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第二部 【過去編 第12章:月の影、目覚める刃】

城内は、兄・ドルトンが発した厳戒の令に包まれ、重く淀んだ空気が廊を満たしていた。

閉ざされた自室にいても、その息苦しさは皮膚を這い上がり、耳の奥を締め付ける。

遠くで鳴り響く警鐘――金属を打ち合わせた甲高い音が、やがて低く地を這う唸りへと変わり、胸の奥をざわつかせた。


(……火の手は、武器庫の方角。兄上は――ご無事だろうか)


思い浮かべたのは、炎の中でも怯まず采配を振るう屈強な背中――そのはずだった。

だが、影のように割り込んできたのは、あの温室で出会った少女の面差しだった。


光の中で揺れていた金の髪、わずかに伏せられた睫毛、その奥の静かな蒼い瞳。

なぜ彼女が、この騒ぎの近くにいるはずが――

ましてや、幾重もの警備で守られた研究室の方角に――。


(……いや、あり得ない。だが――)


心の奥で、微かな軋みが走る。

その軋みは一瞬で裂け目となり、得体の知れぬ冷たさが背筋を這い上がった。


――ドクン。


腰に佩いた、母の形見の短刀が熱を帯び、ひときわ強く脈打つ。

それは柄から掌へ、掌から血流へ、そして魂の深みへと流れ込み、己の心臓が呼応するように大きく跳ねた。


――声なき悲鳴。

短刀が伝える熱は、遠く離れた彼女の脈動と重なり、胸の内を鋭く締めつける。

どこかで――闇の縁で、彼女の身が危険に晒されている気配がする。

その一歩先は、もう戻れぬ深淵。


(……行かなければ)


喉奥で言葉が形を成すよりも早く、それは声となって迸った。


「……レディア姫!」


その名が空気を震わせた瞬間、世界が足元で弾けた。

窓辺から飛び退き、勢いよく扉を開け放つ。

廊下に控えていた衛兵が驚き、制止の声を上げた。


「ドウジン様! お待ちください!なりません!お部屋へお戻りください!」


しかし、その腕を振り払い、ドウジンは駆け出していた。

腰の短刀が放つ熱だけを頼りに、夜の回廊を走り抜ける。

行き先は――ドミネンと、そして彼女の気配がする研究室へ。


角を曲がった瞬間、冷たい空気の中に微かな甘い香りが混じった。

その先、半開きの扉の影で、金の髪が床に散らばっているのが見えた。


「姫! レディア姫! しっかりしてください! 聞こえますか!」


駆け寄って抱き起こす。血の気を失った顔が、灯火の揺らめきに白く浮かぶ。

その瞳は閉じられ、肩はかすかに震えていた。


そこへ、息を切らしたカリムがようやく追いついた。

「ドウジン様! 如何されましたか、急に……そちらの姫君は……レディア様?!」

その場の緊迫を察した彼の表情が、一瞬で硬直する。


「カリム! レディア姫をひとまず私の部屋へ運ぶ! お前は――」

指示を言い切るより早く、研究室の暗がりから、よろめきながら一つの影が現れた。


「兄上!」

カリムが叫ぶ。現れたのは、後頭部を押さえ、苦悶に顔を歪めたレノヴァンだった。

その表情には、いつもの冷静さはなく、深い悔恨と、自らの失態を呪うかのような苦痛が滲んでいた。


「ゲホッ……ゴホッ……!」

激しく咳き込みながら、レノヴァンが掠れた声を絞り出す。

「不覚を……取った……ドミネン様が……」


「レノヴァン! ドミネン兄上はどうした! 出られないのか!」

ドウジンの問いに応える間もなく、レノヴァンは膝から崩れ落ちる。

カリムが慌ててその身体を支え、「しっかりしてください、兄上!」と必死に呼びかけた。


その時、近衛兵が二名、駆けつけてくる。

ドウジンはその一人を指差し、迷いのない声で命じた。

「すぐにドルトン兄上に知らせよ! 『正体不明の敵の襲撃あり! レディア姫とレノヴァンが負傷した』と! 急げ!」


「はっ!」

近衛兵はその気迫に圧倒され、弾かれたように駆け出していった。


ドウジンはもう一人へ向き直る。

「お前は、カリムに手を貸し、レノヴァンを医務室へ運べ」


「かしこまりました!」


(……ドミネン兄上の気配を感じられなかった…)


胸の奥に冷たい不安が広がっていく。

その不安を押し殺すように、ドウジンは足を速めた。


腕の中の、レディア姫の身体が、氷のように冷たい。だが、今はそのことに恐怖を感じている暇はなかった。

ドウジンは、冷たく、そして軽く感じられるその身体をしっかりと抱え直すと、足早に自室へと向かった。


━━✦━━


先ほどまでの喧騒が嘘のように、城の中は、不気味なほど静まり返っていた。

間もなく、東の空が白み始める。夜と朝の狭間で、世界が最も冷える時間だった。


自室のベッドで横たわるレディア姫の世話を、駆けつけたニーナと医務官に任せると、ドウジンは、レノヴァンが運ばれたという医務室へと急いでいた。

(あのレノヴァンが、不覚を取るほどの相手…。一体、何があったんだ…?そして、ドミネン兄上は…?なぜ、あの場にいなかった…?)

ドウジンは、一抹の不安を抱えながら、想像しうる最悪の事実と、信じたくないという必死な思いとが、頭の中でせめぎ合っていた。


医務室の前まで来ると、扉の隙間から、押し殺したような、それでいて激しい怒りを含んだ声が聞こえてきた。


「どういうことだ!そのような戯言、信じられるか!」


ドルトン兄上の声だった。ドウジンは息を呑み、そっと扉に耳を寄せる。


「申し訳…ございません。ですが、あらゆる状況から判断いたしますと、ドミネン様ご自身の意志で、研究室を出られたとしか…」

レノヴァンの声は、首を痛めたせいか、ひどく掠れていた。ベッドに上半身だけを起こした彼は、苦痛に顔を歪ませながらも、冷静に事実だけを述べようとしている。そして、その事実こそが、ドルトンを激昂させていた。


「黙れ!では、ドミネンが我らを裏切り、あの混乱に乗じて出奔したとでも申すか!反逆だと!」


反逆。

その言葉が、ドウジンの頭を、鈍器で殴られたかのように、ぐらりと揺さぶった。

(兄上が…?あの、優しかった兄上が…裏切り…?)

ドルトンの声は、いつになく荒々しい。ドウジンが見たこともないほど、純粋な怒りと、そして、悲痛な動揺が、むき出しになっていた。


その時、部屋の中から、静かな、けれど有無を言わさぬ声がした。

「――ドウジン様。立ち聞きは、感心いたしませんな」


はっとしたドウジンが顔を上げると、いつの間にか、扉の前にゼフィドが音もなく立っていた。その瞳は、すべてを見通しているかのように、静かにドウジンを見つめている。

「さぁ、お入りなさい。あなた様もまた、この問題の当事者のお一人なのですから」


ゼフィドに促され、ドウジンは、覚悟を決めて、重い扉の中へと足を踏み入れた。

張り詰めた空気。薬草の匂い。そして、ベッドに身を起こすレノヴァンの、苦しげな様子。その全てが、ドウジンの肌をピリピリと刺した。


「……ドウジン」

弟の姿を認め、ドルトンが、少しだけ落ち着きを取り戻した声で尋ねた。

「レディア姫は、どうした」


その場の空気に気圧されそうになりながらも、ドウジンは、はっきりと答えた。

「はい。今はまだ眠っておられますが、身体に異常はないと、医務官は申しておりました。侍女のニーナが、付き添っております」


「そうか……。お前は、彼女の側にいてやってくれ」

兄のその言葉には、深い疲労が滲んでいた。彼が、言葉を続けようとした、その時。


「発言をお許しください、兄上」

ドウジンは、はっきりとした口調で、真っ直ぐにドルトンの目を見て言った。


その声と、瞳に宿る光。

ドルトンは、目の前に立つのが、苛立ちを隠せない幼さを残していた昨日までの弟とは、明らかに違うことに気づいた。彼を取り巻く空気が、この一夜で、まるで別人のように、確かに変わっていた。


━━✦━━


遠くで鳴り響いていた警鐘の音も、今はもう聞こえない。

夜明け前の冷たい空気が、ドウジン様の私室の静寂を、より一層深いものにしていた。

ニーナは、ベッドで眠る主(あるじ)の姿を、祈るような気持ちで、ただじっと見つめていた。


穏やかな寝息をたてるその姿は、いつものレディア様と、何も変わらない。

だが、ニーナは知っていた。一つだけ、明らかに違うものが、そこにあることを。


レディア様が眠る側(かたわら)に、そっと置かれた短刀。ドウジン様が、部屋を去る間際に、置いていったものだ。

その短刀が――レディア様の穏やかな寝息を包み込むように、ゆったりと、優しい明滅を繰り返していた。


その光景は、畏怖すべきものであり、けれど、どこまでも神聖だった。まるで、若き王子の魂が、その身の代わりに、傷ついた巫女を、何ものからも護ろうとしているかのようだった。


「……リュミナ様……。どうか……レディア様を、お護りください……」


ニーナの唇から、祈りの言葉が、自然とこぼれ落ちた。

今、目の前で起きている奇跡が、今は亡き、あの悲劇の王妃の運命と、どうしても重なって見えたから。


この短刀は、かつてリュミナ様が、母国アルシアからセリオンへ輿入れされる際、護り刀として携えてこられたもの。アルシアの祭祀長であるギリア様が持つ祈りの杖の先端に施された“星の雫”と、対になる紋章が刻まれていると聞く。

(お二人の、あまりにも似通った運命が、この奇跡を導いたというのですか……)

リュミナ様もまた、生まれてくる若き王子…ドウジン様を、見えざる脅威からお護りになるため、最期の瞬間まで、祈りを捧げ続けておられた。そのお姿が、どうしても、今のレディア様と重なってしまう。


(レディア様もまた、きっと、ただ眠っておられるのではないのだろう…その魂は、あまりにも大きな宿命を背負い、今は、深く、深く、消耗しておられるに違いない…)


ニーナは、誰に聞かせるともなく、ただ、この儚げな少女が背負う、あまりにも大きな運命を案じ、見守り、そして、祈ることしかできなかった。


━━✦━━


どれほどの時が、経っただろうか。

不意に、静寂を破るように、控えめなノックの音が部屋に響いた。

(この部屋に、訪ねてくる方など…)

ニーナは訝しみながら、そっと扉へと近づく。


「私だ。話がある」


その声の主に、ニーナは息を呑んだ。

こんな場所へ、自ら足を運ぶはずのない存在。セリオン国王、ヴァレノスその人だった。

ニーナは、慌てて扉を開け、深く頭を垂れる。


「陛下…!なぜ、このような場所へ…」


「久しいな、ニーナ」

王は、驚くニーナを意にも介さず、静かに部屋へと足を踏み入れた。その瞳は、まっすぐにベッドで眠る少女へと注がれている。

「レディア姫は、眠っているのか」


「は、はい。深い眠りに…」


「深い眠り、か。…あるいは、魂渉の最中やもしれぬな」

王の口からこともなげに放たれた言葉に、ニーナは再び驚きに目を見開いた。

(この方は、やはり、すべてをご存じなのだわ…)


「わたくしのことまで、覚えていてくださったのですか…」


「あの夜の真実を知る、数少ない者だからな。…だが、縁とは不思議なものだ。お前が再び、アルシアの姫付きとして、この地に戻ってくるとはな」


「陛下…」


「レディア姫の様子は、どうだ」

王は、ベッドの側まで歩み寄ると、眠るレディアの、その青白い顔を、慈しむように見つめた。


「はい。これまでの魂渉の際は、とても苦しげで、見守るわたくしも胸が張り裂けそうでした。ですが、今回は…」

ニーナは、レディアの枕元で、優しい光を放ち続ける短刀へと、そっと視線を促した。


「……リュミナの…。いや、今はドウジンの短刀か」

王は、その光景に目を細める。

「ドウジンが?」


「はい。部屋を出られる際に、レディア様の枕元に。それからというもの、姫様の表情は和らぎ、この短刀も、姫様の寝息に合わせるように、光を放ち続けております」


「……やはり、リュミナの言っていた通りか」


「リュミナ様が、何か…?」


「あぁ。彼女は、息を引き取る間際、こう言い遺した。『この子には、いつか必ず、その魂に応える護り手が現れるでしょう』と。…そして、この短刀を、その時が来るまで、ドウジンに肌身離さず持たせるように、と…」


「なんと…」

ニーナは、それ以上の言葉を失った。

心配そうにレディアを見つめるヴァレノスの瞳に、今は亡き王妃の面影が重なっているのを、彼女は感じていた。


しばし、二人の間に、レディアの穏やかな寝息と、短刀の仄かな光だけが満ちる、静かな時間が流れた。

やがて、王は、一つの深いため息と共に、口を開いた。


「ニーナよ。今から話すことは、決して他言無用だ。…守れるな?」

その声の重みに、ニーナは、ただ、固唾を飲んで頷いた。


「リュミナは、病で死んだのではない。…戦ったのだ。ドウジンを護るため、あの“何か”と。奴は、生まれたばかりのドウジンの魂を器として乗っ取ろうとした。それに気づいたリュミナは、自らの魂を賭して、禁忌の秘術…『魂渉』を使い、ただ一人で奴に戦いを挑んだのだ。…だが、奴の力は、伝説の巫女であるリュミナですら、容易に押さえ込めるものではなかった。彼女の魂が、逆に侵食されかけた、その時…リュミナは、この短刀の力を借り、自らの命そのものを祈りとして捧げ、かろうじて奴を封じ込めた。…結果、ドウジンは守られたが、彼女は二度と目覚めることはなかった…」


それは、あまりにも衝撃的な真実だった。ニーナは、声もなく、ただ震えるしかなかった。


「そなたは、今後、この巫女と、護り手“ネファリス”となるドウジンを、最も近くで見守る者となるだろう。だからこそ、リュミナの想いを、お前に託しておきたい」


「ですが、それは、陛下…あなた様のお役目では…」


「私には、償わねばならぬことがある」

王は、ニーナの言葉を、そっと掌で制した。

「息子たちに、あまりにも重い運命を背負わせてしまった、父親としての、償いがな」


長い沈黙の後、王は、続ける。

「ドルトンには、私亡き後の、この国そのものを。ドウジンには、ネファリスとして、この星のすべての祈りを護るという役目を。…そして、ドミネン…」

王は、眉間に深い皺を刻み、躊躇うように息をついた。

「あの日、玉座の間で、奴はドミネンの唇を借りて、私にこう囁いたのだ。『オマエノダイジナモノハスベテ ワガテノナカダ…』と。…だが、ドミネンは、最後にこうも遺したのだ。『父上…私を解放して下さい…さすれば…』と…」


「では、陛下は…!」


「………」

ヴァレノスは、何も答えなかった。

だが、その沈黙こそが、これから起こるであろう事態への、何より雄弁な警告なのだと、ニーナは悟った。

この方は、何かとてつもなく大きな覚悟を、たった一人で、その胸に秘めておられる。

ニーナは、偉大なる王の、その孤独な横顔を、ただ、そっと見つめることしかできなかった。



 第二部―第12章、閉じ。

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