のだ」


蝉の鳴き声が、急に遠くなる。

光は変わらず射しているのに、そこだけが異空間のようだった。


「喰った記憶に、咎はない。だが、壊した記憶に救いはない。貴様がしたのは、“存在の全否定”──貘、あれは貴様が許された範囲を超えた、“断罪”だった」


「だが、“人間になりたい生き物”という亜人に関しては目を瞑ろう。奴は人間の歪んだ思念体だ。どうなろうと関係は無い」



沈黙。



貘はゆっくりと目を細める。


「⋯⋯なら、なぜ見逃した。ユカリさんの時は──」


天津大神の瞳が、わずかに揺れた。


「ユカリ⋯⋯?あぁ、あの亜人は⋯⋯“命を願った”。貴様に、“生きていていい”と言われた記憶を、宝石のように抱えている⋯⋯それが解せぬ」


貘の顔に、かすかな影が差す。


「ユカリさんが⋯⋯亜人?」


「あの亜人は、我が誂えし器。人の世における観察の目として置かれし者──こちら側からの術式の展開も想定内だった」


貘は目を見開く。声は出なかった。


あの苦しみは、悲しみは、すべて仕組まれていた?

けれど、それでも──


「⋯⋯じゃあ、あれも全部⋯⋯最初から“予定通り”だったってこと?」


天津大神は答えない。

その無言が、何よりも重たく響いた。


貘は唇を噛みしめ、目を伏せる。

思い出すのは、あのときのユカリの声。


「私は、この世界にいていいって⋯⋯貘くんが認めてくれたの⋯⋯」


涙を流しながら、彼に縋りついたあの姿が、あの震える指先が、今もはっきりと残っている。


「⋯⋯だったらさ」


静かに、だが、はっきりと声が出た。



「最後に選んだのは、あの人だ。神でも、お前でもない。“自分”として、僕に想いを託してきた」



貘は顔を上げる。目には怒りも悲しみもなく、ただ、揺るぎない光があった。



「神がなんだ。器がなんだ。あの人が、僕に『生きていていい?』って訴えた。それが“記憶”じゃないなら──何が“命”だよ」



天津大神が、静かに右手を上げる。

光がゆらぎ、神社の影がわずかに濃くなる。


「⋯⋯これは“神”の怒りではない。貴様が“記憶を喰う者”として生きるのであれば、越えてはならぬ一線だ」


そして、貘の足元に、万華鏡のように煌めく“記憶の刻印”が浮かぶ。

それはゆっくりと、彼の身体に這い上がるように広がっていく。


「次に同じことをすれば──“貴様自身”が世界から忘れ去られる」


沈黙。

風の音すら止まったかのような空間。


貘は、手袋に視線を落とし──呟いた。


「⋯⋯僕は間違えた?」


天津大神は答えない。

代わりに、ひとつの“問い”だけを投げかける。


「貴様が最後に見た“色”──それは、怒りか、救いか」


その問いに、貘は答えなかった。


ただ──


「まだ、僕の中にユカリさんの“ありがとう”が残ってる。それが“間違い”じゃないなら、僕は⋯⋯次は、喰うだけにするよ。約束はしないけど」


天津大神は、ただ陽の下に、影のように佇んでいた。


そして、貘は踵を返し、神社を後にした。


その背中を見て、天津大神はわずかに目を伏せた。


「貴様は選んだ。その行為は、神の理から逸れている⋯⋯だが、それを咎める言葉が、今の我にはない」


生温い風が、境内を駆け抜けていった。





ツヅリは貘と離れたあと、行くあても無く彷徨っていた。


目は虚ろ、猫背のような体勢でとぼとぼ歩く。


仄暗い道をしばらく歩くと、何時ぞやの鯛焼き屋が見えてきた。

店は閉店していたが、窓から少し明かりが漏れている。


ツヅリが前を通りかかると、


「おぉ、女神⋯⋯じゃなかった、姉ちゃん!久しぶりだな!」


店主が明るく声をかけた。


ツヅリは無理に笑いながら、

「おやっさん久しぶり⋯⋯次は迷わないで来るって約束したのにね⋯⋯」


店主はツヅリの様子に何かを察したのか、表情を少しだけ和らげて言った。


「何があったか知らねぇけど、余りの鯛焼きもあるから、中でちょっと休んでくか?」


「⋯⋯甘えちゃうよ」


ツヅリは、わずかに口元をほころばせた。



店の裏口から通されたのは、小さな板の間の座敷。

時代に取り残されたようなちゃぶ台と、ちょっとくたびれた座布団。


店主は慣れた手つきで急須を用意しながら、ぽつりと言う。


「⋯⋯人ってさ、居場所がないときほど、甘いもんが沁みるんだよな」


ツヅリは静かに頷いた。


「⋯⋯冷めても鯛焼きは美味いねぇ」

この調子でも、口の端にあんこはついていた。


「何があったんだ?まぁ、話せる範囲でいいんだけど」

湯呑みをふたつ、ちゃぶ台に置く。


「まぁ⋯⋯何ていうか⋯⋯意見の食い違い⋯⋯違うなぁ⋯⋯」

ツヅリは目を伏せながら、けれど鯛焼きの端をしっかり噛みしめた。


店主は無理に続きを促すでもなく、自分の湯呑みに口をつけた。


「──あたしが、怖がったのさ」


ぽつりと、ツヅリが呟いた。


「信じるのも、頼るのも、任せるのも。あいつを、“色のないまま”にしておくのが、一番安全なんじゃないかって」


「でも、それってさ──」


言いかけて、唇を噛んだ。


「それって、結局は“縫わない”ってことだったんだ。自分の中で、仕立てることを諦めたんだよ。あいつのことも、自分のことも」


店主は何も言わなかった。

ただ、「そうか」とだけ呟いて、あたたかいお茶をもう一口すする。


すると、突然ツヅリの頭がフラっと揺れる。


「おい、姉ちゃん大丈夫か?」


店主は咄嗟にツヅリの頭を左腕で抱える。

「おやっさん、ごめんよ⋯⋯何かいきなり⋯⋯眠⋯⋯く」

ツヅリはそのまま眠ってしまった。


「疲れてたんだろ。しょうがねぇな」

店主はそのまましばらくツヅリを抱えていた。





暗い視界。

けれど、その中で確かに“うねる”ものがある。煙のようで、海流のようで、けれどどこか“糸”にも似た、ねじれた渦が、音もなく空間を満たしていた。



不意に、その中心から声が響く。


「ツヅリ⋯⋯」


誰かが、彼女を呼んだ。


「⋯⋯誰だい?あたしを呼ぶのは」


ツヅリは身を起こすが、足元も天井も定かでない。視界はぼやけ、境界は歪んでいた。

だが、音だけはくっきりと耳に届く。



「わらわはツヅリノオオミ。人の記憶と感情を“糸”に変え、運命の布を織る神じゃ」


「⋯⋯ツヅリノオオミ?何の用だい?」


「随分とよそよそしいのう。わらわは貴様と同体じゃ」


「⋯⋯同体?」


「貴様は、自分が現代にいる理由──知っておろう?」


「紗世が⋯⋯一生を賭けて祈ってくれたから⋯⋯」


「そうじゃ。その娘が祈りを捧げた神社。そこに封印されていたのが、わらわと貘じゃ」


暗闇の奥で、“なにか”が瞬いた。

それは星のようで、眼のようで、記憶の断片のようにも見えた。


「祈りは封を解いた。そして、祈りの対象は貴様じゃ。わらわと貴様が糸で紡がれた⋯⋯それが“今”じゃ」


「⋯⋯どうして今更出て来たんだい?」


「ふふっ⋯⋯貴様らの仲違いが面白くてのう」



ツヅリの眉が、ぴくりと動いた。腹の底がじわりと熱くなる。



「⋯⋯人の不幸を笑おうってのかい?」



「不幸?違うのう。貴様らが勝手にやったことであろう?」


「違う!あれは⋯⋯あいつが勝手に──」


「⋯⋯逃げるのか?自分に責任が無いとでも言いたそうじゃのう」


“糸”が揺れた。

空間に奔る、断ち切られたままの赤い糸たち。

どれも中途半端な縫い目で止まり、ほどけかけ、迷っていた。


「貴様が縫うのをやめたのじゃ。怖かったのじゃろう? “喰う”という行為が」


「⋯⋯っ」


「縫うべき布を前にして、貴様は針を置いた。己の恐れで、あやつを見捨てた」


ツヅリは言葉を返せなかった。

心の奥底を、古い指でほじくられたようだった。


「それが、“織る者”の罪じゃ」


声は、あくまで柔らかい。

けれどその奥には、神にも似ぬ“人間臭さ”が宿っていた。


「わらわは、ただ“見ておった”だけじゃ。だが──もうすぐ、貴様は“消える”。」


「⋯⋯消える?」


ツヅリの声がわずかに震える。

けれど返ってきた声は、どこまでも冷ややかだった。


「貘が“記憶喰い”をせねば、貴様の存在は“ほどける”のじゃ。それもまた、定められた布目。“織り損なわれた運命”の──成れの果てよ」


静けさが落ちる。

渦を巻く糸の音だけが、視界に浮かんでいた。


「──勿論、“主”が消えれば、貘もまた消える」


その言葉に、ツヅリの背筋がわずかに震えた。


「そして、貘は貴様の記憶は喰えん。永久機関になってしまうからのう」


「貴様らもまた、“同体”なのじゃ。織り合わせた糸は、離れられぬ。その理からは逃れられぬ」


間を置いて──ツヅリノオオミは言った。


「それでもなお、逃げるつもりか?」


ツヅリは、俯いたまま唇を噛んだ。

それでも、ぽつりと呟くように言った。


「⋯⋯そうしたら、あんたも⋯⋯」


「ふふ、心配してくれるのか? 優しいのう」


わずかに笑う気配があった。

だが、その声は澄んでいて、どこか冷たい。


「──わらわは、消えようとも構わぬ。元より、わらわに“実体”など存在せぬ。かつて人であった魂を媒体とし、ただ貴様に宿っただけの幻じゃ」


「幻⋯⋯」


「そうじゃ。祈りが糸を紡ぎ、記憶が“色”を与えた──ただそれだけのこと。ゆえに、わらわが消えようと、世界は何も変わらぬ」


「⋯⋯そんなのって、あるかい」


「あるとも。そして、貴様らふたりにとっての“現実”は──いずれ選ばねばならぬのじゃ」


「⋯⋯選ぶって何をだい?」


「縫うか、ほつれるか、じゃのう」


ツヅリの視界は突然、沢山の反物や布、糸で覆われ、“その世界”を閉じた。




ツヅリが目を覚ますと、布団に寝ていた。

窓に強い日差しが降り注ぎ、蝉の声が響く。


枕元に、一本の赤い糸が落ちていた。

引っかかっただけかもしれない。

けれど、それを指でそっとつまんだ瞬間、


「縫うか、ほつれるか⋯⋯」


ツヅリはそう呟き、板の間を出た。



鯛焼き屋にいた店主は、

「おっ、姉ちゃん。何か分かったみてぇだな」腕を組みながら少し微笑んだ。


「あぁ、でも、死活問題さ」

ツヅリは苦笑いで返す。


「そうか。ほら、餞別だ。持って行きな」

店主は鯛焼きを袋に詰めてツヅリに渡した。


「おやっさん、ありがとう。⋯⋯側にいるってだけでも、違うもんなんだね」


店主は何も言わず、頷いた。


「じゃあね、次こそは“迷わずに”顔を出すからね」

ツヅリは鯛焼きを抱え、去っていった。





貘は天津大神と話した後、アジトへの帰路についていた。すると、


「ツヅリ⋯⋯」

「あんた⋯⋯」


また偶然会ったふたりは、ほんの一瞬の間を挟んで、声を揃えた。


「ちょっと話が」

「ちょっと話が」


一拍の沈黙。

どちらも少しだけ照れたように視線を外す。


「⋯⋯あんたから話しなよ」

「立ち話もなんだから、アジトに戻ろう」


ふたりはアジトに向かった。

その間、お互い一言も話さなかった。

歩幅は、まだ少しだけ違っていた。



けれど、ふたりはそれでいいと思った。

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