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第二部 【過去編 第10章:静かなる侵食】

 窓から差し込む朝の光は、何の憂いもないほどに、ただ、明るかった。

 その穏やかな光の中で、ルーベスの声だけが、どこか必死な響きを帯びていた。


「ドミネン様、ドミネン様」

 陽が高くなるまで目を覚まさぬ主君を案じ、ルーベスはそっとその身体を揺り起こす。


「ん…ルーベス…」

 掠れた、自分のものとは思えぬほど乾いた声だった。

 意識がはっきりしてくるにつれて、熱にうなされていた時の、あの不気味な声が、耳の奥にこびりついていることに気づく。


(……夢だ。夢だったに違いない……)

 必死に自分にそう言い聞かせる。けれど、胸の奥底で、冷たい何かが、確かな存在として、じっと息を潜めていた。

 それは、夢ではなかったと──魂のどこかが、知ってしまっている。


「ドミネン様、ご体調がよろしくないのですか?医官をお呼びしましょうか」

 開け放たれたカーテンから、残酷なほどに快活な陽射しが、一斉に部屋へと流れ込んできた。

 ドミネンは咄嗟に、腕で顔を覆った。

 光が、彼の心の闇を暴こうとするかのように、瞼の裏を焼く。


「大丈夫だ…心配ないよ、ルーベス」


 その言葉に、ルーベスはひとまず安堵の息をついた。

 部屋を見渡すと、枕元には、昨夜も読まれていたのであろう書物が、数冊、無造作に積まれている。その変わらぬ主君の姿に、ほんの少しだけ笑みを浮かべたルーベスは、自らの不安を振り払うかのように、慌ただしく朝の身支度に取り掛かった。


「ドミネン様にしてはお珍しく今日はゆっくりお目覚めでしたね。回復してまだ間がないのですから、ご無理は禁物ですよ」


「さっ、ドミネン様お召し替えいたしましょう」


「あぁ…」

 ベッドから降りようとしたドミネンの足が、そこで止まる。

 シーツから足を下ろした、その瞬間。

 ひやりとした床の感触に混じって、足の裏に──じゃり、と、乾いた音が走った。


 視線を落とすと、そこには、昨夜の記憶には存在しないはずの、乾いた土が、こびりついていた。


(……なんだ、これは)

 身に覚えがない。昨夜、自分は確かにこの部屋で、眠ったはずだった。


 しばし沈黙のうちに困惑していると、ルーベスが近寄ってきた。


「ドミネン様?お足元どうされましたか?」

 純粋な問いかけに、心臓が跳ねた。

 言えない。

 昨夜のことは……何も覚えていないなどと。

 何か、言わなくては。普通の、当たり前の理由を。


「えっ?…あ、これは昨夜あまりに“月が美しかった”から、思わず素足でテラスに出てしまったんだ」


「左様でしたか。では、すぐに拭うものをお持ち致しますね」


「いや、いいんだ。少し永く寝過ぎて頭が冴えない。湯に入るよ」


「かしこまりました。ではお着替えなど用意しておきますね」


「あぁ…」

 力なく返事をしたドミネンは、自室に隣接された浴室へと入っていった。


 無言で見送るルーベス。

 その胸の奥に、冷たい雫がひとつ、ぽつりと落ちる。


(……昨晩は……月など出ていなかったはずだ。新月の、夜だったというのに……)


 ドミネン様の、あまりにも明らかな嘘が、ルーベスの心に、じわりと冷たい染みを広げるようだった。

 なぜ、あのような嘘を……? ただの記憶違いだろうか……いや、違う。

 あの瞳の奥に宿っていたのは、まるで、見知らぬ誰かにおびえているような、迷子の子供のような色──


 兄上がかつて口にしていた、あの言葉が蘇る。


 ……まさか。

 そんなはずはない。

 けれど、主君の魂のすぐ傍に、良からぬものの気配が、確かにまとわりついているような──

 そんな、嫌な感覚だけが、どうしても拭えなかった。


 言い知れぬ不安が、胸の奥に、静かな影を落とす。

 ルーベスは、その影から目を逸らすように、黙って、着替えの支度に取り掛かった。


━━✦━━


 夜明け前の蒼い静寂を破るように、乾いた蹄の音だけが、王城の石畳に響いていた。

 朝露に濡れた城門の前で、ドウジンとカリムは、息を詰めてその時を待っていた。


「……本当に、来られるのでしょうか」

 カリムの不安げな声に、ドウジンは答えなかった。ただ、夜明け前の冷たい空気の中で、東の空をじっと見つめている。

(もう、待っているだけの私ではない)

 ゼフィドに諭されたあの夜から、彼は変わった。兄が直面している現実を、この目で見届け、そして、自分にできることを探す。その決意が、彼をこの場所に立たせていた。


 やがて、朝靄の向こうに、いくつもの人影が現れる。ドルトン王太子率いる視察団だった。

 だが、その姿を認めた瞬間、ドウジンは息を呑んだ。

 彼らが纏うのは、辺境の土埃と、それ以上に重い沈黙だった。出立の時、彼らの瞳に宿っていたはずの精悍な光は、今はもうない。選りすぐりの精鋭たちの顔に刻まれているのは、言葉にできぬ恐怖を目撃した者だけが共有する、底知れぬ疲労と、硬質な覚悟の色だった。


 先頭に立つドルトンの馬が、力なく足を止める。その隣には、父の右腕であるゼフィドが、同じように重い空気を纏って控えていた。

 手綱を近衛兵に預けたドルトンが、重い足取りで馬を降りる。


 彼はまず、自らの部下たちへと向き直った。

「皆の者、大義であった。次の命まで、身体を休めておけ。――ただし」

 一度、言葉を切る。彼の静かで、けれど腹の底から響くような声音が、一人一人の胸に突き刺さった。

「各々が見聞きし、感じたことは、決して無闇に口外してはならぬ。良いな!」


「はっ!」

 短い応えと共に、男たちは一斉に敬礼する。その瞳の色は、皆、ドルトンと同じ、暗く、深い色をしていた。


 部下たちを解散させた後、ドルトンは、そこで初めて、出迎えた弟の姿に気づき、わずかに、痛みを堪えるような顔をした。


「……ドウジン。なぜ、ここに」

 その声は、ひどく掠れていた。


「兄上……お帰りなさいませ。……何が、あったのですか」

 ドウジンは、兄の瞳が、深く淀んでいるのを見て、それ以上、言葉を継ぐことができなかった。


「……今は、話せん。父上に、報告せねばならぬことがある」

 ドルトンは、弟の肩を一度だけ、強く握った。その手のひらから、戦場のものとは違う、魂の芯が冷えるような、ただならぬ疲労が伝わってくる。

「おまえは、レディア姫のそばにいてやってくれ」


 それだけを言うと、ドルトンは、ゼフィドと共に、父王の待つ玉座の間へと、その重い足を引きずるように向かった。

 残されたドウジンは、兄たちの背中が見えなくなるまで、ただ、その場に立ち尽くしていた。


━━✦━━


 玉座の間での父王への報告は、ドルトンの心を、更なる焦燥で満たした。彼が辺境で目の当たりにした、魂のない村人たちの姿、黒い霧の噂――そのすべてを、感情を押し殺しながら報告する。


 静かに聞き終えたヴァレノス王は、玉座に深く身を沈めたまま、重々しく頷いた。

「……ご苦労だった、ドルトン。下がって良い」


「はっ。……父上、失礼ながら、このままレノヴァンの研究室へ参ります。ドミネンのことが、気掛かりです」


「……うむ。行け」


 ドルトンは一礼すると、踵を返し、迷いのない足取りで、研究室へと向かった。公人としての務めを果たし、今度は、兄として、弟の元へ。


 重い扉が閉まり、玉座の間に、王と、その右腕であるゼフィドだけが残される。

 張り詰めていた空気が、わずかに揺らいだ。

 ヴァレノスは、息子が去った扉をしばし見つめていたが、やがて、その視線をゼフィドへと移した。

「……ゼフィド」


「はっ」


「お前の目で見た事実を、ありのままに申せ。そして……王太子の指揮ぶりは、どうであった」

 その問いは、先ほど息子に向けられていたものよりも、さらに深く、鋭かった。


 ゼフィドは、一歩前に進み出ると、揺るぎない声で、淡々と事実だけを述べ始めた。村の人口、被害状況、そして、ドルトンが、自ら先頭に立って情報を収集し、混乱する兵たちを冷静に統率していたこと。

「……ドルトン様は、凄惨な状況下にあっても、決して取り乱すことなく、冷静に、そして勇敢に、兵をまとめておられました。お言葉には出されませんでしたが、そのお苦しみ、察するに余りあります。……王太子として、まことに、ご立派な采配でございました」


 その報告に、ヴァレノスは、ほんの一瞬だけ、父としての顔を覗かせた。誇りと痛みが入り混じったような、複雑な眼差しだった。

「……そうか。ならば、良い」


 王のその一言で、この国の未来を担う二人の男の、静かな対話は終わった。だが、玉座の間に落ちた影は、より一層、濃くなったようだった。


━━✦━━


 レノヴァンの研究室だけが、城の喧騒とは無縁の、冷たい静寂に支配されていた。

 その沈黙を破ったのは、廊下の向こうから聞こえる、その場所にはそぐわない、慌ただしい足音だった。やがて、音は扉の前で止まる。


 コン、コン、コン――


 無機質なノックの音が、部屋の空気を硬質に震わせた。


「……入りなさい」

 レノヴァンは、プネウマ(霊奏盤)の前に座り、背を向けたまま、水面のように静かな声で応えた。その視線は、目の前に浮かぶ複雑な波形から、一瞬たりとも外れてはいない。


「レノヴァン様、ドルトン王太子殿下が、視察団と共にご帰還されました。現在、国王陛下に謁見中でらっしゃいます」


「そうか」

 若い研究員の声にも、レノヴァンはただ短く応える。そして、一拍の間を置き、続けた。

「君たちはもう、下がって良い。この後は、私が許可するまで、誰もこちらには近づけるな。他の者にも、そう徹底させろ」


「は、はい!かしこまりました!」

 研究員たちが足早に退室していく。まるで、これから行われる対話が、決して外に漏れてはならぬ神聖な儀式であるかのように、研究室は再び、絶対的な静寂に包まれた。


 その、張り詰めた空気を、重々しい声が破った。

「レノヴァン。……私だ、入るぞ」


 ノックもない。返事を待つ間もない。

 ただ、そこに在る者の気配だけで、扉は、まるで重厚な城門のように、ゆっくりと開かれた。

 現れたドルトンは、その巨躯を、まるで崩れ落ちるかのように、部屋の隅にあった椅子へと深く沈めた。辺境の土埃と、それ以上に濃い、死の匂いを纏って。


 その重い気配の主が誰であるかを、レノヴァンは振り返るまでもなく察していた。プネウマ(霊奏盤)から視線を外し、彼はゆっくりと椅子を回転させる。そして、その目が、疲弊しきった王太子の姿を真正面から捉えた、その瞬間。


「おかえりなさいませ。ドルトン様」


 常と変わらぬ、静かな声だけが、部屋の沈黙を支配した。


「……はぁ…」

 ドルトンの口から、彼の魂の重さすべてを吐き出すかのような、深いため息が零れた。そして、絞り出すように、たった一言、問うた。

「……ドミネンの、様子は、どうだ…」


 その問いに、レノヴァンは表情を変えぬまま、静かに、そして残酷なほどに、事実だけを告げ始めた。


「肉体的には、一度は回復されました。三日三晩続いた熱も、今は引いております」

 その言葉に、ドルトンの瞳に、ほんのかすかな光が宿る。だが、レノヴァンは、その希望を打ち砕くように、続けた。


「ですが、問題は、肉体にございません。……ドミネン様の精神が、ひどく不安定な状態にあるのです」


「なに…?」


「特に、新月の夜には……一種の夢遊症状が見られます。数日前、意識が混濁したまま城内を徘徊なさいました。その間の記憶は、ご本人には一切ないご様子。今朝も、側近のルーベスから、辻褄の合わぬ言動があったと報告が上がっております」


 ドルトンは、息を呑んだ。辺境の村で見た、虚ろな目をした村人たちの姿が、脳裏をよぎる。


「それは、ドミネン様だけの症状ではございません」

 レノヴァンは、確信を持って言い切った。

「殿下が辺境でご覧になったであろう“沈黙の災い”。その原因と、同一の現象であると、私は推測しております。私が仮に、エレボス(侵食)と名付けたものです」


「エレボス……」


「ええ。肉体を蝕む病ではない。魂、そのものに干渉し、乗っ取るための“侵食”です。感受性の強い魂ほど、その影響を受けやすい。……今のドミネン様は、極めて危険な状態にあります」


━━✦━━


 二度目の新月が、夜空に黒い穴を開けるように、静かに昇っていた。

 ここ一月、ルーベスの眠りは浅かった。兄レノヴァンから、主君であるドミネン様の“研究”について、ある程度の概要を聞かされて以来、彼の心からは、穏やかな時間が奪われていた。ドミネン様ご自身は、口では「大事ない」と仰る。だが、その微笑みの裏にある、言い知れぬ苦悩の色を、ルーベスは手に取るように感じていた。

 そんな眠れぬ夜が続いたある日、ドミネンの部屋に隣接する控えの間でうたた寝をしていた彼の耳に、いつもより苦しげな、ドミネンの譫言(うわごと)が届いた。


 はっとして顔を上げ、様子を窺いにドミネン様の部屋を訪れると、そこにあるはずのドミネンの姿が、寝台になかった。

 瞬間、嫌な予感が全身を駆け巡る。ルーベスは、何かに導かれるように、王城の心臓部――玉座の間へと、息を切らして急いだ。


 そこに広がっていたのは、息の詰まるような光景だった。

 月光の射さない、仄暗い玉座の間。その中央で、ドミネン様が、虚ろな瞳で、父君の玉座をただじっと見据えている。そして、その数歩後ろには、夜遅くまで政務を執られていたのであろう、父君ヴァレノス陛下が、声をかけることもできずに立ち尽くしていた。

 ドミネン様の手には、いつの間にか持ち出された短剣が握られ、その切っ先が、カタカタと微かに震えていた。


 その光景を前に、ヴァレノス王が、絞り出すように、静かに息子の名を呼んだ。

「……ドミネン」

 その声に、ドミネンが、ぎこちない動きで、ゆっくりと父の方を向く。

 その瞳には、何の光も宿っていなかった。ただ、暗く、冷たい、底なしの沼のような闇が広がっているだけ。


 そして、ドミネンの唇を借りて、初めて“何者か”が、その声を発した。

『……チチ…ウエ……アナタノ…チカラヲ……ワレニ……』

 それは、ドミネン様の声ではなかった。深く、古く、この世のものではない、不気味な響き。

 その声に操られるように、ドミネンの右手が、まるで王の佩剣(はいけん)を求めるかのように、ゆっくりと、父王へと伸びていく。


 咄嗟に、ルーベスは動いていた。恐怖よりも、忠誠心が、彼の身体を突き動かす。

「ドミネン様、おやめください!」

 陛下とドミネンの間に割り込み、その腕を取ろうとした、その瞬間。

 ドミネンの腕が、まるで邪魔な虫を払うかのように、軽く動いた。ただ、それだけだった。

 だが、ルーベスの身体は、まるで巨人に突き飛ばされたかのように、抗いようもなく宙を舞い、轟音と共に、広間の壁に叩きつけられた。


「ぐっ…!」

 その物音に、控えていた近衛兵よりも早く、一人の男が玉座の間に駆け込んできた。ルーベスの父、ゼフィド・ギル=フェルドだ。

「陛下!ご無事ですか!」


 壁際で苦悶の声を上げる息子と、主君である王、そして、短剣を構えたままの、正気でないドミネン王子。

 その光景を目の当たりにしたドミネンの瞳に、一瞬、人間らしい、激しい苦痛の光が戻った。

 自分のしでかしたことに、魂が追いついたかのように、彼の顔が、絶望に歪む。


 彼の唇から漏れたのは、声ではなかった。

 喉を裂いて迸る、魂そのものの断末魔。音という輪郭さえ持たない、純粋な苦痛の絶叫が、玉座の間を震わせた。


 ドミネンは、自らの頭を抱え、その場に崩れ落ちると、そのまま意識を失った。


 騒ぎを聞きつけ、レノヴァンが駆けつける。

 彼は、床に崩れ落ちる弟ルーベスと、昏倒したドミネン、そして呆然と立ち尽くす父と王の姿を、冷静な、だが、どこか痛みを堪えるような瞳で見つめた。

 そして、静かに、だが、有無を言わさぬ口調で、父ゼフィドに告げた。

「父上、陛下とルーベスを。……ドミネン王子は、私が研究室へお連れします」

 その言葉は、誰にも逆らうことのできない、冷徹な決断の響きを帯びていた。



 第二部―第10章、閉じ。

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