ドミネン王子が姿を消した、あの新月の夜から、一年が過ぎた。
セリオン王国は、第三王子ドウジンの成人を祝う儀式を控え、一見すると、平和を取り戻したかのように見えていた。
だが、誰もが口には出さない。ただ、あの夜以来、この国を覆い始めた“静かなる恐怖”が、今もなお、人々の心の奥底に、澱のように沈んでいることを、誰もが肌で感じていた。
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「ドウジン様。そろそろ、お支度をなさいませんと」
静かな声が、重く沈んだ空気を揺らす。
「式典に遅れてしまいます。今日の主役は、あなた様なのですから…」
「……カリム」
「はい」
窓の外は、まるでこの国の心を映すかのように、どんよりと曇天が続いていた。
室内もまた、儀式を前にした高揚感など微塵もなく、深海を思わせるような、冷ややかな静寂に満たされている。
窓辺に佇むドウジンは、豪華な礼装をその身に纏いながらも、その視線は、遥か遠くの空を見つめていた。
カリムが、もう一度声をかけようとした、その時。
「カリム」
静かに、だが、有無を言わさぬ響きで、ドウジンは告げた。
「私は、ドミネン兄上を探しに行く」
その言葉に、カリムは息を呑んだ。だが、驚きはなかった。いつか、必ず、この日が来ると、彼もまた、覚悟していたからだ。
言い終えてカリムへと向き直ったドウジンの瞳には、もはや少年時代の苛立ちや、焦りの色はなかった。
ただ、一年という時の中で、静かに、だが確かに研ぎ澄まされた、鋼のような意志と、決して揺らぐことのない決意だけが、宿っていた。
ドウジンは、カリムからの、厳しい反対の言葉を覚悟していた。
だが、カリムは何も言わなかった。
彼はただ、静かに、ドウジンの前に片膝をついた。
それは、家臣としての礼ではない。騎士が、己の生涯を捧げる主にだけ見せる、魂の誓いの形だった。
カリムは、深く頭を垂れたまま、凛とした声で告げた。
「――御意。どこまでも、お供させていただきます」
その、あまりにも真っ直ぐな忠誠に、ドウジンは息を呑んだ。
そして、胸の奥から、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
(……私は、一人では、ないのだな)
「……ありがとう、カリム」
震える声でそれだけを言うと、ドウジンは、固く拳を握りしめた。
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成人の儀式は、滞りなく終わった。
だが、祝宴の喧騒を抜け出し、ドウジンが向かったのは、自室ではなかった。
カリムだけを伴い、彼は、父と兄が待つはずの、玉座の間へと続く、長い回廊を歩いていた。
「……ドウジン様」
カリмが、不安げに声をかける。
「陛下方は、今、諸国の要人との会談の席に…」
「分かっている。だが、話なら、もう通してある」
その落ち着いた声に、カリムは息を呑んだ。
重厚な扉の前で、近衛兵が厳かに礼をし、道を開ける。
その先に広がっていたのは、セリオン王国の権威の象徴、玉座の間。
高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、磨き上げられた床に、無数の光の粒を散らしている。
その奥、玉座に座す父ヴァレノスと、その隣に立つ兄ドルトンの姿があった。二人の表情には、この予期せぬ呼び出しに対する、厳しい訝しみが浮かんでいた。
ドウジンは、部屋の中央まで進み出ると、かつての彼からは想像もつかないほど、落ち着いた所作で、父と兄の前に、深く膝をついた。
「陛下、王太子殿下。本日は、私のために、このような儀式を執り行っていただき、誠にありがとうございます」
「……なんだ、改まって」
ドルトンが、怪訝そうに言う。
「そして、本日は、お二人に、一つ、お許しをいただきたい儀がございます」
ドウジンは、顔を上げた。その瞳には、一点の曇りもない。
「私は、これより、兄ドミネンを探す旅に出たいと存じます。どうか、お許しください」
その場に、氷が張り詰めるような沈黙が落ちた。
最初に、その沈黙を破ったのは、父王の、地を這うような低い声だった。
「―――許さん」
その一言は、ドウジンの覚悟を、いとも容易く打ち砕くかのように、冷たく、絶対的だった。
「行ってはならん。これは、王命だ」
「なぜです!私はもう、子供ではありません!」
「そのようなことは、関係ない!」
ヴァレノスの声が、玉座の間に響き渡る。
「お前には、他に果たすべき使命があろう。…それに、ドミネンの捜索隊は、すでに王太子であるドルトンが率いると、決まっておる!」
その言葉に、ドウジンは、はっと息を呑み、隣に立つ兄を見た。
ドルトンは、動じることなく、ただ、弟から目を逸らすことなく、静かに頷いた。
それですべてが、決まった。
ドウジンの世界から、音が消える。玉座の間に響いていたはずの、父の厳しい声も、もう聞こえない。
彼は、ただ、目の前の兄を見つめた。
その瞳の奥で、いくつもの感情が交錯しているのを、ドウジンは感じていた。
―――この弟が、一体何を言い出すのか。王太子として、それを見極めようとする冷静な光。
―――未熟な弟が、また何か無茶を言うのではないか。そんな、兄としての、どこか突き放すような厳しい光。
―――だが、その一方で。目の前で、堂々と自分を見据えるその姿に、確かに成長の証を見る、ほんのかすかな誇らしさの色も。
その、あまりにも複雑で、揺るぎない兄の瞳を前に、ドウジンは、自分の訴えが、いかに幼く、無力であったかを、思い知らされた。
王命という、絶対的な壁。そして、兄ドルトンが、すでに自分のはるか先を歩んでいるという、動かせぬ事実。
彼は、唇の内側を強く噛み締めた。血の味が、じわりと広がる。
(……まだ、私は……こんなにも、無力なのか)
悔しさを、その痛みで、無理やり喉の奥へと押し込める。
やがて、彼は、ゆっくりと、だが、背筋だけは決して曲げずに立ち上がると、静かに一礼し、玉座の間を後にした。
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自室に戻っても、胸の内の嵐は、一向に収まらなかった。
窓の外は、変わらず、どんよりとした曇天が広がっている。
「……ドウジン様」
心配そうに、カリムが声をかける。
「お顔の色が、優れません」
「……下がっていろ、カリム。少し、一人にしてくれ」
「しかし…」
「頼む」
その、有無を言わさぬ声に、カリムは、静かに一礼して部屋を出て行った。
一人きりになった部屋で、ドウジンは、父に言われた言葉を、何度も胸の中で反芻していた。
自分に課せられた使命、それは「ネファリス」――巫女の護り手としての存在。
だが、その伝説の巫女レディアは、あの夜以来、深い眠りについたままだった。
(私に、眠る姫君を護れと、そう仰るのか…?兄上が、“何者か”の手に落ちたやもしれぬという、この時に?)
ふつふつと、怒りに似た感情が、腹の底から湧き上がってくる。
それは、父や兄に対するものではない。何もできない、自分の無力さに対する、どうしようもない怒りだった。
(護り手、だと…?今の私に、一体、何が護れるというのだ…!)
ドウジンは、窓枠を、強く握りしめた。
その時、ふと、視界の隅に、レディア姫が眠る、隣室の扉が映った。
あの夜、ドウジンは、無意識のうちに、彼女の枕元に、母の短刀を置いてきていた。
まるで、自分の代わりに、彼女を護ってくれと、祈るように。
その瞬間、ドウジンの頭に、一つの考えが、稲妻のように閃いた。
(そうだ…。道は、一つしか、ない…)
その決意が固まった瞬間、隣室で眠るレディアの枕元で、彼が置いていった母の短刀が、ふわりと、一度だけ温かな光を放った。その光は、閉ざされた扉を抜け、時空を超え、魂だけの世界にいる彼女の元へと、確かに届いていた。
もはや、迷っている暇はない。
ドウジンは、部屋の扉を開け、廊下に控えていたカリムを呼び寄せた。
「カリム。もう一度、陛下と王太子殿下にお会いする。謁見を申し入れてくれ」
「……! かしこまりました」
カリムは、ほんのわずかな間で、主君の纏う空気が、まるで別人のように変わったことに気づき、驚きながらも、その迷いのない光を見て、力強く頷いた。
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再び、玉座の間に通されたドウジンを、父ヴァレノスと兄ドルトンは、いよいよ訝しげな表情で迎えた。
「……まだ、何か言い足りぬことでもあるのか、ドウジン」
ドルトンの声には、苛立ちが滲んでいる。
ドウジンは、再び部屋の中央で膝をつくと、今度は、先ほどとは違う、静かな、だが、揺るぎない声で言った。
「陛下。先ほどの王命、確かに拝聴いたしました。ですが、その上で、改めてお願いがございます」
「……申してみよ」
「私は、ネファリスとして、巫女であるレディア姫を護るという使命、必ずや、この身命を懸けて果たしてみせます。…ですが、兄上。今の私に、眠り続ける姫君の枕元で、ただ祈ることしかできぬのが、本当に『護る』ということなのでしょうか」
その、思いがけない問いに、ドルトンは言葉を失った。
ドウジンは、続ける。
「姫君を蝕むこの眠りが、ドミネン兄上を連れ去った“何か”と同じ力によるものであることは、明白です。そして、彼女は神秘の国、アルシアの巫女。ならば、彼女を救う鍵は、セリオンの武力や科学ではなく、彼女の故郷、アルシアの古文書や、伝承、祈りの力にあるはずです」
彼は、そこで一度、言葉を切り、父と兄の目を、真っ直ぐに見つめた。
「兄上が、王太子として、武力をもってドミネン兄上の捜索という『外』の脅威に当たらるのであれば、私は、ネファリスとして、眠りについた巫女を救うという『内』の脅威に、立ち向かいたいと存じます。そのために、私はアルシアへ向かいます。どうか、お許しください!」
それは、ただの反抗ではなかった。
古より継承された「ネファリス」という使命を、誰よりも深く理解し、その上で、自らの意志で、自分のなすべき事を見つけ出した、一人の男の宣言だった。
ドルトンは、呆然と、目の前の弟を見つめていた。いつの間に、これほどの覚悟をその身に宿したのかと。
玉座の間に、再び沈黙が落ちる。
やがて、その沈黙を破ったのは、父王ヴァレノスの、喉の奥で、く、と一つ、短く笑う声だった。
「……よく言った、ドウジン」
その声に、面白がる響きはない。ただ、己の想像を遥かに超えて成長した末の息子への、静かな感嘆と、そして、これから彼が歩むであろう過酷な道への、父親としての憂いが、複雑に混じり合っていた。
「良いだろう。…その道、お前の好きに進むが良い」
「陛下!」
「ただし」
驚くドルトンを、ヴァレノスは手で制した。
「それは、セリオン王国からの、正式な使節団ではない。お前個人の、ただの我儘だ。よって、王国からの援助は一切ない。兵もつけぬ。それでも、行くと言うか」
それは、あまりにも過酷な条件だった。
だが、ドウジンは、迷わなかった。
「―――御意」
彼は、深く、深く、頭を下げた。
「そのお許し、感謝に堪えません」
その姿を、ヴァレノスは、満足げに、そして、どこか寂しげに、ただ、じっと見つめていた。
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やがて、ドウジンの足音が完全に消えると、それまで沈黙を保っていたドルトンが、父へと向き直った。
「父上、よろしいのですか。あのような無謀な旅を、お許しになって…」
その声には、弟を案じる兄としての、切実な響きがあった。
「兵もつけず、カリム一人を供に…。あれはまだ、外の世界の本当の恐ろしさを、知らぬのですぞ」
「……ドルトンよ」
ヴァレノスは、玉座に深く身を沈めたまま、静かに言った。
「籠の中の獅子は、牙を研ぐことを忘れる」
「……ですが!」
「あやつは、もう籠の中に収まる器ではない。行かせてみよ。…奴の牙が、本物かどうかをな」
王は、続ける。その瞳は、遥か未来を見据えているようだった。
「それに……ネファリスの道は、誰かが敷いてやれるほど、甘くはない」
その言葉に、ドルトンは、ぐっと唇を噛み締めた。父の真意を悟り、それ以上、何も言うことはできなかった。
「……御身を、お大事に」
彼は、深く一礼すると、静かに玉座の間を後にした。
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やがて、ドルトンの足音も完全に消え去り、玉座の間に、再び絶対的な静寂が戻る。
ヴァレノスは、玉座に深く身を沈めたまま、誰に言うでもなく、静かに呟いた。
「……ゼフィド。いるか」
柱の影から、音もなく一つの人影が姿を現し、王の前で、深く膝をついた。
「はっ。御前に」
「……例の計画の進捗は、どうだ」
「はっ。レノヴァンに万事、滞りなく進めさせております」
「うむ、ならば良い。だが…」
王は、目を伏せた。その脳裏には、辺境の惨状と、眠り続ける巫女、そして、己の道を歩き始めた、二人の息子の姿が浮かんでいた。
「決戦は、我らが思うよりも、近いのかもしれぬ。……急がせよ」
「―――御意」
ゼフィドは、静かに一礼すると、再び、音もなく、影の中へとその身を溶け込ませていった。
一人残された王は、ただ、静かに目を閉じ、来るべき夜明けと、そして、さらに深い闇の気配を、その身に感じていた。
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一方、レディアの意識は、冷たく、暗い、何もない空間を漂っていた。イルメナスに魂を蝕まれた後遺症で、夢を見ることも、光を感じることもできずにいた。
だが、その時。遠くで、誰かが激しく言い争う声が、微かに響いた気がした。
(……ドウジン、様…?)
なぜ、彼のことを思い浮かべたのか、自分でも分からない。
すると、胸のあたりが、ふわりと、温かくなった。枕元に置かれているはずの、あの短刀の熱が、魂だけの世界にいる彼女にまで、確かに届いている。
その温もりを頼りに、意識を集中させると、彼女は「視た」。
玉座の間に一人立ち、王と王太子を相手に、一歩も引かずに、自分のために言葉を尽くす、若き王子の姿を。
その姿は、もう少年ではなかった。巫女を護るため、運命に立ち向かうことを決意した、「ネファリス」の姿だった。
(あぁ……あなたは……)
その気高い姿に、レディアの魂は、ほんの少しだけ、光を取り戻す。まだ、目覚めることはできなくとも、彼女の心に、小さな希望の種が、確かに植え付けられた。
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その夜、城の厩舎の裏手で、二つの人影が、密かに行動していた。ドウジンとカリムだ。
王の許しは得た。だが、援助はない。すべてを、自分たちだけで準備する必要があった。
カリムが、信頼できる部下から、最低限の武具と食料を調達してくる。ドウジンは、豪華な礼装を脱ぎ捨て、質素で、丈夫な旅人の服へと着替えていた。
「……本当に、よろしいのですか」
カリムが、声を潜めて問う。
「無論だ」
ドウジンの答えは、短く、そして力強かった。
そこへ、もう一つの影が、そっと近づいてくる。侍女のニーナだった。彼女は、小さな荷馬車に、薬草や、清潔なリネンを運び込んでいる。その瞳には、不安と、そして、主君を信じる強い光が宿っていた。
やがて、カリムとニーナの二人によって、眠り続けるレディア姫が、そっと馬車の寝台へと運ばれる。
ドウジンは、馬車の幌の中に入り、静かに眠る彼女の横顔を見つめた。
月明かりに照らされたその顔は、どこまでも儚く、美しい。
彼は、そっと、彼女の枕元に置かれていた、母の短刀を手に取った。そして、眠る彼女の、冷たい手に、その柄をそっと握らせる。
「……レディア姫。必ず、あなたをお救いします。そして、兄上も…」
それは、誰にも聞こえない、魂の誓いだった。
「だから、どうか、それまで、あなたの力を、少しだけ、私に貸してください」
ドウジンは、そっと彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
夜明けは、まだ遠い。
第二部―第13章、閉じ。