その日、いつもより仮想光が穏やかだった夕暮れ前。
人気のない回廊で、ミサキはふと背後から声をかけられた。
「ミサキ・アリア」
静かな声に呼び止められ、振り返ると――そこにはドウジン室長が立っていた。
「少し、いいか」
「……はい」
目線で促され、ミサキはドウジンのあとに続く。
(なんだろう……室長がワタシに声をかけるなんて……なんだか緊張する)
ふたりの足音だけが回廊に響く。仮想光の切れ目が床に揺れて、歩調に合わせて形を変えていく。
その沈黙はどこか張りつめたものではなく、穏やかで、それでも胸の奥に小さなざわめきを残した。
やがてふたりは、コロニー内の緑化区画――
人々の憩いの場として設けられた庭園エリアへと辿り着く。
仮想天蓋の夕暮れ色が、葉のあいだから斑に差し込んでいる。
ミサキの視界に映る草花は、わずかな風に揺れて静かに囁いているようだった。
その奥に、小さな温室がひっそりと佇んでいた。
(こんなところがあったなんて……)
温室はガラス張りの壁に囲まれ、仮想光を通してやわらかい影を落としていた。
誰も足を踏み入れていないのか、少し埃っぽい気配と、満ちすぎた静けさがそこにあった。
ミサキは辺りを見渡しながら、ドウジンの背中を追い、中へと入る。
「すごく素敵な場所ですね。こんなところがあったなんて知りませんでした」
ドウジンは応えず、小道を進む。
その無言の歩みに、不思議と違和感はなかった。ただ、どこか導かれているような感覚だけが残った。
温室の中は外よりもわずかに暖かく、湿度を帯びた空気が花の香りを濃くしていた。
そこに立っていると五感のすべてが包み込まれていくようだった。
ガラスの天井から差し込む光が、花びらの色をゆっくりと変えていく。
温室の中程、咲き乱れる花に埋もれるようにして立つひとつの像。
その姿は、まるで本当に“ここにいる”かのようだった。
ミサキの足が自然と止まる。
像の顔を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
「……ド、ドウジン室長、この方は……?」
「……わたしの母だ」
「え……?」
「こちらに来てから、記憶をもとに再現した」
「お母様……ですか?」
「そうだ。……どうした?」
ミサキは視線を逸らすことができなかった。
目の前の像は、どこかで知っている気がした。けれど、その記憶には明確な形がない。
「いえ、その……夢の中で見る“あの人”に、なんとなく雰囲気が似てるような気がして……
あ、、アタシが最近よく見る夢なんですけど、
でも顔は、いつもぼやけてて見えないんです……でも、なぜかその人のこと、“ねぇさま”って呼んでる自分がいて……」
勢い込んで話し始めた自分に気づき、思わず口をつぐむ。
しかし、ドウジンはやわらかく応えた。
「落ち着きなさい」
その声に促されるように、ミサキは深く息を吐いた。
「やはり、そうか……」
「え……?」
「私の母は、君の夢に現れる女性の遠縁にあたる。
面差しが似ているのも、無関係ではない……君も、な」
ドウジンはふと目を細め、どこか懐かしさを滲ませた瞳でミサキを見つめた。
「……どういうことですか? 室長はどうして、私の夢のことまで……」
「これは、キミが自ら辿り着かねばならない。だが……彼女が、必ず導いてくれるだろう」
「彼女……って、あの“ねぇさま”がですか? それとも……」
「大丈夫だ。君なら、ナオヤも、な」
そう言い残して、ドウジンは温室を後にした。
ミサキはひとり残され、まだ微かに揺れる空気の中に立ち尽くしていた。
名残を引くように、女神像へと視線を戻す。
足元のプレートに目をやると、古代文字でこう刻まれていた。
『リュミナ・アマセリウス』
表面はかなり劣化していたが、かろうじて文字は読み取れた。
(この古代文字も読める……わたし……)
ミサキは、かすかに震える指先でその名をなぞった。
「アマセリウス……たしか、ドウジン室長も……ドウジン・アマセリウスって……」
(っていうことは、お母様って……本当のことなの?)
その下には、崩れかけた文字がかろうじて残っていた。
=== === ====
…==…セリオン
すべてを読み取ることはできなかったが、“セリオン”という文字だけははっきりと見えた。
「セリオン?どこかで聞いた気がするけど……」
視界の端に、仮想空が描き出す夕暮れの光が滲んでいた。
静かに目を上げ、もう一度像を見上げる。
「……あなたは、いったい……誰なんですか?」
女神のような像に向かって、ミサキは夢の中の“ねぇさま”を重ねるように、静かに問いかけた。
誰もいない温室の中、祈るような声が、柔らかく空気に溶けていった。
居住区へ戻ったミサキは、扉を開けた瞬間にナオヤと鉢合わせた。
「おかえり。……遅かったな」
「……遅いから、探しに行こうと思ったんだ」
ナオヤの声は穏やかだったが、どこか心配も滲んでいた。
ミサキは小さく頷くと、そのまま部屋のソファに腰を下ろした。
彼の視線が静かに向けられているのを感じながら、ミサキは迷いながらも口を開いた。
「……さっき、室長に呼び止められて、ある場所に連れて行かれたの。……温室みたいな場所で、花がいっぱい咲いてて、その奥に女神像みたいな人の像があったの」
ナオヤは黙って頷き、彼女の話に耳を傾ける。
室内の空気はひんやりしていて、さっきまでいた温室の熱と対比的だった。
「その像が……夢に出てくる“ねぇさま”に、すごく似てたの。
夢の中の“ねぇさま”の顔は見えたことないのに……でも、雰囲気が、ほんとにそっくりで……。
……その女神像は、室長のお母様を再現したものだって言われたの。
……でね、その像の足元にプレートがあって……古代文字で書かれてたんだけど……」
ミサキは記憶を手繰るように言葉を探した。
ナオヤは言葉を挟まず、ただじっと聞いている。
「意味はわからなかった。でも、最後の“セリオン”っていう単語と、名前?みたいな文字だけは……なぜか読めたの」
ナオヤの目がわずかに動いた。
「……セリオンって言った?」
「うん。。。」
ナオヤは目線を少し宙に向けながら、低く呟いた。
「たしか……セリオンって、遥か昔に存在した国だったはずだ。“最後の王国”って呼ばれてて、最終戦争の直前に消えたって……古い記録に名前が残ってたと思う」
ミサキは無意識に胸元に手を当てた。
形のない何かが、静かに彼女の内側を揺らしていた。
ナオヤはそんな彼女を見つめながら、小さく眉をひそめた。
「……なんていうか……ちょっと変なこと言っていいか?」
「うん」
「その“セリオン”って言葉を聞いた瞬間……頭じゃなくて、もっと深いところが揺れた気がしたんだ。
胸の奥が、急にきゅうってなって……理由は全然わからないんだけど……」
ミサキは彼の顔を見上げた。
「……じゃあ、ナオヤにも何か……?」
ナオヤは少しだけ視線を落とし、ゆっくりと答えた。
「どうなんだろ……そういえばさっき、“名前もあった”って言ってたよな。なんて書いてたんだ?」
「……“リュミナ・アマセリウス”って、彫られてたの」
その名を聞いた瞬間、ナオヤの表情がふっと止まった。
「……リュミナ・アマセリウス……?」
呟いたその刹那――ナオヤの頬を、ひとすじの涙が伝った。
「ナオヤ、どうしたの?」
「え?」
「気づいてないの? 涙、流してる……」
ナオヤは自分の頬に触れ、指先で涙を拭った。
「あれ……? なんでだ……?」
ナオヤはそっと目を伏せた。
泣く理由なんて、どこにもなかったはずなのに――
でも、確かにその名前を聞いた瞬間、何かが揺らいだ。
自分の中の“知らないはずの場所”が、確かに疼いた気がした。
「……なんだろう……どこかで聞いたことがあるような……」
ナオヤは眉を寄せ、ゆっくりと首を振る。
「え……?」
ミサキが不安げに彼を見つめる。
「ごめん。変だよな、オレ……。でも……」
ナオヤは少し目を伏せて、言葉を探すように続けた。
「……あの名前を聞いたときからだけど、さっきから耳鳴りがしてるんだ。
キミがあの古文書に導かれたみたいに……オレにも“何かに辿り着かなきゃいけない”気がしてきてるんだ」
ミサキは黙ってその言葉を受け止めていた。
「……全部が繋がってるとは言えないけど……でも、もう“何か”が始まってるんだな。
ミサキの中で……そして、オレの中でも」
ミサキはしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。
「……ワタシ、本当に……誰かと繋がってるのかな……」
室長の言葉が、今になって、ゆっくりと胸に響いてくる。
ミサキの胸の奥は、まだ揺れ続けていた。
どうして、室長はあの場所にワタシを連れていったんだろう……
彼女に導かれるって……“彼女”って、誰? 夢の中の“ねぇさま”?
けれど、その祈りが自分の中にも確かに息づいていることを、
ナオヤとふたり、まだ言葉にはできないまま、そっと感じ取っていた。
ふたりはしばらく黙っていた。
けれど、その沈黙は静かであたたかく、
まるでこれから迎える嵐の前の、束の間の凪のようだった。
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……夢の中で、わたしは小さな子どもの姿をしていた。
見上げた空には、やわらかな天蓋が広がり、
石畳の上を通る風が、白い布の裾をそっと揺らしている。
その隣に、誰かがいた。
白い衣を纏い、金の髪を背に流した人。
わたしの手を包むように取って、やわらかな声で祈りの言葉を唱えていた。
その声は、とても静かで、あたたかかった。
言葉の意味はわからなかったのに――なぜか、涙が出そうになる。
名前も、理由も思い出せないのに、
わたしは、その人の声を、ずっと昔から知っている気がしていた。
その人は膝をつき、わたしの顔をのぞきこむように笑った。
「光は、かならず還るのよ。
たとえ星が砕けても、祈りは失われない……」
そのとき、胸の奥が、じんと熱くなった。
わたしはなぜか堪えきれなくなって、その人の胸に顔をうずめた。
「ねえ、名前を教えて……」
夢の中のわたしは、震える声でそう言っていた。
けれど、その人は何も言わず、ただ微笑んでいた。
そして、そっと額に口づけを落として、
その金の髪が、風にほどけてふわりと揺れた。
……目が覚めたとき、
胸の奥に、その手の温もりが、まだ残っていた。
誰なのかも、どうして涙が出そうだったのかもわからない。
けれど、ただひとつだけははっきりしていた。
今、このまま何もしなければ、大切なものが遠ざかってしまう――
そんな予感だけが、確かにわたしを突き動かしていた。
―第8章、閉じ。