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【第8章 : 祈りの共鳴】



 その日、いつもより仮想光が穏やかだった夕暮れ前。

 人気のない回廊で、ミサキはふと背後から声をかけられた。


「ミサキ・アリア」


 静かな声に呼び止められ、振り返ると――そこにはドウジン室長が立っていた。


「少し、いいか」


「……はい」


 目線で促され、ミサキはドウジンのあとに続く。

(なんだろう……室長がワタシに声をかけるなんて……なんだか緊張する)


 ふたりの足音だけが回廊に響く。仮想光の切れ目が床に揺れて、歩調に合わせて形を変えていく。

 その沈黙はどこか張りつめたものではなく、穏やかで、それでも胸の奥に小さなざわめきを残した。


 やがてふたりは、コロニー内の緑化区画――

 人々の憩いの場として設けられた庭園エリアへと辿り着く。


 仮想天蓋の夕暮れ色が、葉のあいだから斑に差し込んでいる。

 ミサキの視界に映る草花は、わずかな風に揺れて静かに囁いているようだった。


 その奥に、小さな温室がひっそりと佇んでいた。


(こんなところがあったなんて……)


 温室はガラス張りの壁に囲まれ、仮想光を通してやわらかい影を落としていた。

 誰も足を踏み入れていないのか、少し埃っぽい気配と、満ちすぎた静けさがそこにあった。


 ミサキは辺りを見渡しながら、ドウジンの背中を追い、中へと入る。


「すごく素敵な場所ですね。こんなところがあったなんて知りませんでした」


 ドウジンは応えず、小道を進む。

 その無言の歩みに、不思議と違和感はなかった。ただ、どこか導かれているような感覚だけが残った。

 温室の中は外よりもわずかに暖かく、湿度を帯びた空気が花の香りを濃くしていた。

 そこに立っていると五感のすべてが包み込まれていくようだった。


 ガラスの天井から差し込む光が、花びらの色をゆっくりと変えていく。


 温室の中程、咲き乱れる花に埋もれるようにして立つひとつの像。

 その姿は、まるで本当に“ここにいる”かのようだった。


 ミサキの足が自然と止まる。


 像の顔を見た瞬間、思わず息を呑んだ。


「……ド、ドウジン室長、この方は……?」


「……わたしの母だ」


「え……?」


「こちらに来てから、記憶をもとに再現した」


「お母様……ですか?」


「そうだ。……どうした?」


 ミサキは視線を逸らすことができなかった。

 目の前の像は、どこかで知っている気がした。けれど、その記憶には明確な形がない。


「いえ、その……夢の中で見る“あの人”に、なんとなく雰囲気が似てるような気がして……

 あ、、アタシが最近よく見る夢なんですけど、

 でも顔は、いつもぼやけてて見えないんです……でも、なぜかその人のこと、“ねぇさま”って呼んでる自分がいて……」


 勢い込んで話し始めた自分に気づき、思わず口をつぐむ。

 しかし、ドウジンはやわらかく応えた。


「落ち着きなさい」


 その声に促されるように、ミサキは深く息を吐いた。


「やはり、そうか……」


「え……?」


「私の母は、君の夢に現れる女性の遠縁にあたる。

 面差しが似ているのも、無関係ではない……君も、な」


 ドウジンはふと目を細め、どこか懐かしさを滲ませた瞳でミサキを見つめた。


「……どういうことですか? 室長はどうして、私の夢のことまで……」


「これは、キミが自ら辿り着かねばならない。だが……彼女が、必ず導いてくれるだろう」


「彼女……って、あの“ねぇさま”がですか? それとも……」


「大丈夫だ。君なら、ナオヤも、な」


 そう言い残して、ドウジンは温室を後にした。


 ミサキはひとり残され、まだ微かに揺れる空気の中に立ち尽くしていた。

 名残を引くように、女神像へと視線を戻す。


 足元のプレートに目をやると、古代文字でこう刻まれていた。


『リュミナ・アマセリウス』


 表面はかなり劣化していたが、かろうじて文字は読み取れた。

(この古代文字も読める……わたし……)


 ミサキは、かすかに震える指先でその名をなぞった。


「アマセリウス……たしか、ドウジン室長も……ドウジン・アマセリウスって……」

(っていうことは、お母様って……本当のことなの?)


 その下には、崩れかけた文字がかろうじて残っていた。


 === === ====

 …==…セリオン


 すべてを読み取ることはできなかったが、“セリオン”という文字だけははっきりと見えた。


「セリオン?どこかで聞いた気がするけど……」


 視界の端に、仮想空が描き出す夕暮れの光が滲んでいた。

 静かに目を上げ、もう一度像を見上げる。


「……あなたは、いったい……誰なんですか?」


 女神のような像に向かって、ミサキは夢の中の“ねぇさま”を重ねるように、静かに問いかけた。

 誰もいない温室の中、祈るような声が、柔らかく空気に溶けていった。





 居住区へ戻ったミサキは、扉を開けた瞬間にナオヤと鉢合わせた。


「おかえり。……遅かったな」


「……遅いから、探しに行こうと思ったんだ」


 ナオヤの声は穏やかだったが、どこか心配も滲んでいた。

 ミサキは小さく頷くと、そのまま部屋のソファに腰を下ろした。


 彼の視線が静かに向けられているのを感じながら、ミサキは迷いながらも口を開いた。


「……さっき、室長に呼び止められて、ある場所に連れて行かれたの。……温室みたいな場所で、花がいっぱい咲いてて、その奥に女神像みたいな人の像があったの」


 ナオヤは黙って頷き、彼女の話に耳を傾ける。

 室内の空気はひんやりしていて、さっきまでいた温室の熱と対比的だった。


「その像が……夢に出てくる“ねぇさま”に、すごく似てたの。

 夢の中の“ねぇさま”の顔は見えたことないのに……でも、雰囲気が、ほんとにそっくりで……。

 ……その女神像は、室長のお母様を再現したものだって言われたの。

 ……でね、その像の足元にプレートがあって……古代文字で書かれてたんだけど……」


 ミサキは記憶を手繰るように言葉を探した。

 ナオヤは言葉を挟まず、ただじっと聞いている。


「意味はわからなかった。でも、最後の“セリオン”っていう単語と、名前?みたいな文字だけは……なぜか読めたの」


 ナオヤの目がわずかに動いた。


「……セリオンって言った?」


「うん。。。」


 ナオヤは目線を少し宙に向けながら、低く呟いた。


「たしか……セリオンって、遥か昔に存在した国だったはずだ。“最後の王国”って呼ばれてて、最終戦争の直前に消えたって……古い記録に名前が残ってたと思う」


 ミサキは無意識に胸元に手を当てた。

 形のない何かが、静かに彼女の内側を揺らしていた。


 ナオヤはそんな彼女を見つめながら、小さく眉をひそめた。


「……なんていうか……ちょっと変なこと言っていいか?」


「うん」


「その“セリオン”って言葉を聞いた瞬間……頭じゃなくて、もっと深いところが揺れた気がしたんだ。

 胸の奥が、急にきゅうってなって……理由は全然わからないんだけど……」


 ミサキは彼の顔を見上げた。


「……じゃあ、ナオヤにも何か……?」


 ナオヤは少しだけ視線を落とし、ゆっくりと答えた。


「どうなんだろ……そういえばさっき、“名前もあった”って言ってたよな。なんて書いてたんだ?」


「……“リュミナ・アマセリウス”って、彫られてたの」


 その名を聞いた瞬間、ナオヤの表情がふっと止まった。


「……リュミナ・アマセリウス……?」


 呟いたその刹那――ナオヤの頬を、ひとすじの涙が伝った。


「ナオヤ、どうしたの?」


「え?」


「気づいてないの? 涙、流してる……」


 ナオヤは自分の頬に触れ、指先で涙を拭った。


「あれ……? なんでだ……?」


 ナオヤはそっと目を伏せた。

 泣く理由なんて、どこにもなかったはずなのに――

 でも、確かにその名前を聞いた瞬間、何かが揺らいだ。

 自分の中の“知らないはずの場所”が、確かに疼いた気がした。


「……なんだろう……どこかで聞いたことがあるような……」


 ナオヤは眉を寄せ、ゆっくりと首を振る。


「え……?」


 ミサキが不安げに彼を見つめる。


「ごめん。変だよな、オレ……。でも……」


 ナオヤは少し目を伏せて、言葉を探すように続けた。


「……あの名前を聞いたときからだけど、さっきから耳鳴りがしてるんだ。

 キミがあの古文書に導かれたみたいに……オレにも“何かに辿り着かなきゃいけない”気がしてきてるんだ」


 ミサキは黙ってその言葉を受け止めていた。


「……全部が繋がってるとは言えないけど……でも、もう“何か”が始まってるんだな。

 ミサキの中で……そして、オレの中でも」


 ミサキはしばらく黙っていたが、やがて小さく呟いた。


「……ワタシ、本当に……誰かと繋がってるのかな……」


 室長の言葉が、今になって、ゆっくりと胸に響いてくる。

 ミサキの胸の奥は、まだ揺れ続けていた。


 どうして、室長はあの場所にワタシを連れていったんだろう……

 彼女に導かれるって……“彼女”って、誰? 夢の中の“ねぇさま”?


 けれど、その祈りが自分の中にも確かに息づいていることを、

 ナオヤとふたり、まだ言葉にはできないまま、そっと感じ取っていた。


 ふたりはしばらく黙っていた。


 けれど、その沈黙は静かであたたかく、

 まるでこれから迎える嵐の前の、束の間の凪のようだった。




 ━━✦━━




 ……夢の中で、わたしは小さな子どもの姿をしていた。


 見上げた空には、やわらかな天蓋が広がり、

 石畳の上を通る風が、白い布の裾をそっと揺らしている。


 その隣に、誰かがいた。

 白い衣を纏い、金の髪を背に流した人。

 わたしの手を包むように取って、やわらかな声で祈りの言葉を唱えていた。


 その声は、とても静かで、あたたかかった。

 言葉の意味はわからなかったのに――なぜか、涙が出そうになる。


 名前も、理由も思い出せないのに、

 わたしは、その人の声を、ずっと昔から知っている気がしていた。


 その人は膝をつき、わたしの顔をのぞきこむように笑った。


「光は、かならず還るのよ。

 たとえ星が砕けても、祈りは失われない……」


 そのとき、胸の奥が、じんと熱くなった。

 わたしはなぜか堪えきれなくなって、その人の胸に顔をうずめた。


「ねえ、名前を教えて……」


 夢の中のわたしは、震える声でそう言っていた。


 けれど、その人は何も言わず、ただ微笑んでいた。

 そして、そっと額に口づけを落として、

 その金の髪が、風にほどけてふわりと揺れた。


 ……目が覚めたとき、

 胸の奥に、その手の温もりが、まだ残っていた。


 誰なのかも、どうして涙が出そうだったのかもわからない。


 けれど、ただひとつだけははっきりしていた。


 今、このまま何もしなければ、大切なものが遠ざかってしまう――


 そんな予感だけが、確かにわたしを突き動かしていた。




 ―第8章、閉じ。

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