アジトに着くと、ツヅリは椅子に、貘はソファに座った。
ふたりとも目を少し伏せ、何も言わずに、ただ一点を見つめている。
窓の外では、風が吹いていた。
ビルの間をすり抜けるような乾いた風。
遠くで車のクラクションが響いたが、ここには届かない。
静かな、まるで呼吸の止まったような時間。
やがて、ツヅリが小さく息をつき、口を開いた。
「⋯⋯あのさ。先に謝らないといけないね。⋯⋯ごめんよ」
その声に返事はなかった。
ツヅリは少しだけ身を乗り出して、貘の顔を見る。
彼は前かがみに座ったまま、頭を下げている。
⋯⋯ように見えた。
「⋯⋯あんた、大丈夫かい? 調子悪いのかい?」
心配になって、そっと近寄る。
そして、そっと顔を覗き込んだ。
──寝ていた。
口をわずかに開けて、まつ毛を震わせながら、完全に夢の中だ。
ツヅリはしばし無言のまま貘を見下ろし、それから──ふっと笑った。
「⋯⋯はぁ。緊張してたのが馬鹿らしくなるよ、まったく」
そう呟いて、ゆっくり立ち上がる。
部屋の隅に置かれた電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。
ピン、と軽い音がして、内部が光り始めた。
小さな湯気が立ちのぼる間、ツヅリは台所の片隅に目をやる。
そこに置かれていたのは、あの裁縫箱だった。
指が、自然とそちらに向く。
「⋯⋯まだ、あたしの手の形になってる」
そっと触れた針山。角の丸まった布の感触に、指先がくすぐられるようだった。
ぽつり、と誰にでもなく呟いた。
「縫うか、ほつれるか──か」
まるで、自分に問い直すように。
ケトルの沸騰音が響き始めた。
ツヅリは紅茶をふたつ分、丁寧に用意した。その所作は、かつて仕立て場で針を持っていたときと同じ。
静かで、正確で、どこか慈しみに満ちていた。
「⋯⋯熱いうちに起きておくれよ」
ひとつのカップを彼の前にそっと置いた。
彼女は再び椅子に腰を下ろす。
そして、小さく笑った。
「起きたら、ちゃんと話そう。お互いにね」
どこまでも白い空間だった。
輪郭のない地平。
天井も床も、距離すら曖昧な、ただの“白”。
それなのに──“いる”と分かる。
すぐ近くに、誰かがいる。
⋯⋯また、あのときと同じ。
風のようなノイズが、耳ではなく、頭の奥に直接響いてくる。
そして──声もまた、あのときのように。
「やぁ、僕。もう、これからどうするか決めた?」
貘は返事をしない。
いや、返せない。
言葉を出す器官はあるはずなのに、また“声”が出ない。
そこに“体”はある。重さも、感覚も、手足の存在も──たしかに“ある”。
でも、見えない。
目の前に手をかざす。
動いた感覚はある。
けれど、何も見えない。
自分が存在していると信じるしかない、そんな“壊れた現実”。
そんな中、唯一──“彼”だけははっきりと見えていた。
「そういえばさ。天津大神に呪いかけられちゃったんだね」
にこやかに言うそれは、貘と同じ顔をしていた。
「僕でも使ったこと無い“暴喰”やっちゃうんだもんなぁ。いやぁ、やんちゃだなぁ、今の僕は」
貘は眉を寄せた。
ただ、神の貘だけが、飄々と語り続ける。
「あの呪い、見たことある?あの万華鏡みたいなやつ」
彼は、手を広げるように動かしてみせた。
その動きの軌道が、空間をわずかに歪める。
「身体が粉々になるんだよ。修復できないくらいね。一回だけ、目の前で見たことあるんだよね」
笑いながら言うその声音に、恐怖はなかった。ただ、“よく知っている”者の落ち着いた口ぶりだった。
「面白かったよ。まるで、ガラス細工が崩れるみたいでさ。──音がね、すごく綺麗だった」
その言葉が空間を刺す。
光も音も温度もないこの世界に、“ぞわり”とした感覚だけが、じっとりと背中を這う。
貘は、わずかに視界を揺らす。
今、自分が震えたのかどうかもわからない。
でも──分かる。
この存在は、確かに自分だったものだ。
同じ声、同じ仕草、同じ語彙。
だけど──
「⋯⋯お前、何が“楽しい”んだ?」
喉の奥から、かすかに声が漏れた。それは、視界に映らない口から出た“気配だけの声”。
「全部だよ?」
神の貘はにこりと笑った。
「喰うこと。壊すこと。失わせること。全部、人間たちが望んだことじゃないか」
「⋯⋯それでも」
貘は、声に少しずつ“力”を戻していく。
「それでも、僕は⋯⋯あれが楽しいなんて、もう思わない」
その瞬間、白一色だった空間に、ほんのわずかな“黒いヒビ”が走った。
神の貘は、それを見上げて、にんまりと笑う。
「へぇ。じゃあ、“君のやり方”で、やってごらんよ」
神の貘は、白い空間の中で立ち上がり、軽く首を傾けた。
「そういえば、君、知らないんだよね?」
「⋯⋯何を」
「“今の自分がどうやってここにいるか”ってこと」
貘は、一瞬だけ黙った。
「君さ──ツヅリへの祈りに引っ張られて、起きたんだと思ってる?」
「⋯⋯違う?」
神の貘は小さく笑った。
「違わないけど、正確でもない。君は“祈られてない”んだよ」
「⋯⋯⋯⋯」
「ツヅリの中にも、僕らみたいな、いや、僕らとは違う“同体”がいる。でも、それは“願われた存在”なんだ」
神の貘の声が、ふと静かになった。
「君は違う。“副産物”さ。封印が解けた拍子に、釣られて出てきただけ。たまたまツヅリと一緒だったから、“隣で目を覚ました”だけ」
空気が凍りつく。
「⋯⋯知ってた? 君が目覚めた時、誰も君のことを“願って”なかったんだよ?」
「やめろ」
「自分の出どころは分からない。でも、ツヅリの中の“神”はちゃんと“位置”がある」
「やめろって言ってる!」
「ほら、何も喰ってないのに、もう“壊れそう”じゃないか。君の存在、そんなに脆かったっけ?」
ズキリ、と視界の奥が痛んだ。
白の空間に、また一筋のヒビが走る。
「僕はね、君のこと羨ましいって思ったこと、一度もないんだ。だって君、ずっと“ツヅリの付属品”みたいな顔して生きてきたじゃん?」
貘の視界が、にじむ。
痛みも、怒りも、悲しみもない。
ただ、胸の奥の奥──“芯”みたいなところが、軋んでいた。
それでも──彼は、目の前に立つ“自分”を見つめ返す。
「⋯⋯だから、“喰う”んだよ」
「へぇ。じゃあ、自分が“ただの余波”だったって事実ごと──」
「全部、僕のものにする」
貘の声が、はっきりと響いた。
そして──
──視界が割れた。
その“向こう”から、黒い何かが滲むように広がり始めていた。
バリ⋯⋯ッ。
破裂音は無い。
ただ、空気が裂けるような──耳ではない何かに直接届く“裂音”。
貘の視界が揺れる。
自分の“手”が、そこにあるとわかる。
ずっと見えなかった、けれど確かに“感じていた”自分の輪郭が、ようやく視えてきた。
「へぇ⋯⋯そう来たか。“君の中にいる僕”を喰えば、僕は君の中から消える。“記憶を喰う”って、つまりはそういうことだ──君は、“自分を壊してまで前に進む”ってわけだ」
「⋯⋯見えてきたよ、僕の世界が」
貘がぽつりと零した言葉に、神の貘はふっと目を細めた。
「そっか。じゃあ、そろそろ“お別れ”かな」
「いや──“はじまり”だ」
貘は、はっきりと歩を進めた。
白の地平に足音が響く。
手を前に差し出す。
神の貘は、ただそこに立ち、何もせず、受け入れるように微笑んでいた。
「僕を喰うってことは、“君が何者だったか”を、すべて引き取るってことだよ?」
「それでいい」
「“君は選ばれた存在ではなかった”っていう事実も?」
「それでも、僕は僕だ。それを──ようやく、そう思えるようになったんだ」
神の貘の瞳が、わずかに揺れた。
そして、静かに目を閉じる。
「⋯⋯ふふ。“人間らしい”こと、言うようになったじゃないか」
貘の手が、その胸元に触れる。
温度はない。
ただ、そこに確かに“存在”があると分かる。
貘は──目を閉じた。
そのまま、喰らう。
音もなく、咀嚼もせず、ただ“輪郭”ごと、光の粒へと還っていくように、神の貘は貘の内に吸い込まれていく。
それは捕食ではなかった。
排除でもなかった。
まるで、「元に戻っただけ」のような──静かで確かな、“統合”。
白の空間が、色を失っていく。
いや──逆だ。
色を、取り戻していく。
手のひら。
足。
胸の鼓動。
吐く息の重み。
──僕は、ここにいる。
誰に祈られずとも。誰に望まれずとも。
それでも。
僕は、ここに──
その想いと共に、貘は、まばたきをした。
──現実の音が戻ってくる。
紅茶の香り。
ふわり、と鼻先をくすぐった。
「⋯⋯おはよう。ずいぶん静かな寝息だったじゃないか」
ツヅリの声。
どこか、笑っていた。
ところが、貘はいきなり立ち上がると、ツヅリの額に右手を翳した。
「っ、あんた、何を⋯⋯!あたしの記憶は、喰えないんだよ?」
ツヅリが反射的に身を引くが、貘の目は、彼女の奥深く──“それ以外”を見ていた。
「ツヅリとの“同体”は⋯⋯僕だけでいい」
その瞬間──
辺り一面が、闇に沈んだ。
ビルの音も、灯りも、風も、世界から切り取られる。
ただ、闇。
どこまでも静かで、息苦しいほど深い“黒”。
「⋯⋯あんた、まさか⋯⋯」
ツヅリが言いかけたそのとき──闇の奥に、ふっと“縫い目”のような光が浮かぶ。
それはゆっくりとほどけ、織り上げられていく。
まるで空間そのものが“布”でできているかのように、糸の軌跡が空を縫い、地を繋ぎ、視界が“編まれて”いく。
──そして辿り着いたのは、布と糸に包まれた、歪んだ空間。
どこまでも柔らかで、ぬくもりを感じさせるのに、決して心安らぐものではなかった。
そこに“彼女”はいた。
かつて、ツヅリという魂が“祈られた”瞬間に宿り、共にこの時代に現れた“神性の核”。
──ツヅリノオオミ。
白く長い髪。
深い紺と金をまとった着物。
瞼の奥に、幾千の記憶を閉じ込めたまま──彼女は微動だにしなかった。
「貘か。いや⋯⋯貘じゃない⋯⋯何の用じゃ?」
その声は、絹を撫でるように静かで──けれど、空間すら揺らすほどの“重さ”を帯びていた。
貘は、たったひとつの視線で彼女を射抜く。
「お前を、引きずり出しに来た⋯⋯お前は、ツヅリに“寄生”してるだけだ。ただの“きっかけ”が、偉そうに」
布の揺らぎが、一瞬、止まった。
ツヅリノオオミの瞳が、ゆっくりと細まる。
「⋯⋯ほう。言うではないか」
音のない空間に、わずかな“緊張”が走る。
「貴様こそ、何だというのだ。自らの由来も知らぬくせに、わらわを断罪するか」
「それでも、僕は──ツヅリの隣で、目を覚ました。それだけで、十分だ」
「そうか。ツヅリに“喰らう許し”でも得たか?」
「許しなんて要らない。“いるべきでない存在”を戻すだけだ」
「わらわは願いの糸をツヅリの魂に紡いだ存在。ならば、貴様が割って入る理由など、どこにもない」
「“共にいたからこそ分かる”。それが、僕の理由だ」
貘の足元に、闇がうねった。
視界に見えぬまま眠っていた“輪郭”が──今、確かに“この場に立っている”と、誰もが分かるようになっていく。
「お前は、祈られた“存在”かもしれない。でもそのあと──ツヅリはお前との同体を選択したか?」
「選択⋯⋯?選択の余地など無かろう?それは理に沿った現象じゃ。では、貴様はどうなんじゃ?自分が“誰にも求められていなかった存在”と知りながら、こうして他者を裁くのか?」
「副産物でも、欠片でも、“今ここにいる僕”が僕なんだ」
「⋯⋯ほう」
ツヅリノオオミが、はじめて視線を上げた。
そこには、迷いも哀れみもなく──ただ、“尊厳”があった。
「ならば、問う。貴様がわらわを追うその意志は、確かなものか?」
「──ああ。僕が、お前に代わって隣に立つ。それだけは、もう迷わない」
沈黙が満ちる。
布が揺れた。糸が震えた。
そして、ツヅリノオオミが静かに目を閉じる。
「ならば、見せてみよ──“貘”よ」
その瞬間、空間が裂けるように開く。
「お前の、選択を⋯⋯」
ツヅリノオオミは、瞬きもせず、彼を見つめる。
「僕は──お前の存在は、否定しない」
貘の声は、穏やかだった。
優しさでも、慈しみでもない。
ただ、たしかな“敬意”だった。
「でも、もういいんだ。ツヅリは、自分の足で歩ける」
「⋯⋯それ故、わらわを喰らうのか?」
「そうだよ」
貘の掌が、すっと前へ伸びる。
ツヅリノオオミの衣が、ほつれるように、光の糸になっていく。
それは“抵抗”ではなかった。
ただ、“還元”。
彼女の輪郭が、ゆっくりと崩れていく。
刺繍のように精緻だった髪も、記憶の反物に戻るように──静かに、解けていく。
ツヅリノオオミの姿が、光に還る寸前──その唇が、かすかに動いた。
「ツヅリ⋯⋯貴様の“感情色のスーパービジョン”と“共感覚”⋯⋯愉快であったぞ⋯⋯」
その声は、どこか誇らしげで──それでいて、名残惜しさを帯びていた。
「いつか⋯⋯向かい合って、針でも持とうぞ⋯⋯」
その言葉と共に、光はふわりと空へ舞い上がる。
最後まで、威厳を失わず。
最後まで、ツヅリという存在に敬意を払って。
それは、祈りでも、呪いでもない。
ただひとつの“言葉”として──残った。
ツヅリは、静かに目を伏せる。
「⋯⋯あぁ。今度は、針を交わせる仲でありたいね」
彼女の声は、誰にでもなく──ただ、空に向けた祈りのようだった。
同じ頃──あの神社。
八咫烏が、鋭く空を裂くように鳴き叫ぶ。
「ノロイ!カイジョ!カイジョ!」
天津大神はその瞬間、すべてを察した。
瞼を閉じ、わずかに嘆くように呟く。
「貘め⋯⋯自ら“人に堕ちた”か」
その背後──どこか茶化すような声が、風に乗って届く。
「いやはや⋯⋯まさか、“僕”があんな選択をするとはね」
神の貘。
実体なきまま、言葉だけが漂う。
「最初の記憶喰いじゃ、施設のロックを解除したり、異空間に人を呼び込んだり⋯⋯やりたい放題だったのにねぇ」
天津大神が目を伏せたそのとき──もうひとつの存在が、ほつれた糸のように現れる。
声には、どこか嬉しげな弾み。
「人に堕ちた結果──同体の呪いすら解いてしまうとは。ふふ、神業にも劣らぬ業じゃのう」
それは、ツヅリノオオミ。
天津大神は、静かに唇を噛む。
「もはや、奴らは我の範疇を越えた。神を棄てた今、我は干渉すら許されぬ」
それを聞き、ツヅリノオオミはふふ、と笑みを浮かべた。
「そうかのう? 自ら神の座を降りた者の“これから”──それとて、物語のひとつ。わらわは興味があるぞ?」
そして、また神の貘の声が転がる。
「次に美味しい記憶、喰えるのはいつかなぁ⋯⋯」
天津大神は、肩をひとつ震わせる。
「貴様ら⋯⋯存外に、人界を謳歌しておるな。⋯⋯愚かなるか、尊きか。いずれにせよ、もはや我の計るところに非ず⋯⋯」
術式は消え、アジトは静寂を取り戻した。
貘は最初の体勢のまま、顔から汗を滴らせながら、肩で荒く息を吐いている。
ツヅリは先日、貘の中に初めて色を見た。
それは、黒でも灰でもない、焼け焦げるような怒り──漆黒の炎だった。
けれど今、目の前の彼には違う色があった。静かで、柔らかくて、どこかあたたかい。
それは──“人の色”だった。
「⋯⋯あんたに、色が見える」
ツヅリは自分の口から出た言葉に、一瞬、目を見開いた。
今まで決して見えなかった、“人の色”──それが、確かにそこにあった。