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最終話 「貘とツヅリ」

ふたりのアジトに、音を立てながら亀裂が走る。


細い線が上から下へと、蜘蛛の巣のように広がっていく。


それが全体を覆ったとき、アジトは砕け散った。


キッチンも、ツヅリの部屋も、ソファも、椅子も、テレビも、カップも。


そこに残っていたのは、ツヅリの野球のユニフォームとメガホン、紅茶の缶、そして裁縫箱だけだった。


貘はふぅ、とひとつ息を吐くと、顔を上げた。


「⋯⋯僕らは神じゃなくなったから、追い出されたみたいだね」


流れる汗はそのままに、苦笑いをツヅリに見せた。


どこか、すっきりした顔をしていた。





そこは仄暗い林の中。


ほんの先に、提灯のような、温かな明かりが点々としていて、どこかから、笛の音と太鼓の響きが聞こえてくる。


「⋯⋯祭囃子?お祭りかい?」


ツヅリは、しゃがみ込んで残されたものをひとつひとつ拾い上げた。


紅茶缶と裁縫箱を両腕で抱き、畳んだユニフォームをその上に、メガホンは首にかける。


そしてそのまま、明かりの差す方向へ歩き出す。


「ツヅリ、ちょっと待って」


貘は緊張を帯びた声でツヅリを止めた。


「ここは⋯⋯天津大神のいた神社⋯⋯まだ僕らに干渉する気か?」


ツヅリは振り返りもせずに、ふっと鼻で笑った。


「神様も、あんたとあたしの“門出”が気になるんじゃないかい?ま、勝手に見ていればいいさ──もう縫い直しはきかないからね」


その言葉に、貘は思わず小さく笑った。


静かに、穏やかに、そしてほんの少し寂しげに。


「⋯⋯そういう軽口は、僕の専売特許だったんだけどなぁ」





「あんたと“同体”になっちまったから伝染ったんだよ、きっと」





ツヅリは吐き捨てるように言って、また明かりの方へ歩いていった。


貘は少しぼーっとしたあと、すぐにふっと笑みを浮かべ、軽い足取りでその背を追いかけた。


林の奥から漏れる灯りは、だんだんと色を増し、夜の空気に揺れる祭囃子とともに、ふたりを迎えていた。


視界がふっと開けた。

けれど、ふたりが出てきたのは参道の真裏。


出店のテントの背中や、ガスボンベ、電源ケーブルが無造作に這う、ちょっとした“舞台裏”だった。


ツヅリは気にする様子もなく、懐かしそうに目を細めて呟いた。


「⋯⋯出店が沢山あるよ。天麩羅か、蕎麦か、寿司か⋯⋯迷うねぇ」


鉄板の上でジュッと音がして、香ばしい匂いが漂う。


「江戸時代じゃねぇんだからあるわけ⋯⋯」

出店に立つ男がそう言いかけて、振り返る。


「って姉ちゃんじゃねぇか!」


偶然、鯛焼き屋の店主が、そこで鯛焼きを焼いていた。


「あっ!ツヅリさん!⋯⋯その荷物何?家出?」


舞も首にタオルをかけ、法被を着てそこで売り子として手伝っていた。


「おやっさん!舞!⋯⋯いや、まぁ⋯⋯家を追い出されたっていうか⋯⋯」


ツヅリは紅茶缶の角で指をとん、と弾きながら、困ったように笑った。


「そうか。それならウチの使ってない倉庫があるから、しばらくはそこで生活してもいいぞ」


店主が眉を上げて言うと、


「それなら私、お父さんに頼んで空いてる部屋探せます!ウチはこの辺りの家何軒か所有してるので⋯⋯」


舞が目を輝かせて前のめりに言った。


「ふたりともありがとうね⋯⋯贅沢な悩みだよ」

ツヅリは荷物を持ち直しながら、顔をほころばせる。


そのとき──


「あーーーっ!つづりお姉ちゃん!」


明るい声が響いた。


浴衣を着た女の子が、金魚袋をぶら下げて提灯の明かりの中を駆けてくる。


ヒナだった。


小さな下駄の音が石畳を弾く。


そのすぐ後ろには、手を優しく引く祖母の姿。


「ツヅリちゃん久しぶりね。⋯⋯その荷物は何?」


月明かりと提灯の光の中、ツヅリはほんの少し、瞼を伏せて答える。


「うん、ちょっとね。⋯⋯新しい始まり、ってとこかな」


「あら、そうなの?それなら⋯⋯ここから少し離れるけど⋯⋯使ってない別荘があるから使ってもいいわよ」


一瞬、言葉の意味が飲み込めず、貘はツヅリをまじまじと見た。


そっと身を寄せ、小声で耳打ちする。


「ツヅリ、⋯⋯富裕層狙って付き合いしてる?」


ツヅリも小声で、呆れ顔。


「んなことあるかい。たまたまだよ、たまたま」


すると、ヒナが一歩前に出て、金魚袋を胸の前で握りしめながら、ふいに顔を上げた。


「つづりお姉ちゃん、⋯⋯約束、覚えてる?」


一瞬、時が止まる。


それは──あの学校の発表会の日、別れ際に交わした何気ない会話。


ツヅリは、はっとしたように目を丸くして、すぐに笑みを浮かべた。


「⋯⋯あぁ、もちろん。遅くなっちまってごめんよ。参道を一緒に回ろうか」


ヒナの顔がぱあっと輝く。


「うんっ!!」


「おばあちゃんも一緒に行くだろ?」


祖母は穏やかに首を振った。


「ふたりで行っておいで。私はここで待ってるから」


「そう⋯⋯分かったよ。あんた、ヒナとちょっと行ってくるから、荷物頼んだよ」


「うん、分かった」

貘は荷物を受け取った。


裁縫箱はほのかに温かく、紅茶缶の上に置かれたユニフォームは、微かにツヅリの匂いが残っていた。


ヒナとツヅリは手を繋ぎ、ちょっとだけスキップしながら、賑やかな灯りの海へと溶け込んでいく。


──人混みに、静かに消えていった。


提灯の明かりがちらちら揺れる中、残された貘は、出店の裏の折りたたみ椅子に座り、鯛焼き屋の店主、舞、そしてヒナの祖母が、まるで“面接官”のように立ち並んでいた。


──空気が、重い。


最初に口を開いたのは店主だった。


「お前さん、名前は?仕事は?」


「貘と言います。⋯⋯無職です」


舞が無表情で言い放つ。


「見た感じ20代半ば⋯⋯それで無職。経済力ナシ。⋯⋯家は?」


貘の目が泳ぐ。


「今日の昼過ぎくらいまではあったけど⋯⋯粉々に砕けたから、もう無いです」


ヒナの祖母は店主に淹れてもらったお茶を啜りながら、


「ツヅリちゃんを“守れる”と、あなたは思ってるの?」


貘はしどろもどろになる。


「守れるとは思うけど⋯⋯最低でも寄り添うことくらいは⋯⋯できたらなって」


沈黙。重い。


店主の目つきは鋭い。


「姉ちゃんが、あんたのせいで泣いたらどうする?」


「⋯⋯僕も泣きます」


舞は明らかに苛立っている。


「泣いて済むなら警察いらないって知ってる?」


「⋯⋯はい」


ヒナの祖母は心配そうな顔で、


「この先、どこに住むの?別荘は使って貰っても構わないけど」


貘は伏し目がちに、ツヅリの荷物を見つめる。


「まだ決まってませんけど、紅茶と裁縫箱があれば⋯⋯どこでもツヅリは大丈夫だと思ってます」


店主が身を乗り出して、声を低くする。


「勘違いするなよ。姉ちゃんが“丈夫な子”なんじゃない。“ひとりで抱える癖がある”だけだ。見て見ぬふりすんなよ」


「⋯⋯はい。見届けるだけのつもりだったけど、それじゃだめですね」


舞は眉をひそめたまま、少しだけ息を吐いた。


「まぁ、ツヅリさんが選んだなら⋯⋯とりあえず、“仮合格”ってとこかな。これからの行動次第」


ヒナの祖母は微笑みながら、


「大事にね。あの子は、優しいけど、不器用だから」


提灯の光が、貘の横顔をほんのりと照らす。


貘は静かに、手元の裁縫箱を撫でながら、ぽつりと呟いた。


「⋯⋯人って、大変なんだな」






──ドン、と、空が鳴った。


ふたりが歩いていた参道の先、空いっぱいに、花火が咲いた。


赤、青、金、白。


瞬いて、揺れて、すぐに消える。


ヒナは顔をぱっと上げて、目を丸くする。


「わあっ、つづりお姉ちゃん!花火だよ!」


「うん、綺麗だねぇ」


ツヅリはヒナの手を握ったまま、ふわっと目を細める。


「さっきの、あれ。“ドン”って音、胸に響いたよ!」


「そうかい?あれはね、始まりの音さ。誰かの願いが空に届いた証拠」


「誰の願い?」


「たぶん、あたし達みたいな人の、ささやかな願いだよ。誰かと、ちゃんと笑いあいたいとか。これからも、そばにいてほしいとか。──そういうやつさ」


ヒナはしばらく黙って花火を見ていたが、ふと口を開いた。


「じゃあ、ヒナのお願いも届いたかな?」


「ふふ、届いたさ。──だって、ちゃんと会えた」


「うん!つづりお姉ちゃん、ずっと一緒にいてくれる?」


ツヅリは目を細め、静かにうなずく。


「もちろんさ。たとえ遠くに住んでも、糸がほつれないようにしっかり縫うさ。仕立て屋ってのは、そういう仕事だからね」


「えへへ、それって⋯⋯ちょっとだけ魔法みたい」


「うん。あたしはね、魔法使いなんだよ。──針と糸のね」





──ドォン。


ふたつ、みっつと打ち上がる大輪の花火。


色とりどりの光が夜空に咲いては散り、祭囃子とともに余韻を残していく。


「おぉ、今年の花火はいつもよりでかいなぁ」


店主は腕を組み、どこか誇らしげに空を見上げた。


「うわぁ、凄い迫力」


舞が耳を塞ぎながらも、目はしっかりと空を見ていた。


ヒナの祖母はゆっくりと微笑む。


「こうして皆で見上げる花火も、いいものねぇ」


その少し離れた場所。


出店の裏手の椅子に腰かけた貘が、裁縫箱を膝に置いたまま、空を仰ぐ。


「⋯⋯あんまり興味なかったけど、こうして見ると──悪くないかもね」


ぽつりと呟く声に、誰かが「ふふ」と笑った気がした。




やがて──




「つづりお姉ちゃん、あれが最後の花火かな?」


ヒナが空を見上げたまま聞く。


ツヅリは少し首を傾げて、目を細める。


「さあね。でも、たとえそうでも──また来年もあるさ。ヒナが、今日をちゃんと覚えててくれたら」


ヒナは強くうなずいた。


「うん。ずっと、忘れない!」


夜空には、ひときわ大きな光の花が、静かに、ゆっくりと咲いていた。





ふたりの名は──貘とツヅリ。


忘れることも、縫い合わせることもできる、優しくて、不器用な“人の記憶”の物語。


これは、そんなふたりが「人になる」までの、ほんの短くて、長い旅の記憶。




そして、これからも、紡いでいく。

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