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最終話(アナザーエンド) 「 とツヅリ」(前編)

はじめに


本作『貘とツヅリ アナザーエンド』は、本編を読了された方に向けて執筆された、もうひとつの終わりを描いた物語です。


本編の余韻を大切にしたい方は、どうか順を追って、ふたりの旅路を最初から最後まで見届けてから読んでいただければ幸いです。


この物語は、すべてを知ったあとにだけ、静かに開かれる“記憶の扉”です。






ふたりのアジトに、音を立てながら亀裂が走る。


細い線が上から下へと、蜘蛛の巣のように広がっていく。


それが全体を覆ったとき、アジトは砕け散った。


キッチンも、ツヅリの部屋も、ソファも、椅子も、テレビも、カップも。


そこに残っていたのは、ツヅリの野球のユニフォームとメガホン、紅茶の缶、そして裁縫箱だけだった。


貘はふぅ、とひとつ息を吐くと、顔を上げた。


「⋯⋯僕らは神じゃなくなったから、追い出されたみたいだね」


流れる汗はそのままに、苦笑いをツヅリに見せた。


どこか、すっきりした顔をしていた。




そこは、住宅街の空き地。

人通りもそこまで多くなく、静かな場所。

ふたりは残された荷物を持ち、あてもなく歩き出した。


蝉の声が、どこか遠くでけたたましく鳴いていた。

蒸し暑い空気が肌にまとわりつく。


「⋯⋯あんなに、普通の場所だったんだね」

ツヅリが呟いた。


貘は頷き、別の空き地の角に腰を下ろす。

荷物を抱えたツヅリも、隣に並んで腰を下ろした。


そのまま、ふたりは言葉もなく、夏の音に耳を澄ました。


「これからどうしようかな」

貘がぽつりと呟くと、


「あたしは⋯⋯あたしの気持ちは昔から変わらないんだ。人の幸せや笑顔を見たい。そして、紗世の思いも大事にしたい。あたしはやるよ、また仕立て屋をね」


ツヅリは小さく笑って、膝に置いた裁縫箱を撫でた。


その手のひらが、どこかとてもあたたかそうだった。


貘は、しばらく黙ってツヅリの横顔を見ていた。


それから、ふっと視線を空へ向けて言った。


「⋯⋯それ、いいね。きっと、似合うよ」


空は、まだ青いままで。

雲ひとつないその向こうには、──誰のものでもない、ほんとうの日常が広がっていた。




それからふたりはまた歩き出した。


スーパーの前を通りかかったとき、その中から、


「おう!姉ちゃん!荷物持って何してんだ?」


鯛焼き屋の店主が買い物袋を下げ、ツヅリに声をかけた。


「あぁ、おやっさん。実は家を追い出されちまってね⋯⋯」


「家賃でも滞納したか?」


「いや、粉々になって⋯⋯」


ツヅリが肩をすくめるように笑って答えると、店主は困ったように頭をかいた。


「まぁ⋯⋯なんとなくだけど、姉ちゃんなら有り得そうだな。で、こっちの兄ちゃんは?」


「僕は貘って言います。まぁ、荷物持ちってとこかな」


「⋯⋯そうか。近くにな、昔使ってた倉庫があんだよ。今は誰も使ってねぇし、ちょっと片付ければ住めなくもない」


「⋯⋯ほんとに?」


「本当も嘘もあるか。⋯⋯今、姉ちゃんの顔が晴々してるからな。“快気祝い”ってとこか」


「おやっさん⋯⋯ありがとう」


「礼はいい。ただし、たまには鯛焼き屋も手伝ってくれよ」


「はいはい、分かってるよ」


貘が小声で、

「人との縁って、すごいね」

と漏らすと、ツヅリはにやりと笑って、


「だろ?」と、得意げな顔をした。


ふたりは店主の後を、ゆっくりと歩いていった。




倉庫の扉が音を立てて開く。


中はほこりっぽいけれど、意外と広い。

古い棚や木箱、忘れ去られた什器たちが静かに眠っている。


ツヅリは荷物を置き、ゆっくりと中を見渡した。


「へぇ⋯⋯ここ、案外悪くないね」


倉庫の片隅、桐箱に入れられた反物の中に、色褪せた一枚の布を見つける。


ツヅリの目がわずかに見開かれる。


「これは⋯⋯あたしが仕立てた反物⋯⋯こんなところで会えるとはね⋯⋯」

ツヅリの独特の織り方、刺繍が施されている。


「⋯⋯ここで、もう一度始めようかね。残すってこと、この時代じゃまだちゃんとやれてないからね」


その背中を見つめながら、貘は一歩だけ距離を取って、静かに呟いた。


「残せるって、いいな⋯⋯」


「ん?何か言ったかい?」


「ううん、なんでもないよ。針と糸と──それから、紅茶があれば平気でしょ?」


ツヅリは貘の言葉にふっと笑い、

「何言ってんだい、あんたがいなきゃ意味ないさ」


そして、少しだけ貘の顔を見た。

その目の奥に宿る揺らぎに、気づきかけて──気づかないふりをした。


──その言葉が、貘の胸に、静かに刺さる。




翌日。


ツヅリは、裁縫箱を開いたまま、黙々と針を進めていた。


細い糸が、生地の上に静かに軌跡を描いていく。


ときおり指先が止まり、彼女は目を細めて糸の色を選ぶ。


倉庫の片隅、古びたテーブルの上で、布と針が静かに会話していた。



そのころ貘は、鯛焼き屋の手伝いをしていた。甘いあんこの匂いと、皮の焼ける香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


店主は鯛焼きの型に生地を流しながら、ちらりと貘を見た。


「兄ちゃん、昨日“荷物持ち”って言ってたけど、姉ちゃんとの関係は?」


貘は鯛焼きを包み紙に詰めながら、視線を前に向けたまま答えた。


「気づいたら一緒にいたんだ」


「何だそりゃ?兄ちゃんのほうがちょっと若そうだから姉弟⋯⋯にしちゃあ似てないしなぁ」


「僕も、この関係を表す言葉が分からないんだ」


店主はしばらく黙っていたが、やがて苦笑交じりに言った。


「⋯⋯まぁ、本人たちが良けりゃ、それでいいのかもな」


と、そこへ、


「おじさーん、鯛焼きくださーい!」


制服姿の舞が、リュックを背負ったまま小走りでやって来た。

一歩足を止めて、店主の横にいる貘を見て、首をかしげる。


「⋯⋯って、あれ?新しい人?」


「おう、お前さんも知ってる、あの姉ちゃんがウチの倉庫に住むことになってな。その代わりに、その⋯⋯“荷物持ち”に手伝ってもらってるんだ」


「えっ!ツヅリさんが?今度遊びに行っちゃおうかな!」


舞は一瞬目を丸くしたあと、口元を手で隠して笑った。


「お兄さんが荷物持ち?ツヅリさんって令嬢か何かなの?でも、あのルックスとスタイルならアリ寄りのアリ⋯⋯」


貘が黙って鉄板を見つめていると、店主が無言で、ちょうど焼きあがった鯛焼きを包み紙に入れた。


「⋯⋯ほれ。焼けたぞ」


「はっ!あはは⋯⋯つい妄想を⋯⋯ありがとう、おじさん!」


舞は笑いながら鯛焼きを受け取り、そのまま軽やかに店を出ていった。

背中のリュックが小さく跳ね、夏の光にきらりと反射した。




そのあと、ふたりの間に、言葉はもうなかった。




鉄板から立ち昇る湯気の向こう、貘はふと目を伏せる。

焼きあがった鯛焼きの列に、ひとつ、形の崩れたものが混ざっていた。





鯛焼き屋は営業を終え、貘は鯛焼きの紙袋をぶら下げながら、倉庫の扉を静かに開けた。


「お帰り。ちゃんと仕事は出来たかい?」


ツヅリの声が先に届く。

彼女は相変わらず縫い物に没頭していた。

体ごとは振り向かず、針の音も止めない。


「うん。鯛焼きを袋に入れただけだけど」


「そうかい。店の前で客引きでもしてみたらどうだい?」


「⋯⋯そうだね。これ、食べなよ」


貘はツヅリの横に紙袋を置いた。


「おっ、おやっさんの鯛焼き!頂くよ」


ツヅリは早速鯛焼きを頬張る。

形が悪いのを気にすることなく。


「う〜ん、やっぱり最高だね!」

口の端にあんこをつけたまま、齧った鯛焼きをテーブルに置いた。


「ツヅリ、あんこついてるよ」

貘がそれを拭こうと手を伸ばしたとき、


「えっ?あっ、本当だ」

ツヅリは指で拭き取り、それを舐めた。



少し間を置いて、貘は彼女の手元に目をやった。

淡い藍色の布地に、金糸が流れるように刺されている。


「それ、綺麗だね。何か、生き生きしてるっていうか」


ツヅリは、ほんの一瞬だけ手を止めて、ふっと鼻で笑った。


「あんたにも分かるようになったかい? でも、まだまだだよ。あたしが作りたいのは、こんなもんじゃない」


「⋯⋯そう。ツヅリは高いところを目指してるんだね」


「そりゃそうさ。やるからには妥協なんかしてられないよ」


明かりの届かない倉庫の隅に、貘の影が落ちていた。

ほんの少し、遠く離れたその影は──何かを残しきれずに、そこに佇んでいた。




翌日。

鯛焼き屋は休み。

貘はひとり、駅前のロータリーのベンチに腰を下ろしていた。


背もたれに腕を預けて、空を仰ぐ。

重たく垂れ込めた雲が、じっとこちらを見下ろしている。

その向こうから、ぎらついた日差しが滲み出し、蝉の声は、耳をつんざくほどけたたましい。


貘は目を細めて、ぽつりと呟く。


「⋯⋯流石に、都合が良すぎるよね⋯⋯」


“あの人”──視えない世界を語り、貘の存在を認めてくれた。あの人に、会いたくなった。


でもそれは、祈りのような願いでしかないはずだった。




──なのに。




カツ、カツ、と。

乾いた音が、アスファルトを叩く。

白杖が歩道を撫でるたび、蝉の鳴き声が一瞬だけ割れていく。


貘は、そっとその方向に目を向ける。


あのときと同じスカートの裾。

揺れる髪。

落ち着いた足取り。


「お隣、いいかしら?」


彼女──ユカリは、貘の右隣を指しながら、微笑んでいた。


まるで、ここに来ることが決まっていたみたいに。


「はい、どうぞ」


貘がそう言うと、ユカリは腰をおろした。


「その声は⋯⋯貘くん?久しぶりね。雰囲気が変わったのね」


「⋯⋯分かりますか?」


「うん、人間みたい。だから、最初声を聞くまで分からなかったわ」


「人間、か⋯⋯」


「何か悩んでるみたいね?」


「⋯⋯僕は、残せないんです。記憶を喰うだけ。だから、残せるとしたら“空白”しかない」


ユカリは、微かに笑う。

だがその笑みには、どこか遠くを見つめるような翳りがあった。


「でも⋯⋯空白って、すべてが無意味なわけじゃないわ。例えば、日記に書かれなかった日のこととか。写真に写っていない瞬間のこととか。──私はね、そういう“抜けたところ”にこそ、真実が宿ると思ってるの」


貘は黙って、その言葉を受け取る。


「あなたが“喰った”記憶たちは、きっと誰かの苦しみや願いだったのよね?それを奪ったことを、今あなたは罪だと思ってるかもしれないけれど⋯⋯──それを“喰ってくれた”って、感謝してる人も、いるのよ。私もそのひとり」


「⋯⋯でも、消えていくんです。僕の痕跡なんて、何ひとつ残らない」


「残らなくてもいいのよ。だって、あなたがいた“そのあとの世界”に、笑ってる人がいれば──それが証明になるもの」


彼女の目は見えていないはずなのに、まっすぐ貘の心を見透かしていた。


そして──


「私にはね、貘くんの“色”が、前よりもずっとはっきり見えるの。あなた自身が、自分に無いと思っても、周りに残した色が、確かにあるのよ」


貘は、小さく呼吸を整えた。

ユカリの言葉が、胸の奥の曖昧なところに、やわらかく届く。


「“残せない”って言ってたけど⋯⋯私は、忘れてないわ。貘くんが言った言葉も、あのときの空気も」


「⋯⋯ありがとう」


「だからね、どんなに静かに誰かの背中を押しても⋯⋯その人の歩幅や足音には、“あなた”がちゃんと映ってると思うの。目に見えないだけで、ね」


ユカリはふっと笑い、白杖の先でアスファルトを軽く叩いた。


「貘くん、“自信を持ちなさい”なんて、私は言わないわ。でもね、あなたは⋯⋯ちゃんと、残せているのよ」


「そっか⋯⋯」


貘は“言ってほしかった言葉”を、ようやく受け取れた気がした。

胸の奥に張りついていた何かが、少しだけ、解けていく。


──だからこそ、ずっと引っかかっていたことを、つい口にしてしまった。


「ユカリさん、天津大神って⋯⋯知ってますか?」


「⋯⋯天津大神」


ユカリは、一瞬だけ視線を落とした。

その顔には、感情の読み取れない沈黙が走る。


(やっぱり、まずかったかな⋯⋯)


「──あぁ、天津大神ね」


ふいに、何事もなかったかのように、彼女は微笑みを戻した。


「ここからちょっと先にある神社に祀られてる神様よ。それがどうかしたの?」


「あ、いや⋯⋯あそこの神社、雰囲気がいいなって」


「そうね。私もそう思うわ。そういえば──もうすぐ、その神社でお祭りがあるの。気晴らしに行ってみたらどうかしら?」


「お祭りですか⋯⋯気が向いたら」


「ふふ。気分転換は、大事よ。あ、そろそろ行かないと。貘くん、また⋯⋯ここで会いましょう?」


「はい。ありがとうございました」


ユカリは立ち上がり、白杖でアスファルトを軽く叩いた。


カツ、カツ、と、まっすぐに伸びる足取り。

その背中に、貘は声をかけようか、ほんの一瞬だけ迷った。


けれど──言葉にならなかった。


遠ざかる足音。

蝉の声に溶けていくその輪郭を、貘はじっと見つめていた。


白杖の先が、歩道の端を撫でるたびに、なぜか彼の中の“空白”が少しずつ埋まっていくような気がした。


「⋯⋯また、会えるといいな」


ぼそりと呟いた声は、誰にも届かず、曇り空の下、ゆっくりと溶けていった。

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