町は浮き足立っていた。
参道には提灯が並び、屋台の煙が漂い始める。
風鈴の音、子どもたちのはしゃぐ声、そして時折聞こえる祭囃子のリハーサル。
そのすべてが、夏の一日を“特別なもの”に変えていく。
店主は、いつになくせわしなく手を動かしていた。
「姉ちゃん!今日は頼むぞ!祭りは書き入れ時だからな!」
「散々わがままさせてもらったからねぇ。鯛焼き売上記録、塗り替えてみせるよ」
そう言って、ツヅリが出てくる。
野球観戦のときに着ていたセイカーズのユニフォーム。
背番号は「1」。
ネームは「TSUZURI」。
腰には動きやすくまとめた布のエプロン。
後ろに纏めた髪。
首からメガホンを下げ、やる気満々だ。
店主が吹き出す。
「お、おい⋯⋯なんでその格好なんだ?」
「あたしはこの格好が世界に知れ渡ってるみたいだからね。目立つだろ?」
ツヅリが店の横を歩く子どもたちに手を振ると、何人かが目を輝かせて寄ってきた。
「あー!お姉さん!」
「坊やは⋯⋯あたしの姿をスマホで見せてくれた子だね?」
「そうだよ!でも、お姉さんまだ練習見に来てくれてない⋯⋯」
「あぁ⋯⋯そうだったね。ごめんよ。近いうちに行くよ」
「約束だよ?」
「あぁ、約束だ」
「じゃあ、鯛焼き5個ください!」
「そんなに買ってくれるのかい?ありがとね!」
そのやり取りを見ていた人たちが、列を作り始める。
「あれ、あの人春先にSNSでバズってた人じゃない?」
「本当だ!実在したんだ!」
「うわ〜、すっげぇ美人」
屋台はいつの間にか長蛇の列になった。
「ほらね、こういうのって“最初の印象”が肝心なのさ」
ツヅリはテキパキと会計をこなしつつ、笑顔も忘れない。
受け取った鯛焼きを大事そうに両手で持つ子どもたち。
「SNSで見ました」と声をかけてくる学生。
一緒に写真撮影にも快く応じる、ツヅリの一挙手一投足に、行列の熱気はますます高まっていく。
そんな熱とは裏腹に、共に手伝っていた貘は、黙々と鯛焼きを包み紙に入れながら、数日前のことを思い出していた。
ユカリに会ったあと、帰った倉庫でのこと。
「ただいま」
控えめな声。
貘が扉を開けると、いつもの光景がそこにあった。
ツヅリは作業台に向かい、布を広げている。ミシンの代わりに、今日は手縫いのようだった。
細かい刺繍を、黙々と。
「お帰り。何かいいことでもあったのかい?」
目は合わせず、それでいて自然な返し。
貘は少し間を置いて、口を開く。
「うん⋯⋯ユカリさんに会えたんだ」
「そうかい。元気だったかい?」
「うん。相変わらず覗かれてるみたいだった⋯⋯変わった人だよね。妙に悟ってるっていうかさ」
軽く笑いかけてみたが、ツヅリの表情は特に変わらない。
貘は、そっと目線を外にやる。
まだうっすらとオレンジ色の光が残る夕空。
ふと、今日の会話が頭をよぎった──あのとき、ユカリが言っていた。
(「お祭りがあるの。気晴らしに行ってみたらどうかしら?」)
「そうだ、もうすぐお祭りがあるの知ってる?よかったら、気分転換に行ってみない?」
自分の言葉じゃないことに、少しだけ罪悪感を覚えながら、貘は言った。
まるで“知っていた”かのように。
だが、ツヅリは針を止めると、ひと息ついて──目も合わさず、事もなげに返した。
「⋯⋯あんた、おやっさんから聞いてないのかい?」
「え?」
「祭りにおやっさんが屋台出すから手伝わないといけないんだよ。あたしは好きなことやらせてもらってるから手伝うけど⋯⋯あんたはどうする?」
部屋に沈黙が降りた。
遠くで、犬の鳴き声が聞こえる。
貘は、ほんの少し唇を噛んだ。
(──聞いてない。自分だけ)
ひどく小さなこと。
でも、どうしようもなく、胸の奥にぽつりと冷たいものが灯った。
「⋯⋯手伝うよ」
絞り出すように言ったその声は、思っていたよりずっと低かった。
ツヅリは、返事を待たず、もう縫い針を動かし始めていた。
「そうかい」
その一言は、優しさでも、冷たさでもない。
ただ、いつもの調子。
──にもかかわらず、貘はどこか、誰の中にもいないような気がした。
参道は、まるで色と音の洪水だった。
縁日屋台からはソースや焼きとうもろこしの香りが立ち込めている。
風鈴の音がかすかに重なり、太鼓のリズムが遠くから響いてくる。
鯛焼き屋の前には、列が折り返すほどの人だかり。
笑い声や呼び込みの声。
そのすべてを、ツヅリは生き生きとした動きで渡り歩いていた。
「はい、お待たせ!こっちはチョコ入りね。焦げ目がいい具合にパリッとしてるよ」
「どんどん焼くよ、焦げる前に取ってくれー!」
メガホンをぶら下げたツヅリが、おどけた口調で呼びかけると、子どもたちが笑い声を上げた。
それを見て、列の奥から、
「お姉さん、美人で元気だな〜」
「SNSでバズったときの格好アツいよな〜」
とざわめきが広がる。
その横で、貘はただ、鯛焼きを包み紙に収めて続けていた。
次々に焼き上がる生地を掴み、熱を手のひらに感じながら、流れるような手つきで包んでいく。
けれど、どこか視線の焦点が合っていない。
──暑いな。
ふと空を見上げる。
厚い雲がちぎれ、白みがかった日差しが滲み落ちていた。
蝉の声は途切れることなく、耳の奥にじわじわと滲み込んでくる。
ツヅリの笑い声が響く。
目の前の景色は、色鮮やかで、にぎやかで、生命力に満ちている。
それなのに、貘の内側には、まるで逆に、ひとつの言葉が静かに沈んでいた。
「あなたは⋯⋯ちゃんと残せているのよ」
あのときのユカリの言葉が、指の間に残る熱と重なる。
包み紙を折り返す動作に、その記憶が紛れ込んでくる。
──ほんとに、残せてるのかな。
目を細めて、行列の向こうを見る。
そこにはツヅリがいる。
子どもと目を合わせ、笑いながら、「またおいで」と手を振っている。
その笑顔の輪郭が、いつになく眩しく見えた。
拝殿の前では神楽が披露されていた。
その意味を、今となっては知る人はほぼいない。
今から約200年前。
この土地に「狂人病(きょうじんびょう)」と呼ばれる病が蔓延した。
人々は錯乱、発狂、殺人、損壊、自死など、次々と異常行動に走り、町は一夜にして“地獄”となったという。
感染症でも、毒でもなかった。
ただ“ある日”、突然に、街が狂い始めた。
記録はほとんどが封印され、事件は「神の怒り」として語られた。
祭りの神楽は、その怒りを鎮めるための“祈り”だった。
やがて時が過ぎ、都市は再建され、人々は名を変え、記憶を伏せた。
そして、いつしか“狂人病”は忘れられ──神楽だけが、“形骸”として残った。
けれど、今年──
すべての“条件”が再び揃った。
暦、月齢、人口密度、土地の封印──200年前と“完全に一致”する状況が、偶然ではなく、“運命のように”訪れようとしていた。
一方その頃───
祭囃子が遠くで響く中、鯛焼き屋の長い行列の最後尾付近で、女子高生くらいの二人組が話している。
ツヅリはそれに気づき、声をかけた。
「おっ、舞じゃないか。わざわざ並んでくれるのかい?」
「あっ、ツヅリさん!その格好⋯⋯やっぱり好き⋯⋯」
舞は顔を赤らめる。
「あ、ありがとね」
ツヅリは苦笑いした。
「あっ、そうだ。ツヅリさん、──都市伝説らしいんだけど、知ってますか?」
「都市伝説?」
舞の友人も気になるようだ。
「え、なに? 怖い話?」
「うん、なんかね──昔このあたりで“狂った人たちがいっぱい出た”とか。“見たくない記憶”を見せられて壊れたって⋯⋯今日がその“条件が揃う日”なんだって。って、TikTokで見たの」
ツヅリは少し眉間にシワを寄せる。
「“見たくない記憶”⋯⋯ねぇ」
舞の友人は信じていないようだ。
「信憑性ゼロじゃん⋯⋯」
「⋯⋯だよね!何か嘘っぽいもん!」
ふたりの笑い声が混ざる。
けれどその笑いは、どこか乾いていた。
ツヅリは目元にかかる髪をひとつ、耳にかける。
そして少しだけ、周囲の“空気の色”を見た。
ほんの僅かに──どこか、“煤けたような黒”が、拝殿の方向から滲み出している気がした。
「⋯⋯嫌な予感がする。とても、ね」
彼女の声は、ざわめきの中に吸い込まれていった。
境内の奥。
夕闇が迫る拝殿前では、煌びやかな衣装をまとった舞い手たちが、雅やかな旋律に合わせて神楽を舞っていた。
──その刹那。
バチン。
と、どこかで何かが“切れる”音がした。
一人、舞い手が崩れる。
次いで、もう一人。
次々と倒れてゆく。
まるで操り糸が切れたように。
「えっ⋯⋯!?」
「大丈夫ですか!?」
「誰か!」
観客がざわめき始める。
そのざわめきに紛れるようにして、境内の隅々から、子供の泣き声が響き始めた。
どこかで泣き始めた声が、まるで連鎖のように広がっていく。
ひとり。
「ママ⋯⋯どこ⋯⋯?」
「どうしたの?ここにいるよ?」
ふたり。
「あそこに、変なひとがいる⋯⋯こわい、こわいよぉ⋯⋯」
「誰もいないよ?どうしたの?」
またひとり。
「やめて!やめて!⋯⋯しらないおじちゃん、こっち見ないでぇ!!」
「誰も見てないよ?しっかりして!」
中でも、ヒナの声は、ひときわ鋭く響いた。
「う⋯⋯うぁああああっ!いやああっ!やだっ、やだぁっ!!」
彼女は耳をふさいで地面にうずくまり、周囲の空気を裂くような叫びを上げていた。
「ヒナちゃん、大丈夫、大丈夫よ?」
祖母はそう声をかけるのが精一杯だった。
異変に気づいていたツヅリは境内へ駆け出していた。
「あっ⋯⋯ヒナ!」
近寄るツヅリをヒナは拒絶する。
「いやぁ⋯⋯こないで、こないで!」
その中心で、“煤けたような黒”がどんどん大きくなり、うごめいていた。
ヒナのもとに膝をつき、無理やり肩を抱きしめる。
ツヅリの指先が、彼女の服に染み込んだ“色”をなぞった瞬間──
視界が、歪んだ。
「記憶が⋯⋯弄られてる」
それは、貘が以前、「暴喰」で人々の記憶を引き裂いたときに見た色。
「このままだとみんなの記憶は⋯⋯無数の“色”は──砕け、燃え、潰れ、爆ぜる⋯⋯」
周囲の人々が倒れて行く中、それをかき分けて貘が走ってきた。
「⋯⋯あんた、やるのかい?」
「僕以外に誰が出来るのさ⋯⋯」
貘は近くの子供の額に手を翳す。
術式を展開し、記憶に入り込んだが、見慣れない光景を目にした。
以前は、レストランのメニューを眺めるように、または、タブレットをスクロールするように見れた記憶。
それが、今は目の前をぐるぐると高速でループしている。
「くそっ!何処だ!」
貘は何度も何度も掴んでは離す。
そして、やっと捉えた記憶を喰う。
「うっ⋯⋯」
貘は激しい嘔吐に襲われた。
「あんた、大丈夫かい?」
「⋯⋯はぁ、はぁ、全然大丈夫じゃないよ⋯⋯」
思っていた以上に記憶喰いの能力は劣化していた。
「先に本体を叩く⋯⋯それしか無い」
貘は境内の中心のどす黒い塊の中へ入っていった。
黒の中。
踏み込んだ瞬間、“それ”は──目を覚ました。
「おまえが、喰うのか。“人間”ごときが」
重く、鈍く、世界の底を這うような声。
それは“声”というよりも、存在そのものが鳴ったようだった。
直後──
脳髄を貫く、記憶の奔流。
痛みも、苦しみも、感情すら超えた何かが、貘の意識を焼き尽くす。
──200年間。
誰にも触れられず、誰にも癒されず、ただ溜まり続けてきた──
「忘れたい記憶」
「見たくない記憶」
「直視できなかった記憶」
戦争。差別。裏切り。
虐待。搾取。殺戮。
声にならない叫びが、記憶という形で、貘の中へ押し寄せる。
怒りに燃え、涙を流し、引き裂かれながら、それでも生きた人間たちの想いが──容赦なく、貘を侵食していく。
「⋯⋯っ、ぐ、あああっ!!」
頭を抱え、膝をつく。
顔の“穴”から、血が流れる。
だがそれでも、彼は“喰う”ことをやめなかった。
「重い⋯⋯っ、多すぎる⋯⋯!」
一つひとつが、人の一生に匹敵する。
その記憶が──数百、数千、数万と、貘という“器”に、詰め込まれていく。
限界はとうに超えていた。
骨が軋み、思考が裂ける。
それでも、記憶は流れ込み続ける。
「だめだ⋯⋯意識が⋯⋯持たな⋯⋯っ──」
激流の中で、輪郭が溶ける。
「僕」が「誰か」になり、「誰か」が「僕」になる。
そんな混濁の淵で──
世界が、反転した。
白と黒の狭間。
色のない、無音の空間。
そこに──ふたつの“声”があった。
「ダメじゃないか、“僕”。せっかく“人に堕ちた”のに、無理しちゃあ」
「そうじゃ。せっかく行く末を肴に、楽しもうと思っておったのにのう」
「⋯⋯神の“僕”と、ツヅリノオオミ⋯⋯」
声は静かだった。
けれど、決して優しくはなかった。
それは──見届ける者たちの声だった。
「このままじゃ、死んじゃうよ?“僕”だけじゃなくて、みーんな」
「どうするのじゃ?」
「⋯⋯“暴喰”を使う」
「“人間”の君には無理だよ。制限時間は、数分──それが限界だろうね」
「⋯⋯まだ、使えるのか?」
「ん〜、おすすめはしないけどねぇ」
「“人間”らしいのう。──自己犠牲とは」
「⋯⋯本来、“暴喰”は、神としての僕が制御していた力だよ。記憶の深層に踏み込み、すべてを無差別に、無感情に、無慈悲に喰らい尽くす術⋯⋯ってのは分かってるよね?」
「それはもう、“守る”とは程遠いものじゃ」
「でも⋯⋯それでも、守りたいんだ。全部、残したい。誰か一人でも──忘れないように」
「へぇ、“僕”はカッコいいね。その言葉が聞けただけで、僕は満足だよ」
「人に堕ちてすぐ、自己犠牲で死んだ阿呆がおったと──語り継ぐとするかのう」
ふっと、色のない空間に、輪郭が差し始める。
奔流に染まりながらも、たしかに残っていた“意志”が、色を取り戻していく。
そして──
貘は、目を開けた。真紅の瞳が光る。
「⋯⋯暴喰の、始まりだ」