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第二部 【過去編 第13章:選び取る宿命】

 ドミネン王子が姿を消した、あの新月の夜から、一年が過ぎた。

セリオン王国は、第三王子ドウジンの成人を祝う儀式を控え、一見すると、平和を取り戻したかのように見えていた。

だが、誰もが口には出さない。ただ、あの夜以来、この国を覆い始めた“静かなる恐怖”が、今もなお、人々の心の奥底に、澱のように沈んでいることを、誰もが肌で感じていた。


━━✦━━


「ドウジン様。そろそろ、お支度をなさいませんと」

静かな声が、重く沈んだ空気を揺らす。

「式典に遅れてしまいます。今日の主役は、あなた様なのですから…」


「……カリム」

「はい」


 窓の外は、まるでこの国の心を映すかのように、どんよりと曇天が続いていた。

室内もまた、儀式を前にした高揚感など微塵もなく、深海を思わせるような、冷ややかな静寂に満たされている。

 窓辺に佇むドウジンは、豪華な礼装をその身に纏いながらも、その視線は、遥か遠くの空を見つめていた。

カリムが、もう一度声をかけようとした、その時。


「カリム」

静かに、だが、有無を言わさぬ響きで、ドウジンは告げた。

「私は、ドミネン兄上を探しに行く」


 その言葉に、カリムは息を呑んだ。だが、驚きはなかった。いつか、必ず、この日が来ると、彼もまた、覚悟していたからだ。

 言い終えてカリムへと向き直ったドウジンの瞳には、もはや少年時代の苛立ちや、焦りの色はなかった。

 ただ、一年という時の中で、静かに、だが確かに研ぎ澄まされた、鋼のような意志と、決して揺らぐことのない決意だけが、宿っていた。


 ドウジンは、カリムからの、厳しい反対の言葉を覚悟していた。

だが、カリムは何も言わなかった。

彼はただ、静かに、ドウジンの前に片膝をついた。

 それは、家臣としての礼ではない。騎士が、己の生涯を捧げる主にだけ見せる、魂の誓いの形だった。


 カリムは、深く頭を垂れたまま、凛とした声で告げた。

「――御意。どこまでも、お供させていただきます」


 その、あまりにも真っ直ぐな忠誠に、ドウジンは息を呑んだ。

そして、胸の奥から、熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

(……私は、一人では、ないのだな)


「……ありがとう、カリム」

震える声でそれだけを言うと、ドウジンは、固く拳を握りしめた。


━━✦━━


 成人の儀式は、滞りなく終わった。

だが、祝宴の喧騒を抜け出し、ドウジンが向かったのは、自室ではなかった。

カリムだけを伴い、彼は、父と兄が待つはずの、玉座の間へと続く、長い回廊を歩いていた。


「……ドウジン様」

カリмが、不安げに声をかける。

「陛下方は、今、諸国の要人との会談の席に…」


「分かっている。だが、話なら、もう通してある」

その落ち着いた声に、カリムは息を呑んだ。


 重厚な扉の前で、近衛兵が厳かに礼をし、道を開ける。

その先に広がっていたのは、セリオン王国の権威の象徴、玉座の間。

高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、磨き上げられた床に、無数の光の粒を散らしている。

その奥、玉座に座す父ヴァレノスと、その隣に立つ兄ドルトンの姿があった。二人の表情には、この予期せぬ呼び出しに対する、厳しい訝しみが浮かんでいた。


 ドウジンは、部屋の中央まで進み出ると、かつての彼からは想像もつかないほど、落ち着いた所作で、父と兄の前に、深く膝をついた。

「陛下、王太子殿下。本日は、私のために、このような儀式を執り行っていただき、誠にありがとうございます」


「……なんだ、改まって」

ドルトンが、怪訝そうに言う。


「そして、本日は、お二人に、一つ、お許しをいただきたい儀がございます」

ドウジンは、顔を上げた。その瞳には、一点の曇りもない。

「私は、これより、兄ドミネンを探す旅に出たいと存じます。どうか、お許しください」


 その場に、氷が張り詰めるような沈黙が落ちた。

最初に、その沈黙を破ったのは、父王の、地を這うような低い声だった。


「―――許さん」


 その一言は、ドウジンの覚悟を、いとも容易く打ち砕くかのように、冷たく、絶対的だった。

「行ってはならん。これは、王命だ」


「なぜです!私はもう、子供ではありません!」


「そのようなことは、関係ない!」

ヴァレノスの声が、玉座の間に響き渡る。

「お前には、他に果たすべき使命があろう。…それに、ドミネンの捜索隊は、すでに王太子であるドルトンが率いると、決まっておる!」


 その言葉に、ドウジンは、はっと息を呑み、隣に立つ兄を見た。

ドルトンは、動じることなく、ただ、弟から目を逸らすことなく、静かに頷いた。


 それですべてが、決まった。

ドウジンの世界から、音が消える。玉座の間に響いていたはずの、父の厳しい声も、もう聞こえない。

 彼は、ただ、目の前の兄を見つめた。

その瞳の奥で、いくつもの感情が交錯しているのを、ドウジンは感じていた。

―――この弟が、一体何を言い出すのか。王太子として、それを見極めようとする冷静な光。

―――未熟な弟が、また何か無茶を言うのではないか。そんな、兄としての、どこか突き放すような厳しい光。

―――だが、その一方で。目の前で、堂々と自分を見据えるその姿に、確かに成長の証を見る、ほんのかすかな誇らしさの色も。

その、あまりにも複雑で、揺るぎない兄の瞳を前に、ドウジンは、自分の訴えが、いかに幼く、無力であったかを、思い知らされた。


 王命という、絶対的な壁。そして、兄ドルトンが、すでに自分のはるか先を歩んでいるという、動かせぬ事実。


 彼は、唇の内側を強く噛み締めた。血の味が、じわりと広がる。

(……まだ、私は……こんなにも、無力なのか)

 悔しさを、その痛みで、無理やり喉の奥へと押し込める。

やがて、彼は、ゆっくりと、だが、背筋だけは決して曲げずに立ち上がると、静かに一礼し、玉座の間を後にした。


━━✦━━


 自室に戻っても、胸の内の嵐は、一向に収まらなかった。

窓の外は、変わらず、どんよりとした曇天が広がっている。


「……ドウジン様」

心配そうに、カリムが声をかける。

「お顔の色が、優れません」


「……下がっていろ、カリム。少し、一人にしてくれ」


「しかし…」


「頼む」

その、有無を言わさぬ声に、カリムは、静かに一礼して部屋を出て行った。


 一人きりになった部屋で、ドウジンは、父に言われた言葉を、何度も胸の中で反芻していた。


 自分に課せられた使命、それは「ネファリス」――巫女の護り手としての存在。

だが、その伝説の巫女レディアは、あの夜以来、深い眠りについたままだった。


(私に、眠る姫君を護れと、そう仰るのか…?兄上が、“何者か”の手に落ちたやもしれぬという、この時に?)


 ふつふつと、怒りに似た感情が、腹の底から湧き上がってくる。

それは、父や兄に対するものではない。何もできない、自分の無力さに対する、どうしようもない怒りだった。


(護り手、だと…?今の私に、一体、何が護れるというのだ…!)


 ドウジンは、窓枠を、強く握りしめた。

その時、ふと、視界の隅に、レディア姫が眠る、隣室の扉が映った。

あの夜、ドウジンは、無意識のうちに、彼女の枕元に、母の短刀を置いてきていた。

まるで、自分の代わりに、彼女を護ってくれと、祈るように。


 その瞬間、ドウジンの頭に、一つの考えが、稲妻のように閃いた。

(そうだ…。道は、一つしか、ない…)


 その決意が固まった瞬間、隣室で眠るレディアの枕元で、彼が置いていった母の短刀が、ふわりと、一度だけ温かな光を放った。その光は、閉ざされた扉を抜け、時空を超え、魂だけの世界にいる彼女の元へと、確かに届いていた。


 もはや、迷っている暇はない。

ドウジンは、部屋の扉を開け、廊下に控えていたカリムを呼び寄せた。

「カリム。もう一度、陛下と王太子殿下にお会いする。謁見を申し入れてくれ」


「……! かしこまりました」

カリムは、ほんのわずかな間で、主君の纏う空気が、まるで別人のように変わったことに気づき、驚きながらも、その迷いのない光を見て、力強く頷いた。


━━✦━━


 再び、玉座の間に通されたドウジンを、父ヴァレノスと兄ドルトンは、いよいよ訝しげな表情で迎えた。

「……まだ、何か言い足りぬことでもあるのか、ドウジン」

ドルトンの声には、苛立ちが滲んでいる。


 ドウジンは、再び部屋の中央で膝をつくと、今度は、先ほどとは違う、静かな、だが、揺るぎない声で言った。

「陛下。先ほどの王命、確かに拝聴いたしました。ですが、その上で、改めてお願いがございます」


「……申してみよ」


「私は、ネファリスとして、巫女であるレディア姫を護るという使命、必ずや、この身命を懸けて果たしてみせます。…ですが、兄上。今の私に、眠り続ける姫君の枕元で、ただ祈ることしかできぬのが、本当に『護る』ということなのでしょうか」


 その、思いがけない問いに、ドルトンは言葉を失った。


 ドウジンは、続ける。

「姫君を蝕むこの眠りが、ドミネン兄上を連れ去った“何か”と同じ力によるものであることは、明白です。そして、彼女は神秘の国、アルシアの巫女。ならば、彼女を救う鍵は、セリオンの武力や科学ではなく、彼女の故郷、アルシアの古文書や、伝承、祈りの力にあるはずです」


 彼は、そこで一度、言葉を切り、父と兄の目を、真っ直ぐに見つめた。


「兄上が、王太子として、武力をもってドミネン兄上の捜索という『外』の脅威に当たらるのであれば、私は、ネファリスとして、眠りについた巫女を救うという『内』の脅威に、立ち向かいたいと存じます。そのために、私はアルシアへ向かいます。どうか、お許しください!」


 それは、ただの反抗ではなかった。

古より継承された「ネファリス」という使命を、誰よりも深く理解し、その上で、自らの意志で、自分のなすべき事を見つけ出した、一人の男の宣言だった。


 ドルトンは、呆然と、目の前の弟を見つめていた。いつの間に、これほどの覚悟をその身に宿したのかと。

玉座の間に、再び沈黙が落ちる。


 やがて、その沈黙を破ったのは、父王ヴァレノスの、喉の奥で、く、と一つ、短く笑う声だった。


「……よく言った、ドウジン」


 その声に、面白がる響きはない。ただ、己の想像を遥かに超えて成長した末の息子への、静かな感嘆と、そして、これから彼が歩むであろう過酷な道への、父親としての憂いが、複雑に混じり合っていた。


「良いだろう。…その道、お前の好きに進むが良い」


「陛下!」


「ただし」

驚くドルトンを、ヴァレノスは手で制した。

「それは、セリオン王国からの、正式な使節団ではない。お前個人の、ただの我儘だ。よって、王国からの援助は一切ない。兵もつけぬ。それでも、行くと言うか」


 それは、あまりにも過酷な条件だった。

だが、ドウジンは、迷わなかった。


「―――御意」

彼は、深く、深く、頭を下げた。

「そのお許し、感謝に堪えません」


 その姿を、ヴァレノスは、満足げに、そして、どこか寂しげに、ただ、じっと見つめていた。


━━✦━━


 やがて、ドウジンの足音が完全に消えると、それまで沈黙を保っていたドルトンが、父へと向き直った。


「父上、よろしいのですか。あのような無謀な旅を、お許しになって…」

その声には、弟を案じる兄としての、切実な響きがあった。

「兵もつけず、カリム一人を供に…。あれはまだ、外の世界の本当の恐ろしさを、知らぬのですぞ」


「……ドルトンよ」

ヴァレノスは、玉座に深く身を沈めたまま、静かに言った。

「籠の中の獅子は、牙を研ぐことを忘れる」


「……ですが!」


「あやつは、もう籠の中に収まる器ではない。行かせてみよ。…奴の牙が、本物かどうかをな」

王は、続ける。その瞳は、遥か未来を見据えているようだった。

「それに……ネファリスの道は、誰かが敷いてやれるほど、甘くはない」


 その言葉に、ドルトンは、ぐっと唇を噛み締めた。父の真意を悟り、それ以上、何も言うことはできなかった。

「……御身を、お大事に」

彼は、深く一礼すると、静かに玉座の間を後にした。



━━✦━━



 やがて、ドルトンの足音も完全に消え去り、玉座の間に、再び絶対的な静寂が戻る。

ヴァレノスは、玉座に深く身を沈めたまま、誰に言うでもなく、静かに呟いた。


「……ゼフィド。いるか」


 柱の影から、音もなく一つの人影が姿を現し、王の前で、深く膝をついた。

「はっ。御前に」


「……例の計画の進捗は、どうだ」


「はっ。レノヴァンに万事、滞りなく進めさせております」


「うむ、ならば良い。だが…」

王は、目を伏せた。その脳裏には、辺境の惨状と、眠り続ける巫女、そして、己の道を歩き始めた、二人の息子の姿が浮かんでいた。

「決戦は、我らが思うよりも、近いのかもしれぬ。……急がせよ」


「―――御意」


 ゼフィドは、静かに一礼すると、再び、音もなく、影の中へとその身を溶け込ませていった。

一人残された王は、ただ、静かに目を閉じ、来るべき夜明けと、そして、さらに深い闇の気配を、その身に感じていた。



━━✦━━



 一方、レディアの意識は、冷たく、暗い、何もない空間を漂っていた。イルメナスに魂を蝕まれた後遺症で、夢を見ることも、光を感じることもできずにいた。

 だが、その時。遠くで、誰かが激しく言い争う声が、微かに響いた気がした。

(……ドウジン、様…?)

なぜ、彼のことを思い浮かべたのか、自分でも分からない。

 すると、胸のあたりが、ふわりと、温かくなった。枕元に置かれているはずの、あの短刀の熱が、魂だけの世界にいる彼女にまで、確かに届いている。

 その温もりを頼りに、意識を集中させると、彼女は「視た」。

玉座の間に一人立ち、王と王太子を相手に、一歩も引かずに、自分のために言葉を尽くす、若き王子の姿を。

 その姿は、もう少年ではなかった。巫女を護るため、運命に立ち向かうことを決意した、「ネファリス」の姿だった。

(あぁ……あなたは……)

 その気高い姿に、レディアの魂は、ほんの少しだけ、光を取り戻す。まだ、目覚めることはできなくとも、彼女の心に、小さな希望の種が、確かに植え付けられた。



━━✦━━



 その夜、城の厩舎の裏手で、二つの人影が、密かに行動していた。ドウジンとカリムだ。

王の許しは得た。だが、援助はない。すべてを、自分たちだけで準備する必要があった。

カリムが、信頼できる部下から、最低限の武具と食料を調達してくる。ドウジンは、豪華な礼装を脱ぎ捨て、質素で、丈夫な旅人の服へと着替えていた。


「……本当に、よろしいのですか」

カリムが、声を潜めて問う。

「無論だ」

ドウジンの答えは、短く、そして力強かった。


 そこへ、もう一つの影が、そっと近づいてくる。侍女のニーナだった。彼女は、小さな荷馬車に、薬草や、清潔なリネンを運び込んでいる。その瞳には、不安と、そして、主君を信じる強い光が宿っていた。

やがて、カリムとニーナの二人によって、眠り続けるレディア姫が、そっと馬車の寝台へと運ばれる。


 ドウジンは、馬車の幌の中に入り、静かに眠る彼女の横顔を見つめた。

月明かりに照らされたその顔は、どこまでも儚く、美しい。

 彼は、そっと、彼女の枕元に置かれていた、母の短刀を手に取った。そして、眠る彼女の、冷たい手に、その柄をそっと握らせる。

「……レディア姫。必ず、あなたをお救いします。そして、兄上も…」

 それは、誰にも聞こえない、魂の誓いだった。

「だから、どうか、それまで、あなたの力を、少しだけ、私に貸してください」

ドウジンは、そっと彼女の手の上に、自分の手を重ねた。

夜明けは、まだ遠い。



 第二部―第13章、閉じ。

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