玉座の間での惨劇から、数日が過ぎた。
城の空気は、あの夜を境に、目に見えて重く、冷たく沈んでいた。誰もが口には出さないが、第二王子の身に起きた異変の噂は、静かに、だが確実に、人々の心に暗い影を落としていた。
レノヴァンの研究室は、以前にも増して、外部との接触を完全に遮断していた。
その中央に静かに佇む《魂安の繭(ケリュキオン)》の中には、あの日以来、ドミネンが深い眠りについている。その眠る横顔は、まるで苦悩から解放されたかのように、不思議なほど穏やかだった。
その、張り詰めた静寂を破り、重厚な扉がゆっくりと開かれた。
現れたのは、国王ヴァレノス陛下と、ドルトン王太子殿下だった。二人の顔には、あの夜よりもさらに深い、疲労と苦悩の色が刻まれている。
「レノヴァン」
ヴァレノス王が、絞り出すように言った。
「……ドミネンの様子は、どうだ。何か、変化はあったか」
「いえ。肉体的には、極めて安定しております」
レノヴァンは、ヴァレノス陛下と王太子殿下へと向き直り、静かに、だが、はっきりと告げた。
「ですが、それは、この繭が、あらゆる外部からの干渉を遮断しているからに過ぎません。ドミネン様の魂の内側で、今もあの“何か”が息を潜めていることに、変わりはございません」
その言葉に、ドルトンが、固く拳を握りしめる。
「……では、我々は、ただ待つことしかできんのか。弟が、あの“何か”に喰われるのを…」
「……一つだけ、分かっていることがございます」
レノヴァンは、プネウマ(霊奏盤)が示す、微弱な波形を指し示した。
「エレボス(侵食)の波は、日増しに、その力を強めております。おそらく、次の新月の夜が、一つの大きな節目となるでしょう」
重い沈黙が、部屋を支配する。
やがて、ヴァレノス王は、まるで自分に言い聞かせるように、小さく、だが、威厳を込めて言った。
「……今は、お前を信じるしかない。ドミネンを、頼む」
「御意に」
レノヴァンは、静かに一礼した。
三人の男たちが、ただ、言葉もなく、繭の中で眠る一人の青年を、それぞれの想いで見つめていた。
━━✦━━
セリオンの神殿は、昼下がりの静寂に満たされていた。
だが、その奥にある祈りの間に座すレディアの心は、嵐の前の海のようだった。
彼女がこれから行うのは、儀式的な祈りではない。自らの魂を危険に晒す、禁忌にも近い秘術――「魂渉(こんしょう)」。
ドミネンのことが気にかかり、彼の魂の状態を、直接その目で視ようと試みていたのだ。
すぅ、と深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
意識を一本の光の糸のように研ぎ澄ませ、彼女は、遥か遠く、レノヴァンの研究室で眠るドミネンの魂へと、その糸を伸ばしていく。
視界から、神殿の石柱や、揺れる灯火の色が消えていく。耳から、遠い風の音が消えていく。
やがて、絶対的な無と静寂が、彼女を包み込んだ。
その、魂だけの空間で、彼女は強く念じた。
(ドミネン様の、魂の在り処へ――)
瞬間、意識が、暗く、冷たい奔流に引きずり込まれる。
次に目を開けた時、彼女が見ていたのは、現実にはありえない、彼の魂の「心象風景」だった。
そこは、荒れ狂う、黒い海。
空には星も月もなく、ただ、絶望を塗り固めたような闇が広がっている。打ち付ける波は、塩の匂いではなく、魂が凍てつくような、深い哀しみの匂いを放っていた。
その、絶望の海の中心に、たったひとつ。
今にも消え入りそうに揺れる、か細い灯火があった。
(……ドミネン様……!)
その光が、ドミネンの魂なのだと、レディアは直感で理解した。
嵐の中で、必死に、自らの存在を燃やしている。まだ、その光は、消えてはいない。
だが――海の底から、ゆっくりと、巨大な“何か”が浮上してくる。
それは、影。あらゆる光を喰らい、あらゆる生命を飲み込む、絶対的な闇。エレボス(侵食)。
その光景を「視た」瞬間、レディアの魂に、あの“黒い影”の冷たい気配が逆流してくる。自分まで、この絶望の海に引きずり込まれるような、凄まじい恐怖。
だが、彼女は怯まなかった。そして、魂で理解したのだ。
この影が、あの灯火を完全に飲み込むのが、次の新月の夜なのだと。
「―――っ!」
レディアは、自らの意志で、強引に魂渉を断ち切った。
はっ、と息を吸い込むと、そこは見慣れた神殿の、冷たい石の床だった。
全身は、冷たい汗で濡れている。心臓が、警鐘のように激しく脈打っていた。
もう、ただの「予知夢(よしむ)」を待つ猶予はない。
自ら、動かなければ。
レディアは、震える手で、ぎゅっと祭衣の胸元を握りしめた。その蒼い瞳の奥に、今、初めて、定められた宿命に従う巫女ではなく、ただ一人の魂を闇から救い出そうとする、確かな意志の光が灯っていた。
━━✦━━
魂渉(こんしょう)から戻ったレディアの顔は、血の気を失い、まるで深淵を覗き込んできた者のように、深く、静かな光を宿していた。
侍女であるニーナが止めるのも聞かず、彼女は、ふらつく足で、一直線にドルトン王太子の私室へと向かった。
その頃、ドルトンは、辺境から持ち帰った地図を広げ、忌々しげに眉間の皺を深くしていた。「沈黙の災い」が広がっていた村々の位置は、まるで毒が体を蝕むように、セリオンの国土を黒く染めている。
そこに、レディアが、ノックもそこそこに、駆け込んできた。
「ドルトン様!」
「レディア姫…?どうなされた、その顔色は…」
ドルトンは、彼女のただならぬ様子に、驚いて立ち上がる。
「お願いです、わたくしの我儘だと、思わないでください。ですが、これだけは、お聞き入れください。
……次の新月の夜、何があっても、ドミネン様をお守りください。必ず、です」
その言葉に、ドルトンは息を呑んだ。漠然とした災いの予言ではない。あまりにも具体的で、個人的な、必死の願い。彼は、レディアの瞳の奥に、自分自身が辺境で垣間見た、あの魂のない村人たちの、得体の知れない恐怖と同じ“深淵”の色を見た。もう、彼女の言葉を疑うという選択肢はなかった。
「……わかった。信じよう」
ドルトンは、力強く頷くと、すぐに近衛兵に命じた。
「すぐに、ゼフィドをここへ!そして、警備隊長もだ!」
程なくして、王の側近であるゼフィドと、屈強な警備隊長が、王太子の私室に集められた。
ドルトンは、地図を睨みつけたまま、静かに、だが、鋼のような響きを持つ声で、号令を下した。
「今この時より、セリオン王城は、最高レベルの警戒態勢に入る」
その場に、息を呑むような緊張が走る。
「全城門を、日の入りと共に完全に閉鎖。私の許可なく、何人たりとも出入りを禁ずる」
「夜間の警備を三倍に増やせ。特に、王族の居住区画…中でも、ドミネンの私室と、レノヴァンの研究室周辺は、蟻一匹通すな!」
「そして――三日後に訪れる、新月の夜。全ての者は、自室にて待機。何者も、夜明けまで、決して部屋から出ることを許さぬ」
それは、王太子として、揺るぎない決断の声だった。
ゼフィドは、黙って、深く頷いた。
セリオン王城は、鉄壁の砦と化した。
だが、彼らはまだ知らなかった。本当の脅威は、彼らが守ろうとする、その壁の内側で、静かに、その時を待っていることを。
━━✦━━
レディアがセリオンに滞在して三度目の新月が、セリオンの空を、完全な闇で塗りつぶしていた。
王城の、誰の記憶からも忘れ去られた地下書庫。その一番奥の壁が、音もなく開き、一人の老人が、蝋燭の灯りを頼りに、隠された通路へと足を踏み入れた。
(王城の警備網は完璧だ。だが、それは“表”の道に限っての話。この城を建てた初代王の時代から、王家の書庫官だけに、代々密かに受け継がれてきた“裏”の道。それを知る者は、今やわたくししかおらぬ…)
老いた書庫官。長年仕えた王家を裏切ることへの、ほんのわずかな罪悪感。だが、それ以上に、脳の芯を焼くような、あの声に逆らう恐怖が、彼の老いた身体を支配していた。(これは裏切りではない。古き神に代わり、この星を真に導く、新たなる神の降臨を手助けする、神聖な儀式なのだ)と、彼は、震える自分に言い聞かせていた。
湿った空気と、カビの匂いが鼻をつく。洞窟の奥から、ぽたん、ぽたん、と、時を刻むような水滴の音が、規則正しく響いてくる。肌を刺すような冷気が、彼の頬を撫でた。
長い通路の先は、大きく崩落し、広大な地底湖へと繋がっていた。
水面は、鏡のように静まり返っている。だが、その中心だけが、まるで深海の生物のように、仄かに、そして不気味に、青白い光を放っていた。
光が、とくん、とくん、と脈打つたび、洞窟全体が、わずかに、だが確かに、共鳴するように振動する。その光は、水面に反射し、洞窟の壁に、まるで生きているかのように蠢(うごめ)く、歪(いびつ)な影を映し出していた。
老書庫官は、湖のほとりで膝をつくと、禁忌の書を開き、そこに頭を垂れた。
誰もいないはずの空間に、彼の、誰かと対話するかのような、か細い声だけが響く。
「……はい……。……いえ、ですが、それは、レノヴァン様の研究室。警備も、厳重で…」
湖の中心の光が、一度、強く明滅した。
返事はない。だが、老書庫官の脳内に、直接、抗いがたい神託が、声なき声となって流れ込んでくる。
『トキハ、ミチタ…』
『ワガ…ウツワヲ トキハナテ…』
「……かしこまりました。…御心の、ままに…」
老書庫官は、ゆっくりと立ち上がると、来た道を戻っていく。
その足取りと、その瞳には、もはや、葛藤の色はなかった。
ただ、与えられた命令を遂行するだけの、虚ろな光だけが宿っていた。
彼が背にした書架の一部が、再び音もなく内側へと滑り込む。
老書庫官は、蝋燭の灯りを吹き消すと、その身を、完全な闇に溶け込ませた。
彼だけが知る、忘れられた通路を、迷いなく、城の反対側へと向かっていく。
やがて、彼が辿り着いたのは、武器庫の地下に隣接する、古い備品倉庫だった。
埃をかぶった武具が不気味な影を作る中、彼は油をたっぷりと含んだ古い布を数枚、手際よく集めると、木屑が積まれた場所にそっと置いた。
火打石を数度打つと、小さな火花が散り、やがて、布にじわりと赤い火が灯る。
火は大きく燃え上がらない。だが、油を含んだ布は、質の悪い、黒い煙を執拗に吐き出し始めた。
その煙が通気口を昇っていくのを見届けることもなく、彼は再び、闇の中へとその身を隠した。
程なくして――
静まり返っていた城の反対側で、けたたましい警鐘の音が鳴り響いた。
「火事だ!武器庫の方角だぞ!火薬に引火すれば、城が半壊するぞ!」
「急げ!鎮火を急げ!」
ドルトンの厳命の下、厳戒態勢にあった兵士たちが、一斉にその場所へと駆けつけていく。レノヴァンの研究室を守るべき兵士たちも、この国家存亡の危機に、苦渋の決断で持ち場を離れざるを得なかった。
王城の意識が、完全に、偽りの脅威へと向けられた、その瞬間。
その夜、レノヴァンは研究室のさらに奥にある、私的な観測室に一人籠っていた。
彼にとって、今夜は決戦の夜だった。プネウマ(霊奏盤)が示す、エレボスの波形は、刻一刻と、予見された臨界点へと近づいている。
彼は、ドミネン様の魂を守るため、防御結界を最大まで高め、魂の波長を安定させる特殊な周波数を流し込む、その刹那のタイミングを見計らうことに、全神経を集中させていた。
ガキンッ!
突如、研究室の照明が落ち、プネウマの波形が乱れる。予備電源に切り替わるまでの、ほんの数秒。研究室は、完全な暗闇に包まれた。
「……やられたか!」
彼が初めて、焦りの声を漏らした、その瞬間。
暗闇と混乱に乗じて、裏の通路から音もなく侵入していた影が、彼の背後に立っていた。それは老書庫官ではない。イルメナスに魂を捧げ、人ならざる力を得た、屈強な男だった。
モニターに意識を集中させていた天才科学者の首筋に、男の無慈悲な手刀が、強く打ち下ろされた。
「ぐっ……!」
声にならない呻きを一つ残し、レノヴァンの意識は、いとも簡単に闇へと沈んだ。
━━✦━━
けたたましく鳴り響く警鐘が、鉄壁のはずだった王城の静寂を切り裂いていた。
その喧騒とは無縁の、レノヴァンの研究室。破壊された動力線が散らす火花が、ゆっくりと光を失っていく《魂安の繭(ケリュキオン)》を、不気味に照らし出していた。
やがて、半透明の囲いが、音もなく開く。
その前に、老いた書庫官が、深々と膝をついていた。
「お時間です。こちらへ」
その声に応えるように、繭の中から、ドミネンの身体が、まるで操り人形のように、静かに起き上がる。その瞳には、もう何の光も宿ってはいない。
老書庫官が先導し、歩き出す。ドミネンの身体は、何の抵抗もなく、その後に続いた。
研究室に隣接された、忘れられた搬入通路の奥へと、二つの影は吸い込まれていく。
城内の喧騒が、嘘のように遠ざかり、あたりは再び、墓場のような静寂に包まれた。
老書庫官が小さな篝火(かがりび)を灯し、さらに奥の、隠し通路へと、ドミネンの身体を促す。
その時、廊下の向こうから、パタパタと、小さな、でも決して折れない意志を持った足音が、闇を切り裂いて近づいてきた。
「ドミネン様、行ってはなりません!」
レディアの声に、ドミネンの身体が、一瞬、ぴくりと反応し、足を止めた。
だが、前を歩いていた老書庫官が、振り返り、まるで邪魔な虫を払うかのように、レディアへ向けて、皺だらけの手をかざした。
瞬間、レディアの足が、床に縫い付けられたように動けなくなる。
ドミネンの身体が、ぎこちない動きで、ゆっくりと振り返った。
『…オマエデハ…ワレハトメラレヌ…』
ドミネンの唇から漏れた、この世のものではない声。その瞳に見つめられたレディアは、動けなかった。魂そのものが、凍りつくような感覚。
そして、意識が、まるで身体から吸い取られていくように、急速に遠のいていく。薄れゆく視界の中、彼女は、床へと崩れ落ちた。
一瞬、ドミネンの身体が、倒れた彼女に手を伸ばすかのように、ためらう動きを見せた。ほんの一瞬だけ、操り人形の糸が緩んだかのように、その虚ろな瞳の奥に、古くて優しい、ドミネン自身の魂の光が、苦痛に歪みながら浮かび上がった。だが、それも束の間、再び深淵の闇に引きずり込まれるように、その光はかき消えた。老書庫官に促され、再び、闇が続く通路の奥へと、その身を吸い込ませていった。
━━✦━━
何の会話もなく、二人は、あの地底湖へと辿り着く。
それに呼応するように、湖の深底より、一つの、脈動する光が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
『ワガナハ イルメナス』
『マッテイタゾ…オマエハ、ワレデアリ…ワレハ、オマエナノダ…』
その声なき声が響き渡ると、光は、今まで以上に、禍々(まがまが)しく、そして美しく輝き始める。
ドミネンの身体もまた、淡く光を放ち始めた。
湖の中心から、一筋の光の触手が、彼の心臓のあたりへと、ゆっくりと伸びてくる。
そして、まるで運命を受け入れるかのように、その光は、ドミネンの身体の中へと、静かに吸い込まれていった。
その光景を、老書庫官は、恍惚の表情で、ただひれ伏して見つめていた。
『…キサマニハ、モウ、ヨウハナイ』
その声が響いた刹那、ドミネンの掲げた手の先から、一筋の鋭い光が放たれ、老書庫官の身体を、いとも容易く貫いた。
「ぐふっ…」
一瞬、助けを求めるように、老人はドミネンへと手を差し伸べた。だが、その表情は、すぐに、満足そうな、恍惚とした笑みへと変わり、そのまま、うずくまるようにして、息を引き取った。
ひとときの静寂の中、ドミネンの身体が、地底湖へと、一歩、また一歩と、足を向け始めた。
その表情は、まだ硬かったが、間違いなく、ドミネンの身体に、もはや彼自身のものとは違う魂が、完全に宿ったのだ。
一瞬、彼が、レディアが倒れていた通路の方角へ、目配せしたように見えた。
だが、それも、ほんのわずかな間のこと。
何の躊躇(ためら)いもなく、その身体は、地底湖の闇の中へと、静かに吸い込まれていった。
その新月の夜以来、第二王子ドミネンの姿を、城内で見た者は、誰もいなかった。
第二部―第11章、閉じ。