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第11話 縫い目は粗くとも

アジトに着くと、ツヅリは椅子に、貘はソファに座った。


ふたりとも目を少し伏せ、何も言わずに、ただ一点を見つめている。


窓の外では、風が吹いていた。

ビルの間をすり抜けるような乾いた風。

遠くで車のクラクションが響いたが、ここには届かない。


静かな、まるで呼吸の止まったような時間。


やがて、ツヅリが小さく息をつき、口を開いた。


「⋯⋯あのさ。先に謝らないといけないね。⋯⋯ごめんよ」


その声に返事はなかった。



ツヅリは少しだけ身を乗り出して、貘の顔を見る。


彼は前かがみに座ったまま、頭を下げている。

⋯⋯ように見えた。


「⋯⋯あんた、大丈夫かい? 調子悪いのかい?」


心配になって、そっと近寄る。

そして、そっと顔を覗き込んだ。



──寝ていた。



口をわずかに開けて、まつ毛を震わせながら、完全に夢の中だ。


ツヅリはしばし無言のまま貘を見下ろし、それから──ふっと笑った。


「⋯⋯はぁ。緊張してたのが馬鹿らしくなるよ、まったく」


そう呟いて、ゆっくり立ち上がる。


部屋の隅に置かれた電気ケトルに水を入れ、スイッチを押す。

ピン、と軽い音がして、内部が光り始めた。


小さな湯気が立ちのぼる間、ツヅリは台所の片隅に目をやる。


そこに置かれていたのは、あの裁縫箱だった。


指が、自然とそちらに向く。


「⋯⋯まだ、あたしの手の形になってる」


そっと触れた針山。角の丸まった布の感触に、指先がくすぐられるようだった。

ぽつり、と誰にでもなく呟いた。


「縫うか、ほつれるか──か」


まるで、自分に問い直すように。

ケトルの沸騰音が響き始めた。


ツヅリは紅茶をふたつ分、丁寧に用意した。その所作は、かつて仕立て場で針を持っていたときと同じ。

静かで、正確で、どこか慈しみに満ちていた。


「⋯⋯熱いうちに起きておくれよ」


ひとつのカップを彼の前にそっと置いた。


彼女は再び椅子に腰を下ろす。

そして、小さく笑った。


「起きたら、ちゃんと話そう。お互いにね」







どこまでも白い空間だった。


輪郭のない地平。

天井も床も、距離すら曖昧な、ただの“白”。


それなのに──“いる”と分かる。

すぐ近くに、誰かがいる。


⋯⋯また、あのときと同じ。

風のようなノイズが、耳ではなく、頭の奥に直接響いてくる。


そして──声もまた、あのときのように。


「やぁ、僕。もう、これからどうするか決めた?」


貘は返事をしない。

いや、返せない。


言葉を出す器官はあるはずなのに、また“声”が出ない。


そこに“体”はある。重さも、感覚も、手足の存在も──たしかに“ある”。


でも、見えない。


目の前に手をかざす。

動いた感覚はある。

けれど、何も見えない。


自分が存在していると信じるしかない、そんな“壊れた現実”。


そんな中、唯一──“彼”だけははっきりと見えていた。


「そういえばさ。天津大神に呪いかけられちゃったんだね」


にこやかに言うそれは、貘と同じ顔をしていた。


「僕でも使ったこと無い“暴喰”やっちゃうんだもんなぁ。いやぁ、やんちゃだなぁ、今の僕は」


貘は眉を寄せた。

ただ、神の貘だけが、飄々と語り続ける。


「あの呪い、見たことある?あの万華鏡みたいなやつ」


彼は、手を広げるように動かしてみせた。

その動きの軌道が、空間をわずかに歪める。


「身体が粉々になるんだよ。修復できないくらいね。一回だけ、目の前で見たことあるんだよね」


笑いながら言うその声音に、恐怖はなかった。ただ、“よく知っている”者の落ち着いた口ぶりだった。


「面白かったよ。まるで、ガラス細工が崩れるみたいでさ。──音がね、すごく綺麗だった」


その言葉が空間を刺す。


光も音も温度もないこの世界に、“ぞわり”とした感覚だけが、じっとりと背中を這う。


貘は、わずかに視界を揺らす。

今、自分が震えたのかどうかもわからない。


でも──分かる。

この存在は、確かに自分だったものだ。


同じ声、同じ仕草、同じ語彙。


だけど──


「⋯⋯お前、何が“楽しい”んだ?」


喉の奥から、かすかに声が漏れた。それは、視界に映らない口から出た“気配だけの声”。


「全部だよ?」


神の貘はにこりと笑った。


「喰うこと。壊すこと。失わせること。全部、人間たちが望んだことじゃないか」


「⋯⋯それでも」


貘は、声に少しずつ“力”を戻していく。


「それでも、僕は⋯⋯あれが楽しいなんて、もう思わない」


その瞬間、白一色だった空間に、ほんのわずかな“黒いヒビ”が走った。


神の貘は、それを見上げて、にんまりと笑う。


「へぇ。じゃあ、“君のやり方”で、やってごらんよ」


神の貘は、白い空間の中で立ち上がり、軽く首を傾けた。


「そういえば、君、知らないんだよね?」


「⋯⋯何を」


「“今の自分がどうやってここにいるか”ってこと」


貘は、一瞬だけ黙った。


「君さ──ツヅリへの祈りに引っ張られて、起きたんだと思ってる?」


「⋯⋯違う?」


神の貘は小さく笑った。


「違わないけど、正確でもない。君は“祈られてない”んだよ」


「⋯⋯⋯⋯」


「ツヅリの中にも、僕らみたいな、いや、僕らとは違う“同体”がいる。でも、それは“願われた存在”なんだ」


神の貘の声が、ふと静かになった。


「君は違う。“副産物”さ。封印が解けた拍子に、釣られて出てきただけ。たまたまツヅリと一緒だったから、“隣で目を覚ました”だけ」


空気が凍りつく。


「⋯⋯知ってた? 君が目覚めた時、誰も君のことを“願って”なかったんだよ?」


「やめろ」


「自分の出どころは分からない。でも、ツヅリの中の“神”はちゃんと“位置”がある」


「やめろって言ってる!」


「ほら、何も喰ってないのに、もう“壊れそう”じゃないか。君の存在、そんなに脆かったっけ?」


ズキリ、と視界の奥が痛んだ。

白の空間に、また一筋のヒビが走る。


「僕はね、君のこと羨ましいって思ったこと、一度もないんだ。だって君、ずっと“ツヅリの付属品”みたいな顔して生きてきたじゃん?」


貘の視界が、にじむ。


痛みも、怒りも、悲しみもない。

ただ、胸の奥の奥──“芯”みたいなところが、軋んでいた。


それでも──彼は、目の前に立つ“自分”を見つめ返す。


「⋯⋯だから、“喰う”んだよ」


「へぇ。じゃあ、自分が“ただの余波”だったって事実ごと──」


「全部、僕のものにする」


貘の声が、はっきりと響いた。


そして──


──視界が割れた。


その“向こう”から、黒い何かが滲むように広がり始めていた。


バリ⋯⋯ッ。


破裂音は無い。

ただ、空気が裂けるような──耳ではない何かに直接届く“裂音”。


貘の視界が揺れる。

自分の“手”が、そこにあるとわかる。

ずっと見えなかった、けれど確かに“感じていた”自分の輪郭が、ようやく視えてきた。


「へぇ⋯⋯そう来たか。“君の中にいる僕”を喰えば、僕は君の中から消える。“記憶を喰う”って、つまりはそういうことだ──君は、“自分を壊してまで前に進む”ってわけだ」


「⋯⋯見えてきたよ、僕の世界が」


貘がぽつりと零した言葉に、神の貘はふっと目を細めた。


「そっか。じゃあ、そろそろ“お別れ”かな」


「いや──“はじまり”だ」


貘は、はっきりと歩を進めた。

白の地平に足音が響く。

手を前に差し出す。


神の貘は、ただそこに立ち、何もせず、受け入れるように微笑んでいた。


「僕を喰うってことは、“君が何者だったか”を、すべて引き取るってことだよ?」


「それでいい」


「“君は選ばれた存在ではなかった”っていう事実も?」


「それでも、僕は僕だ。それを──ようやく、そう思えるようになったんだ」


神の貘の瞳が、わずかに揺れた。


そして、静かに目を閉じる。


「⋯⋯ふふ。“人間らしい”こと、言うようになったじゃないか」


貘の手が、その胸元に触れる。


温度はない。


ただ、そこに確かに“存在”があると分かる。


貘は──目を閉じた。


そのまま、喰らう。


音もなく、咀嚼もせず、ただ“輪郭”ごと、光の粒へと還っていくように、神の貘は貘の内に吸い込まれていく。


それは捕食ではなかった。

排除でもなかった。


まるで、「元に戻っただけ」のような──静かで確かな、“統合”。


白の空間が、色を失っていく。


いや──逆だ。


色を、取り戻していく。


手のひら。

足。

胸の鼓動。

吐く息の重み。


──僕は、ここにいる。


誰に祈られずとも。誰に望まれずとも。


それでも。


僕は、ここに──


その想いと共に、貘は、まばたきをした。






──現実の音が戻ってくる。






紅茶の香り。

ふわり、と鼻先をくすぐった。


「⋯⋯おはよう。ずいぶん静かな寝息だったじゃないか」


ツヅリの声。

どこか、笑っていた。


ところが、貘はいきなり立ち上がると、ツヅリの額に右手を翳した。


「っ、あんた、何を⋯⋯!あたしの記憶は、喰えないんだよ?」


ツヅリが反射的に身を引くが、貘の目は、彼女の奥深く──“それ以外”を見ていた。






「ツヅリとの“同体”は⋯⋯僕だけでいい」







その瞬間──

辺り一面が、闇に沈んだ。


ビルの音も、灯りも、風も、世界から切り取られる。

ただ、闇。

どこまでも静かで、息苦しいほど深い“黒”。


「⋯⋯あんた、まさか⋯⋯」


ツヅリが言いかけたそのとき──闇の奥に、ふっと“縫い目”のような光が浮かぶ。





それはゆっくりとほどけ、織り上げられていく。


まるで空間そのものが“布”でできているかのように、糸の軌跡が空を縫い、地を繋ぎ、視界が“編まれて”いく。


──そして辿り着いたのは、布と糸に包まれた、歪んだ空間。


どこまでも柔らかで、ぬくもりを感じさせるのに、決して心安らぐものではなかった。


そこに“彼女”はいた。


かつて、ツヅリという魂が“祈られた”瞬間に宿り、共にこの時代に現れた“神性の核”。


──ツヅリノオオミ。


白く長い髪。

深い紺と金をまとった着物。

瞼の奥に、幾千の記憶を閉じ込めたまま──彼女は微動だにしなかった。


「貘か。いや⋯⋯貘じゃない⋯⋯何の用じゃ?」


その声は、絹を撫でるように静かで──けれど、空間すら揺らすほどの“重さ”を帯びていた。


貘は、たったひとつの視線で彼女を射抜く。


「お前を、引きずり出しに来た⋯⋯お前は、ツヅリに“寄生”してるだけだ。ただの“きっかけ”が、偉そうに」


布の揺らぎが、一瞬、止まった。


ツヅリノオオミの瞳が、ゆっくりと細まる。


「⋯⋯ほう。言うではないか」


音のない空間に、わずかな“緊張”が走る。


「貴様こそ、何だというのだ。自らの由来も知らぬくせに、わらわを断罪するか」


「それでも、僕は──ツヅリの隣で、目を覚ました。それだけで、十分だ」


「そうか。ツヅリに“喰らう許し”でも得たか?」


「許しなんて要らない。“いるべきでない存在”を戻すだけだ」


「わらわは願いの糸をツヅリの魂に紡いだ存在。ならば、貴様が割って入る理由など、どこにもない」


「“共にいたからこそ分かる”。それが、僕の理由だ」


貘の足元に、闇がうねった。


視界に見えぬまま眠っていた“輪郭”が──今、確かに“この場に立っている”と、誰もが分かるようになっていく。


「お前は、祈られた“存在”かもしれない。でもそのあと──ツヅリはお前との同体を選択したか?」


「選択⋯⋯?選択の余地など無かろう?それは理に沿った現象じゃ。では、貴様はどうなんじゃ?自分が“誰にも求められていなかった存在”と知りながら、こうして他者を裁くのか?」


「副産物でも、欠片でも、“今ここにいる僕”が僕なんだ」


「⋯⋯ほう」


ツヅリノオオミが、はじめて視線を上げた。


そこには、迷いも哀れみもなく──ただ、“尊厳”があった。


「ならば、問う。貴様がわらわを追うその意志は、確かなものか?」


「──ああ。僕が、お前に代わって隣に立つ。それだけは、もう迷わない」


沈黙が満ちる。


布が揺れた。糸が震えた。


そして、ツヅリノオオミが静かに目を閉じる。


「ならば、見せてみよ──“貘”よ」


その瞬間、空間が裂けるように開く。


「お前の、選択を⋯⋯」


ツヅリノオオミは、瞬きもせず、彼を見つめる。




「僕は──お前の存在は、否定しない」




貘の声は、穏やかだった。

優しさでも、慈しみでもない。

ただ、たしかな“敬意”だった。


「でも、もういいんだ。ツヅリは、自分の足で歩ける」


「⋯⋯それ故、わらわを喰らうのか?」


「そうだよ」


貘の掌が、すっと前へ伸びる。


ツヅリノオオミの衣が、ほつれるように、光の糸になっていく。


それは“抵抗”ではなかった。


ただ、“還元”。


彼女の輪郭が、ゆっくりと崩れていく。

刺繍のように精緻だった髪も、記憶の反物に戻るように──静かに、解けていく。


ツヅリノオオミの姿が、光に還る寸前──その唇が、かすかに動いた。


「ツヅリ⋯⋯貴様の“感情色のスーパービジョン”と“共感覚”⋯⋯愉快であったぞ⋯⋯」


その声は、どこか誇らしげで──それでいて、名残惜しさを帯びていた。


「いつか⋯⋯向かい合って、針でも持とうぞ⋯⋯」


その言葉と共に、光はふわりと空へ舞い上がる。


最後まで、威厳を失わず。

最後まで、ツヅリという存在に敬意を払って。


それは、祈りでも、呪いでもない。

ただひとつの“言葉”として──残った。


ツヅリは、静かに目を伏せる。


「⋯⋯あぁ。今度は、針を交わせる仲でありたいね」


彼女の声は、誰にでもなく──ただ、空に向けた祈りのようだった。






同じ頃──あの神社。

八咫烏が、鋭く空を裂くように鳴き叫ぶ。


「ノロイ!カイジョ!カイジョ!」


天津大神はその瞬間、すべてを察した。

瞼を閉じ、わずかに嘆くように呟く。


「貘め⋯⋯自ら“人に堕ちた”か」


その背後──どこか茶化すような声が、風に乗って届く。


「いやはや⋯⋯まさか、“僕”があんな選択をするとはね」


神の貘。

実体なきまま、言葉だけが漂う。


「最初の記憶喰いじゃ、施設のロックを解除したり、異空間に人を呼び込んだり⋯⋯やりたい放題だったのにねぇ」


天津大神が目を伏せたそのとき──もうひとつの存在が、ほつれた糸のように現れる。


声には、どこか嬉しげな弾み。


「人に堕ちた結果──同体の呪いすら解いてしまうとは。ふふ、神業にも劣らぬ業じゃのう」


それは、ツヅリノオオミ。


天津大神は、静かに唇を噛む。


「もはや、奴らは我の範疇を越えた。神を棄てた今、我は干渉すら許されぬ」


それを聞き、ツヅリノオオミはふふ、と笑みを浮かべた。


「そうかのう? 自ら神の座を降りた者の“これから”──それとて、物語のひとつ。わらわは興味があるぞ?」


そして、また神の貘の声が転がる。


「次に美味しい記憶、喰えるのはいつかなぁ⋯⋯」


天津大神は、肩をひとつ震わせる。


「貴様ら⋯⋯存外に、人界を謳歌しておるな。⋯⋯愚かなるか、尊きか。いずれにせよ、もはや我の計るところに非ず⋯⋯」




術式は消え、アジトは静寂を取り戻した。

貘は最初の体勢のまま、顔から汗を滴らせながら、肩で荒く息を吐いている。


ツヅリは先日、貘の中に初めて色を見た。

それは、黒でも灰でもない、焼け焦げるような怒り──漆黒の炎だった。


けれど今、目の前の彼には違う色があった。静かで、柔らかくて、どこかあたたかい。

それは──“人の色”だった。


「⋯⋯あんたに、色が見える」


ツヅリは自分の口から出た言葉に、一瞬、目を見開いた。



今まで決して見えなかった、“人の色”──それが、確かにそこにあった。

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